骨壺とナイフ

染よだか

骨壺とナイフ

 約束を忘れることが多くなったのは、手帳に書けない予定が増えたからだと思う。覚えておきたくないことを都合よく忘れるために、覚えておかなきゃいけないことまですっかり取り落としてしまった。次から次へとこぼしていくうちに、頭のなかでカラカラと音がするようになった。かたくて小さなものが頭蓋骨の内側に当たっていて、たまに当たりどころが悪いのか頭痛になる。

 こんなだから彼氏にも愛想を尽かされた。デートをすっぽかした私がどう考えても悪いので責められない。前日の夜と当日の朝、いくつかメッセージがあった。着信履歴は画面いっぱいに連なっていて、それなのに私は昼すぎまでこんこんと眠った。

 傷心旅行なんて銘打って新幹線に乗ってみたら、トーキョーまでは一時間と半分で、思っていたよりもすぐだった。なんの約束もなしに都入りしたのに、SNSで「トーキョーなう」と呟けば誰かしらが一緒にごはんを食べてくれて、当たり前のように奢ってくれた。たぶん、都会にはさみしがり屋が多い。狭い街で身を寄せあいたくて集まってしまう。

 二年ぶりに会ったユキノはすっかり立派な都会人になっていて、仕事のお昼休みをつぶしてランチに連れて行ってくれた。職場に近いというその店は、夜にはイタリアンバルになるらしい。棚ではワインボトルがラベルを並べていた。

「なんかもう生きててくれたらそれでいいみたいなところあるよね」

 二年も経つと、在学時代毎日のように顔をあわせた友達ですら、今をどうやって生きているのかわからなくなっている。ユウコは仕事に病んで心療内科に通っているとか、エイミーは就活を諦めてフリーターに落ちついたとか、そういうことを知ってはいるけど、いつの情報なのか判然としなかった。でもシホとミオリはきっとまともに仕事を続けていて、サヤカは相変わらず絵を描いているんだろう。

「湊のライブ見たよ。がんばってた。すごいよね」

「でも大変だろうね、アイドル業界も」

 湊は二か月で仕事をやめてアイドルになった。二十四歳の美少女の商品価値って、どのくらいでゼロになるんだろう。どんなに着飾ったって女の子はティッシュやトイレットペーパーと同じ消耗品だ。削られている。いつか消えてしまう。




 名古屋からトーキョーまでの往復二万はすぐに元が取れた。私が慣れない乗り換えやスクランブル交差点も、誰かにとっては退屈な日常で、この街はそんな誰かに溢れている。男の人は変わらないことに飽きてしまう生き物なのかもしれない。そして女の子は変わることを恐れている。

 道玄坂を上っていくとそこはホテル街で、女の子の切り札を使えば二時間が簡単に三万になった。女の子のもつ「若い」と「かわいい」は期限つきのフリーパスだから、財布を持たずにどこへだって行ける。ホテルを出ると外はもう暗かった。「晩ごはんご一緒しませんか?」とネットの掲示板に書きこめば次の人はすぐに見つかった。四十二歳のおじさんがわざわざ渋谷まで来てくれるという。

 女の二十四は崖っぷちなのに、男の四十二はまだ若い。その線引きは目に見えないインクで、でも深く、あまりに深くヒトの価値観に刻みこまれている。こうしているあいだにも私はいくらか削られていて、いつかすっかりなくなってしまったら、もう何も残らないのだろうか。残らないかもしれない。だったらせめてお金くらいはあるといい。

「なんでも食べてね。もっと注文する?」

 年収六〇〇や八〇〇じゃこういう遊びはできなくて、少なくとも一五〇〇はないとダメ。この人は一五〇〇から二〇〇〇くらいだからギリギリだ。連れて来られたのはちょっとだけお高い程度の居酒屋だけど、貰えるものが貰えるならなんでもよかった。

 天ぷらがウリのお店だったけど、太りたくないからお刺身ばかり注文して食べた。私は特別かわいいわけじゃないし、よく見るとニキビの痕がいっぱいだから、これ以上価値を落とすようなことは許されない。四十二歳はヤスハルだかヨシハルだか、そんな感じの名前だった。

「これからどうするの?」

 下りのエレベーターの中で約束の一万を渡されて、それを一人目がくれた封筒に入れると四万になった。あと二回セックスしたら十万になる。

「どうしようかなと思ってて。ホテル取ってないんですよね」

「え、そうなの? どうすんの、じゃあ」

「最悪ネットカフェでいいかなって」

 エレベーターを出ると夜の街が発光していた。

 寄り添い歩く男と女、道の真ん中を陣取る大学生らしいグループ、何かを探すような外国人の視線、それらが行き交う人の波を、私はうまく泳げない。

渋谷駅までおじさんの背に導かれながら歩いた。

「せっかく東京来てるのにそれはもったいないでしょ。一緒にホテル泊まる?」

「いや、それは悪いですよ」

「ちょっと変な感じになっちゃうか」

「なっちゃうでしょ」

「じゃあツインベッドだったらいい?」

「何がいいんですか」

「それもそうだね」

 どこを行っても電光掲示板のネオンがうるさく視界の端を焦がした。アルコールが臭うスーツ姿の輪から、一人がこぼれて私の進路をふさいだ。そんな些細なことで簡単に死んでほしいと願ってしまう。

 半身でそれを避けるときすら、私は顔を上げることができなかった。

「じゃあさ、もし、もし変な感じになっちゃったらどうする?」

「お金とりますよ」

 「もし」なんて保険をかけて、いざとなったら本当に冗談にするくせに。いつもそうだ。欲しいのは言い訳で、それさえあれば金銭の授受だって人助けになる。

「ちなみにいくら?」

 もうすぐ駅につくというところでおじさんの足が止まった。

「ヨン。ゴだと嬉しい。ナナくれたら超ハッピー」

 出入りが激しい駅の入口で、私たちは空気の読めない障害物だ。電柱に絡まったビニール袋が助けを求めるようにはためくさまを思い浮かべて、そうなるともう早く少しでも早く、どこへでも連れ去ってほしいと願ってしまう。

 おじさんは広すぎる額に手をやり、少し悩んだようにうなってから(どうせこれもフリだろうけど)、やがて「何もしなきゃいいんでしょ?」とスマートフォンでホテルを探しはじめた。

「ツインで取るからね」なんて無意味な慰め、ないほうがよかった。




 ホテルのツインルームは壁一面がガラス張りで、渋谷の夜は水族館になった。小さな魚が水底で群れ、巨大な看板は瞬きするように明滅を繰り返し、街全体が青白く光っている。トーキョーの夜は一秒間にどれほどの電力を消費しているのだろう。その電力のためにいくらが支払われているのだろう。その金額のためにセックスする女の子は、いったい何人いるだろう。

 地球温暖化が進んだから海面が上昇してどんどん上昇して、うまく波に乗れない人はみんな死んでしまうようになった。だから水平線よりうんと高い、こんなビルの上層階で眠るなら、私は溺れる不安なく船に揺られることができるのかもしれなかった。でもこの部屋にはもれなく四十二歳のおじさんがついてくる。ベッドは船になってくれない。

 朝送ったメッセージは封を切られることなく私が積み重ねたままの姿でそこにあった。彼のなかに私はもういないのだと思うと、いよいよ帰るところがなかった。行くところだってない。軽い頭ほど波にさらわれてしまう。

 ユニットバスの浴室は湯煙に濡れてじっとりしていた。シャワーを終えたおじさんは備えつけのパジャマを着ていて、そのシャツワンピースみたいな足元の心もとなさが生々しくていやだった。不快感はシャンプーで洗い流せないからいつまでも皮膚に貼りついている。脳ではなく皮膚に蓄積されていく。今ではきっと、皮膚のほうが物知りだろう。

 お風呂上りにスキンケアを怠ると、すぐ目元や口元に皺が現れるようになった。化粧水で重たげなコットンを頬にひたひた宛がいながら、まるで手負いの少女みたいだと思う。大人に殴られた幼い患者と、その手当てをするやさしい看護師の一人二役。舞台は渋谷の夜のファイトクラブで、参加資格は女の子にのみ与えられる。

 いつから秒針はナイフになったんだろう。それもジャック・ザ・リッパーみたいなキチガイで、やわらかい皮膚を少しずつ切り刻んでは楽しんでいる。拳なんて大した武器にならないのに、振り回すばかりだからどんどん削れてしまった。この傷(しわ)をごまかすための化粧水も美容液も乳液もクリームもファンデーションもコンシーラーもぜんぶぜんぶお金がないと買えないのに、どうして私は仕事を辞めてしまったのか。

「辞めちゃえば?」

 私が泣いていると彼は半ばめんどくさそうに言った。

「いいじゃん女なんだから。パートでもして、ゆるく生きればいいんじゃない」

 べつに勤務内容に不満があるわけじゃなかった。女だから。そう女だからという理由でお茶くみと掃除ばかりやらされることとか、取り引き先にナメられることとか、「言っちゃ悪いけど女性はね」と暗に否定されたり、上司は飲み会のとき机の下で太腿を撫でてくるし、がんばってもがんばるほど彼は知らんぷりで、やる気なさそうな先輩は結婚して産休とって、「女の子が十時まで仕事なんかしてちゃダメだよ」、じゃあ仕事減らしてよ。でもそれは私が仕事のできないダメな女だからで、こんな疲れてるのに自炊なんかできないし洗濯物はたまるし、化粧してる時間があれば一秒でも寝てたいのにノーメイクだと女捨ててるって言うんでしょ? あと単純に生理前で荒れてた。

 とにかくもう、ほんの少しでいいからやさしくされたかった。

「辞めたら結婚してくれる?」

 って、訊いたのが重かったのかもしれない。こんなの本当に今更だ。




 おやすみなさいを唱えてライトを消すと、地上の騒がしさが立ちのぼってくるような気がした。

 二つのベッドはパーソナルスペースを侵さない十分な距離が保たれていて、ひやりとしたシーツが肌にやさしかった。ツインだろうがダブルだろうが結果は同じことだろうと思っていたけど、私だけを包んでくれる布があるという一点だけで、すでに天と地ほどの差がある。

 薄く引いたカーテンの隙間から青い光が朧に差しこんで、おじさんの後頭部を濡らしていた。私の持ちあわせる言葉だけでこの状況を語るのはよっぽど難しいことに思えた。旅先で一度寝食を共にしただけの行きずりの関係よりも、相部屋の病室で横たわる他人同士のほうがふさわしいような気がする。運命でも必然でもなく、ただ同じタイミングで病を患っただけの。トーキョーはサナトリウムにはならない。保菌者を囲い集めて、パンデミックを楽しんでいる。

「……もう寝た?」

 おじさんの声は少しかすれていた。

 高校一年の林間学校で、夜中に友達とこんなふうに話したことがあった。女子校だったし浮いた話なんかなかったけど、それなりにナイショバナシくらいはしたと思う。あの頃は一つの秘密をわけあうだけで簡単に親密になれたような気がした。

「起きてますよ」

「そっか」

 恋をしたことはまだないけど、いつか結婚して幸せな家庭を築きたい。そう言ったあの子は、今何をしているだろう。好きな人はできただろうか。もしかしたらもう結婚しているかもしれない。そうじゃなくても、知らないおじさんと一夜を共にするなんてことはしてないんだろう。

「そっち行っていい?」

「訊くんですか」

「触らなければいいんでしょ?」

 布の擦れる音がして、おじさんが私のベッドに近づいてくるのがわかった。布団を剥がされると急に足元が心細く感じた。首の裏におじさんの息がかかる。頭が痛い。

 十六歳のあの夜に戻りたかった。当時の精一杯の秘密なんて、今に比べればなんてことない。あの子の肌が薄闇のなかでほんのりと白かったことも、長い黒髪が帯のように枕の上を流れていたことも、いつかきっと忘れてしまう。私の頭はカラカラで、だから私は彼にきらわれてしまった。

 おじさんの手が背後から私の胸をまさぐり、もう一方が太腿を撫でた。やっぱりそうだ。触らないなんてできなかった。うそつき、うそつき、とうわごとのように繰り返しながら、内心どこかで安堵していた。私だってやめることができない。

お金で買われることを一度でもしてしまうと、もう二度と、潔白にはなれない。こめかみの辺りがずきずきと痛かった。きっとこれからも何度だって繰り返してしまう。おじさんも同じでしょ? 触れられたところから皮膚が粟立っていた。彼に再び愛されることはもうないのだとわかる。

 薄く弾力のない皮膚。その向こうにかたい骨があるのを指先で感じていた。なんとなく、骨壺という言葉が思い浮かんだ。私の頭のなかに似ている。閉じこめられているのはきっと骨だ。またカラカラと音が鳴った。

「四だったよね?」

 削られて削られて、いつかすっかり消えてしまうまでに、死んでしまった女の魂くらいは弔わなくてはならない。

「五万がいいな」

 稼がなくては。せめて葬式代くらいは。

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