第26話 まさか
アンジェラは呆然として、すぐそばにあるコンラッドの顔を見つめた。
そこに何か答えが書いてあるのではないかというほど真剣に見つめたけれど、彼の腕の中にいたのでは頭の中が混乱して考えがまとまらない。
昨日からじわじわと存在感を増してきた目の前の男性が、アンジェラの魂に自分を刻み込むかのように近づいてくる。
そこに突然彼から綺麗だと言われたことで、年甲斐もなくカーッと頬に熱が集中してしまった。
いつもなら、まあお上手、とにっこり笑って終わりになる程度のセリフのはずなのに、今は何も言葉が出てこないのだ。彼の目がまるで、本当にアンジェラを綺麗だと思っているように感じ、どうしていいのか分からなくなった。
少しでも離れようと彼の腕に当てた手を押して視線をそらすと、今度は彼の伸びかけたひげが目に入ってしまう。そのせいで今度は昨夜手のひらに受けた感触が甦って、ずっと昔の、狼のキスを思い出してしまった。
ひげを生やすことが珍しくなかった暁の狼。
その口づけを、今のように抱きしめてきた腕を、かたい胸の感触をありありと思いだし、つま先がキュッと丸まった。
(彼から二度も求婚されかけていた? スミレだけではなく、アンジェラとしても? まさか。そんなまさか)
どう考えても、学生時代に彼から求婚されるだけの理由が思い当たらない。なのに何かが引っかかり、ソワソワとさらに落ち着かなくなった。
「コンラッドは昨日、わたくしと友達になりたかったと仰いましたよね?」
確認するようにおずおずとアンジェラが尋ねると、彼は楽しそうに目をきらめかせて「いや?」と言った。
「仲良くなりたかったと言っただけです。友達になりたいなんて、一度も思ったことはない」
その言葉に突き放されたような気がしてアンジェラが怯むと、コンラッドが「そうじゃない」と首を振った。
「アンジェラ。初めて会った時から私は貴女が特別だったんだ。十六歳の時、あのホテルのロビーでのことを、今でもはっきり覚えてる。あの時私はアンジェラ、貴女に一目惚れしたんです」
「まさか」
アンジェラは思わず笑い飛ばそうとして彼の真剣な目に口をつぐみ、今度は力なく「そんなこと有り得ないわ」と呟いた。
「だってわたくしは、地味で目立たないつまらない女だったでしょう」
学生時代のアンジェラは、美しい幼馴染の横でちょろちょろしているだけの存在だった。漫画で言えば、間違いなくその他大勢のモブだった自覚がある。
スミレならまだ分からなくはないのだ。
スミレは前世で好きだった小説のかっこいいヒロイン、町田
実際ヒィズルでは、そこそこちょっかいかけてくる男たちがいて、すっかりシバキ倒……、いや、あしらうことがうまくなったくらいだ。さすがにイリスでは、あんな風にふるまうわけにはいかないけれど。
なのにコンラッドは、心底不思議そうな表情で首を傾げた。
「アンジェラは昔から綺麗でしたよ?」
「~~~っ!」
(だから本気みたいに聞こえるんですってば!)
どう考えてみても、他校の王子様が自分に一目惚れしていたなんてありえない。あるわけがない。どこの少女漫画ですか。
(いえ、これは夢かも。起きたつもりだったけれど、もしかしたら異世界に来たこと自体が夢かも知れないわ)
本当は今日が家庭教師初日かも知れないと現実逃避を始めたアンジェラの髪を撫で、コンラッドがため息を吐いた。
「ねえ、アンジェラ。全然気づきませんでしたか? あの頃私は、貴女に仲のいい男が出来やしないか、常に冷や冷やしてました。会えるのが月一回程度なんて全然足りませんでしたよ。それに。ああ、アンジェラは使用人たちからも人気が高かったのはご存じない? シドニーなど、貴女が妻なら采配が上手だろうと言ってましたけど」
「存じません」
次々出てくる想定外のコンラッドの言葉でシドニーの先ほどの発言が甦り、思わず頭を抱えたくなる。
(まさかと思うけど、さっき話していた奥様って、わたくしのことを言ってたわけじゃないわよね? ちがうわよね? うん。ありえないわ。さすがに自意識過剰すぎるわね)
自分の中でそう結論付け、思い切ってコンラッドの目を見直す。
周りを見渡せばここは彼がいるべき世界ではないのだ。こんな呑気な話をしている場合ではない。それでもコンラッドと視線が合うと走って逃げだしたくなった。
「コンラッド。今は、そんなことを言っている場合じゃ、ないでしょう?」
何でもない普通の声を出したかったのに、か細い声しか出なかったのが悔しくてアンジェラは唇をかんだ。
動揺を打ち消すように心の引き出しを開けまくり、ふと、十代の頃の初めてのキスを思い出した。
太陽神の優しいキスと、彼の優しい眼差し。
それは何度も自分の心を救ってくれたキラキラの思い出で、アンジェラにとってはお守りだった。もしまた生まれ変わっても、唯一持っていけたらいいと思っている幸せな時間。
その思い出に少しだけ落ち着きを取り戻し、そっとコンラッドの胸を押しやり、ようやく彼から一歩離れた。
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