小牧原美心はいただきますが言えない 31

 情報棟を出ると、雪輝と來華は美心の手を引いて走った。冷たい空気が喉に刺さり、運動の経験が乏しい來華は特に肺が痛くなるのを感じたが、それでも三人は中庭を駆け抜ける。美心は未だに戸惑ったような表情で、いまいち状況が掴めていない様子だったが、彼らは気にせずに走った。色とりどりの文化祭模様がまるで線の様にして視界端を流れる。客引きの声を次々に背中へと追いやり、三人は止まる事無く進んでいった。

「ちょっと、ふ、二人とも! いったい何? どうしたの?」

 引っ張られなが走る美心の揺れる声が響くも、一歩前でそれを聞く二人は、どこか少し楽しそうにすら見えた。

「吉祥寺君が彼に小牧原さんのクラスを教えちゃったから、私たちも早く行かないと」

「行くって? え?」


 美心の戸惑いが更に増す。雪輝と來華もそれには気づいていたが、知らないふりをして走り続けた。校内に入り、階段を駆け上って右に曲がると、三年の教室前は浮いた風船で敷き詰められていた。数メートルの区画内ではあるが、ぱっと見では数え切れないほどの風船が、天井から目線の高さにまで浮いている。赤、青、黄色にピンク。他にも数種類の色の風船が使われていて、前を走っていた雪輝と來華は、綺麗だなという素直な感想を瞬時に抱いた。しかし足は止めることなく、本来しゃがんでくぐるであろうその道を、三人は風船にぶつかりながら、顔でかき分けるようにして駆け抜けた。

「あはははっ、綺麗だったな今のところ」

「えぇ。ゆっくり見たかったわね」

「ちょっと二人ともー」

 その勢いのまま渡り廊下を抜ける。その先の階段を上り、曲がった先の廊下を進むと三人が所属するクラスの教室がある。目的地はもうすぐそこだった。


 しかしその階段を前にして、來華が急に足を止めた。


「ん? どうした?」

 美心を通して手が繋がっているので、残りの二人も止まらざるを得ず、雪輝が不思議そうに尋ねた。

「私はここまで」

 來華がにこっと微笑んで答える。

「嫌われ者の私が小牧原さんを連れてきたとなれば、吉祥寺君の考えは多分破綻してしまうでしょ」

「そんな事……」

「嘘。ホントは分かってるくせに」

「……」

 雪輝は黙り込んでしまう。

「ふふっ。なんだか脱出ゲームの時の事を思い出すわね。あの時も、私が消えるべきだって吉祥寺君も気づいていたのに、最後まで諦めようとしなかった。頭がいいのに馬鹿なんだから」

「……でもよ」

「いいの。私を諦めなかったっていう事実だけで十分。それだけで充分に、私はあなた達からは嫌われていないって、胸を張って思える。それが一番嬉しいの」

 來華は美心を見る。

「近くで見守っているわ。だから行ってきて」

「來華ちゃん……っていうか私まだこの状況がよく分かってないんだけど」

 美心のその言葉を聞いて來華はまた小さく笑った。

「頼んだわよ、吉祥寺君。連絡は私がしておく」

「――ああ」

 すると「行こう美心」といって雪輝は彼女の手を引いた。一人階段に残された來華が、二人の背中を見送る。そしてスマホを取り出して、神原裕彦と書かれた番号に着信を入れた。

「東雲です。例のお仕置き、予定通りになりました」

 電話先から神原の「りょーかい」という声が聞こえてきた。スマホを仕舞い、來華は改めてゆっくりと階段を上り始める。



 雪輝と美心が教室にたどり着いた。少しホラーチックに装飾された教室で、外には脱出ゲームと書かれた看板も出ている。廊下に立っていたクラスメイトの女子生徒は、先週の土曜に、美心と教室で写真を撮っていた子だった。その子が美心の存在に気づいて駆け寄ってくる。


「よかった小牧原さん戻ってきた」


 彼女がそう言うと、教室の前方の扉からまた数人の生徒が出てきた。その扉の先は、教室内につくられた脱出ゲームの壁の裏の控室になっており、中から出てきたのは全員雪輝と美心のクラスメイトだった。その中には美心と同じ衣装を着たリョウの姿もある。

「先生の呼び出しはもういいの?」

 リョウが美心に問いかけた。

「あ、う、うん。大丈夫」

「よかったー。これで僕はお役御免だよね」

 リョウがそう言って衣装を脱ぎ始める。隣にいた女子生徒が少し名残惜しそうにして「えー笠原君も可愛くて似合ってたのに」と口にした。

「嫌だよこんな女装みたいなこと! ていうか可愛いって言われても嬉しくないからね。僕は男なんだから」

 そう言ってリョウは可愛らしく文句を垂れた。


「なぁ、それよりちょっとチャラそうな学外の客は来なかったか?」


 雪輝がクラスメイトに質問する。その場にいた面々が顔を見合わせて「あー」と呟いた。どう見ても心当たりのある様子で、美心は少し悲しいような、怯えたような顔をした。雪輝の背中に隠れるようにして控えめにその服を握る。その手が震えているのを雪輝も感じ、振り返っては笑みを作って「大丈夫」と美心にだけ聞こえるようにそっと呟いた。


「それっぽい人なら今中に――」


 とリョウが答えている最中、教室の中から「聞いてほしいことがある!」という叫ぶようなハルキの声が聞こえた。

 背中の美心がビクンと跳ねる。

「ねぇ……やっぱりヤダよ……私、ここに居たくない……」

 美心は今にも泣き出しそうだった。その気持ちは雪輝にも痛いほど伝わっている。自分がみんなについてきた嘘をバラされて、今まで築いた関係が終了するその現場になんて、居たいと思う人間がいるはずもない。美心も恐らくは、雪輝たちが無理やり連れださなければ、あのまま情報棟で全てが終わるまで身を隠しているつもりだったのだろう。

 彼女のその恐怖が分かっているからこそ、雪輝はハルキに美心のクラスを教えたのだった。全てを早く終わらせるために。


 廊下にいた面々は、中から聞こえてくる声に慌てて様子を見に伺った。外に残されたのは雪輝と美心だけだ。


「オレはこのクラスの生徒、小牧原美心と同じ小中学校だった内山春樹だ」


 そう告げる声が外にまで聞こえてくる。雪輝の服を握る美心の手の力がさらに強くなった。

「美心、大丈夫だ。オレ達を信じろ」

「……どういう事?」

 美心の瞳はもう涙で濡れていた。しかしそのぼやけた視界で捉えた雪輝の顔に、彼女はなぜか小さな安心感を覚えた。

 雪輝がふと何かを感じて横を向く。その視線の先には來華が隠れるようにして立っていた。二人の目が合い、こくんと頷き合うと、雪輝は美心の手を引いて教室の入り口に立った。


「小牧原美心は『アカシアの救徒』という宗教団体に入っている」


 ハルキは印刷したウェブページの紙をバラまいた。それは前に雪輝も見たアカシアの救徒のホームページだ。そこには美心の写真も写っている。

 周りにいた人達は紙を拾い上げて文章と写真を確認した。拾った人たちを中心に、ざわめきが起こり始める。


「オレは警告に来た。コイツはいい顔をして人に近づき、タイミングを見計らって勧誘するカルトだ! オレを含め、中学の時に騙された人は沢山いる。そしてこれ――」


 今度は別の紙を数枚取り出し、近くにいた適当な人に渡した。受け取った生徒の周りに人が集まり、その子がその数枚の同じ紙をまた近くのクラスメイトに回す。


「その紙にはカルト達の規則が書かれている。一番上の項目を見ろ! そこに書いてあることを要約すると、こいつらは同じ宗教以外の人間と、友情や恋愛感情を抱くことを禁止しているって意味になる。つまり小牧原美心は、お前らの事を友達とも思っていねえ。ただのカモだと思ってるって事だ!」


 ハルキが言い放ったその声に、この場にいる全員が言葉を失った。

 静まり返った教室に「ぱたん」と、腰が抜けたようにへたり込む美心の音が響いた。ハルキを含め、教室中の視線が出入り口の美心に注がれる。雪輝は一歩引いて、その後ろから美心を見守った。


「小牧原さん……?」


 先ほど廊下で会った女子生徒が、信じられないといった目で美心を見つめた。その視線に耐えられなくなったのか、ついに美心の頬を涙が伝う。

 その顔を見てハルキが口角を上げた。気づいたのは雪輝だけだったが、彼にはその顔が笑っている様には見えなかった。かといってもちろん憐れんでいる様にも見えない。この表情は、もっと複数の感情が複雑に絡み合ってこそ生まれるものだと雪輝は思った。しかしその中でも確かに感じたのは、何か安堵のようなものと、サディスティックな感情だった。


「私……違うの……」

 美心の瞳が焦点を失う。この場にいるクラスメイトに、その姿はあまりにも痛々しく映った。


「以上が警告だ。言った事は全部事実だからな。そのサイトを見に行ってみるといい。ちゃんとコイツの写真が載っている」

 ハルキは最後にそう言って教室を出て行こうとした。その動きに雪輝は軽く慌てる。彼の考えでは、ハルキにはまだ教室内にいてもらう必要があった。引き留めなければと一歩踏み込んだ時、彼を止めたのはその背後にいる、先程美心に声をかけた女子生徒だった。


「ちょっと待ちなよ、アンタ散々な事言って何帰ろうとしてんの?」


 その声色からは怒りを感じ取れる。ハルキは振り返り、その声の主を見つめた。

「言ったろ? 警告をしに来ただけだって」

「ただの嫌がらせじゃん! っていうか小牧原さん、大丈夫?」

 女子生徒が美心の元に駆け寄る。するとそれを皮切りに、周りにいたクラスメイトもみんな美心の元に集まった。

 もうただ泣く事しか出来ないでいる彼女を囲むようにして全員がハルキを睨む。

「……はぁ?」

 この光景が予想外の出来事だったのか、ハルキは軽く一歩後ずさりをした。

「お前らさっき言ったろ。コイツはみんなの事友達だとすら思ってないんだぞ? 騙して近づいて、カルト教団に勧誘しようとしてたんだぞ?」

 するとリョウが呆れたように答えた。


「小牧原さんがそんな事するわけないじゃん」


 その言葉に美心の心臓が早鐘を打った。ドキリとして息の詰まるような苦しさが全身を襲った。


 『みんなはまだ私を信じてくれている』


 そう思うと、秘密という罪悪感が堰を切ったかのようにして溢れだした。その気持ちは体の外に涙となって現れる。もう嗚咽も止められない。

「こ、小牧原さん……! 大丈夫。泣かなくて大丈夫だよ」

 背中をさする。美心は「ごめん……ごめんなさい」と繰り返すだけだった。裏にいた他のクラスメイトも何事かと集まり初め、廊下にも溢れるほど人だかりが出来る。その中にはタケルの姿もあった。彼は雪輝に近づき「なんかえらい事になってんな」とだけ呟いた。もう教室は人に囲まれ、ハルキも出ように出られなくなっている。しかしその中で彼は、床にへたり込み泣きじゃくる美心を見て、今度はしっかりと笑みを浮かべたのだった。


「うぅ……ごめん。ごめん、みんな……」

 美心が泣きながら話し始める。

「謝らないでよ、小牧原さん。まるでこの人の言ってることが本当みたいじゃない……」

 美心が力強く首を振った。そしてなんとか呼吸を整えようと胸に手を当て、深呼吸をする。全員が黙って美心の言葉を待った。


「……私は、宗教二世です」


 その言葉に静まり返った。

「……私はみんなと、友達になれない……です。信者以外とは……恋愛も出来ないです……。他の宗教のイベントに参加できなかったり、競争が出来なかったり……いただきますって言えなかったり……それ全部……全部みんなに隠してた」


 涙まじりの彼女の告白に、誰も口を挟むことは出来なかった。ただじっと彼女を見つめる姿は、全員がまるでかける言葉を探している様にも見えた。

「ごめんなさい……っ! 私……私ただみんなと……」

「ホラ言った通りだろ! 認めたぞ。黙っていい顔だけして、友達だと思わせて近づいたんだ!」

 ハルキが叫ぶように言う。その言葉に美心は必死に首を横に振った。


 するとどこかで「ヴー」というバイブ音が聞こえた。その音はタイミングがずれながらも、気づけばいたるところからいくつも聞こえてきた。一人の生徒が鞄の中からそのバイブ音のするタブレットを取り出した。他のバイブ音も、全て学校支給のタブレットから出ていた。タブレットを取り出した男子生徒がロイロと言う授業支援アプリの通知を開く。そこには謎のアカウントからの、一年二組の生徒全員に向けて画像の一斉送信があったとの旨が表示されている。不思議に思いつつも、その男子生徒はその画像を開いた。同じように手元にタブレットを持っていたクラスメイトが他にも数名いて、全員その画像を表示する。そして数秒、あるいは十数秒。その画像を見つめた生徒たちは、そろって顔を上げ、教室の真ん中に立つハルキに向かって嫌悪の視線を向けるのだった。


「……あぁ?」


 その視線に気づいたハルキは、あからさまに不快感を示す。しかしタブレットを持っていた生徒たちはそれを隣へ回し、受け取った人が読んでまた隣へ回す。謎のアカウントによって送信された画像は、回覧板の様にして教室内の生徒たちの目に入ることになった。そしてタブレットは、美心の隣で背中をさすっていたあの女子生徒のところまで回る。そこに表示されている『ハルキのSNSのスクリーンショット』を読んで、その女子生徒もまるで憎悪にも似た視線を突き刺した。


「サイッテー」


 女子生徒はそう吐き捨て、そのスクリーンショットをハルキ本人にも見せた。ハルキは「……なっ」と声を上げて驚き、首を回して雪輝を睨みつける。

「……テメェ」

「……」

 雪輝は何も言わなかった。その顔には多少の罪悪感のようなものも伺えた。その逸らすような視線が、全てが仕組んだものだと物語っている。

「こんなのただのいじめじゃん! 小牧原さんごめんね、私達何も気づいてあげられなくて」

「……え」

 優しくそう言われて美心は小さく驚きの声をもらした。

「警告とか言って、ただ小牧原さんをいじめに来ただけじゃん!」

 すると周りにいたクラスメイトも「そうだ!」「帰れ!」と思い思いの言葉を吐く。



 ……雪輝の予想通りだった。


 人間の持つ正義という醜い暴力。そしてその正義はいつも多数決だ。

 美心はみんなに好かれいている。このクラスで小牧原美心の事を嫌いな人はいないだろう。その時点でもう、こうなる事は目に見えていた。それはたとえ美心がみんなに秘密を抱えていて、みんなの事を友達だと思う事が出来なかったとしても揺らぐことは無い。これは『優しい小牧原さん』の作った繋がりの強さと言ってもいいだろう。クラスに戻った雪輝が美心を見続けて、確信した結末である。神原に頼んで流してもらったSNSのスクリーンショットは、言わば起爆剤のようなものだった。いじめとはいつも『自業自得』という、あまりに綺麗で無慈悲な大義名分から始まるのだと、雪輝は知っていた。彼のSNSには非難されるべき汚い言葉が沢山載っていて、それこそ正義の元に排斥されるには十分だったのだ。するとどこからか放物線を描くように鞄が宙を舞った。それは避ける間もなくハルキの顔に当たる。投げたのはスクリーンショットを見た男子生徒だった。

 來華がこれをお仕置きと表現したのも、時折見せた雪輝の申し訳なさそうな顔も、全てはこうなる事が目に見えていたからこそだった。

「なんだよお前ら! そいつに騙されてたのになんで守るんだよ!」

 足元に落ちた鞄を拾い上げ、ハルキが投げ返す。


「友達だからに決まってるでしょ!」


 女子生徒が叫んだ。美心はその言葉にハッと息をのむ。そして同じ反応をした人がもう一人いた。ハルキだ。

 全てを知ってもなお美心の事を友達と言い張るそのクラスメイトを見て、ハルキは雪輝の考えを察した。一人で来るように仕向けられた時点で、初めから勝ち目なんて無かったのだと。そして、かつて自分が美心の為にやろうとしていた事を思い出す。クラスのヘイトをアカシアの救徒に向けて、美心をいじめから守ろうとした愚かな作戦。あの時は失敗に終わり、逆に美心を苦しめることになってしまった作戦だったが、雪輝がやったのも同じようなものだった。そして今回、敵役に選ばれたのは自分。アカシアの救徒という現実味の無いカルト教団ではなく、自分はもっと等身大で、身近で、弱点だらけの敵だ。現にこうしてこのクラスは美心を守り、自分に敵意を向けている。あの時美心を苦しめるきっかけになった自分の出しゃばりな作戦を、この男は完ぺきな形で遂行したんだと、認めざるを得なかった。

 そう思うともう、何も言う気になれない。再び物を投げつけられてももう、返す気力もなくなった。


「……」


 黙って突っ立つハルキを見て、雪輝は空気が変わるのを感じた。美心を守るという空気から、弱ったハルキを攻撃する空気に変わる。これは雪輝の望む結末ではない。むしろ危険だと感じていた。人の根底にある攻撃性を、雪輝は身をもって知っているからだ。彼はこの場を、クラスメイトそれぞれが美心との付き合い方を改める場にしたいと考えていた。その為には各人にも、美心に頼りすぎていた事と、彼女の気持ちを考えようとしなかった事を反省をしてもらいたいと思っている。そうするためには、今攻撃性を出されるのは良くなかった。美心を守ったという気持ちでは、誰も反省などしないからだ。

 雪輝は前に出て、ハルキに最後の仕事だと言わんばかりに尋ねる。


「……お前さ、本当は気づいてるんだろ? 美心に勧誘の意図がないってこと」


「……っ」

 顔をそむけた。その反応を見て雪輝は続ける。

「美心の会館に行ったよ。そこで聞かされた。ここに人を連れてきたのはお前以来初めてだって」

「……!」

 ハルキは目を大きくひん剥き、ゆっくりとその眼球を動かして美心を見た。

「中学の時にどんな噂が立っていたのかは知らんが、美心は誰かを勧誘しようとなんて思ってない。それくらい気づいてたんだろ?」

 ハルキは何も言わなかった。ただじっと美心を見つめる。その視線は美心にゆっくりと口を開かせた。

「……私は、知って欲しかっただけなの……一番仲良くしてくれた……特別だったハルキ君に、もっと私のことを知って欲しかったの」

 吐露するようにして零れたその言葉は、ハルキにとっていわば有耶無耶にしていた答えだった。

 自分のしてしまった事によって美心がいじめにあい、その罪悪感から逃げる為に彼女を悪役だと思い込もうとしていた。それに使われたのが、中学の時の美心の噂だった。何人も会館に呼んでは勧誘をしているという美心の噂は、ハルキの罪悪感を怒りに変える都合のいい材料だった。その日からハルキは、まるで焚火の火種を育てるように、嘘か本当かも分からない噂を盲信して、心の中の怒りを育てていく。罪悪感という耐え難い冷たさの中で、その怒りの焚火だけが唯一の心の拠り所だったのだろう。

 そして今、その偽物の怒りが前提から崩れ去った。彼に残ったのは、悔やみきれない後悔と冷たい罪悪感。そして権利の無くした恋心だけだった。




「ちょっとちょっと何の騒ぎ?」


 静かだった教室に、廊下からまた空気を変えるような声が聞こえてきた。冴島だ。

 彼女は生徒をかき分けて教室に入ってくる。何の騒ぎ? とは言っているが、もちろん彼女も全てを知っている。他の教員が来ると話がややこしくなるため、タイミングを見計らって入ってきたのだった。

「この人がちょっと騒いでただけです」

 雪輝は顎でハルキを指し示してそう言った。ここからはもう終息に向けての茶番だ。

「キミ、ちょっと来てもらっていい?」

「……はい」

 ハルキももう何も抵抗を示さない。彼に近づいた時、冴島は床にへたり込む美心を見て、同じ高さにまで腰を下ろした。そして抱き寄せるようにして耳元で優しく囁く。


「もう、誰にも偽る必要なんてない。素直な気持ちで、築きたい関係を築きなさい」


 冴島は立ち上がり、ハルキの手を取る。

「さ、ちょっと話を聞かせてもらおうか」

「……」

 二人はそのまま教室を後にした。


 すると残された人たちが一斉に美心の元に駆け寄る。

 驚く美心に「大丈夫?」「気付いてあげられなくてごめんね」「辛かったよね」と声がかけられる。

 しかし美心はそれらを拒絶するように後ずさった。

「……小牧原さん」


「私、みんなの事騙してた……。友達になれないのに、友達みたいな顔をして、中学とは違う心地のいい関係に甘えて……ずっと騙してた。優しくしてもらう資格なんて……ないよ」

「そんなこと言ったら私達もそうだよ!」

 ずっと美心の隣にいてくれていた女子生徒が叫ぶようにして言う。

「実は変だなって思う事あったんだよ? 昼休みにはどっか行っちゃうし、放課後に誘っても全然来てくれないし……なにか抱えてるのかなってみんな薄っすら気づいてた。でも小牧原さん、いつも笑顔だったから……優しかったから……。私達、その異変に知らないふりをして、優しい小牧原さんにずっと頼ってばっかりだった……ごめん」

 すると今度はその後ろの女子生徒が御子の前に出てきた。彼女はこの脱出ゲームの脚本を書いていた演劇部の女の子だ。

「私もごめん……。今この紙読んだけど、小牧原さん、その格好しちゃ駄目なんじゃん……提案をしたあの時、実はちょっと様子が変なの気づいていたんだけど、私も小牧原さんの優しさに甘えちゃってた……本当に友達なら、ちゃんと話を聞くべきだったと思う……ごめんね」

 するとその二人の懺悔を皮切りに、オレも私もと、抱えていた違和感に見て見ぬふりしていた人達が口々に謝罪の言葉を述べ始める。美心は少しあっけに取られている様子だった。


「お疲れ様」


 雪輝は背後から聞こえたその声に振り返る。声の主はもちろん來華だ。

「おう」

「何とかなりそう?」

「……分からん。でも、少なくとももう嘘に悩むことは無いと思う」

「なら十分よ。もしこっから先、なにかいじめに発展することがあったとしても、相談室には私達が居るから」

「……達ってなぁ。忘れたのか? オレはもうクラスに復帰してんだぞ」

「でも、会いに来てくれるんでしょ?」

 來華の言葉に雪輝は顔を赤らめて唇を尖らせた。その顔を見て來華は上品に笑う。


「じゃあオレ行ってくる」


 雪輝はそう告げて踵を回す。來華が首を傾げた。

「行くって?」

「ハルキの所。冴島先生には彼を相談室に置いてもらうように頼んでたんだ」

「これ以上彼と何を話すのよ?」


「……答え合わせ、かな?」



 雪輝は教室を出て相談室に向かった。彼の言った事が気になったので、來華もそれについていく。

 相談室には冴島はおらず、ハルキだけがただぼーと窓の外を眺めていた。

「……やっぱり来たか」

 雪輝たちを待っていたかの様にそう言った。

「一つだけ聞きたいことがあったんだ」

「まだ美心ちゃんの事が好きなのかとか、そんな下らん質問だったら願い下げだぞ」

「違う違う。んなこと聞いてもなんもならんだろ?」

 雪輝が笑いながら言う。ハルキは苛立ちを込めた視線を送った。


「……お前さ、実はこうなる事、分かって来てたんじゃねぇのか?」


 その言葉にハルキは一切表情を変えなかった。むしろ隣にいた來華が一番驚いている。

「分かってた……とは言えない。どっちでも良かったって言うのが本音だ」

「ほう」

「有り体に言えばオレは、自分を正当化する為にここに来た。みんなが美心を悪者として扱えば、オレは自分の罪悪感から解放される。でも……拭いきれない疑念が、その理論にはどうしてもこべりついていた」

「美心は悪くないかもしれない。噂は本当は嘘だったのかもしれないってか」

 ハルキが頷く。

「考えない様にしていた。でも薄っすらと、自分を罰して欲しいという気持ちは見え隠れしてた。……だからどっちでも良かった。どんな結末にせよ、オレはここに来ることによって全てから解放されるって、そう思ったからな」

「……そうか」

 軽く頷いた雪輝は続ける。


「やっぱりクソ野郎だなお前」


「……」

「とことん自分の事しか考えてねぇし、人のせいにするし、今まで出会って来た中でダントツのクソ野郎だよ」

 雪輝は笑いながら言う。隣で來華が困惑する。

「ちょっと……吉祥寺君?」

「いやいい。コイツの言う通りだ」

 ハルキがそう言って目を閉じる。自分の非を認めるのは、意外にも気分はいいものだとハルキは感じた。


「でも、美心はお前の事を嫌っていない。つか、ずっと気にかけてた」


「……」

 雪輝のその言葉がハルキには一番刺さった。呼び戻される罪悪感が胸と背筋を冷やす。


「……だろうな。美心ちゃんは、オレが出会った中でダントツで優しい人だったから」


 ハルキは視界が揺らぐのを感じた。咄嗟に顔を隠すように振り返り、窓の外を眺めたが、反射で二人には彼の涙が見えていた。彼が何を思うのかは、もちろん雪輝たちには分からない。分からないが、もうこれ以上言葉は必要ないと感じた。そして二人はただ黙ってハルキの背中を見守るのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る