小牧原美心はいただきますが言えない 21

 扉一つ隔てた先から聞こえる喧騒を、雪輝は懐かしく感じていた。相談室登校になったのが夏休みを明けてすぐだったため、とても長い事、この扉をくぐっていない気分になる。そのせいなのか、扉にかける手が小さく震えていた。本人がそれに気づいているのかは分からない。ただ、隣にいた美心にはその震えが見えていた。


「時間、ホームルームぎりぎりだよ」


 ただ扉を見つめるだけだった雪輝に、美心が選んだ言葉は心配や励ましではなかった。少しつくったように明るくかけられたその言葉に、おう、とだけ答えた雪輝は、一度取っ手から手を離し、美心に聞こえない程度の浅い呼吸を挟んで、再び手をかけた。

 ガラガラと音が鳴り、雪輝の視界がひらけた。同時に教室内の生徒たちの視線が扉の前の雪輝に集まり、騒がしかった声がピタリと止まる。來華が教室に来た時みたいだな、などと他人事のように自分を笑う自分と、第一声どうしようかと考える自分が、頭の中でぶつかってショートした。


「テル―」


 半覚醒のような状態だった雪輝の思考をくっきりさせたのは、教室内から聞こえてきたリョウの声だった。

 リョウは彼の名前を呼ぶとすぐに立ち上がり、雪輝の元に向かう。そのまま腕を掴むと、少し強引に教室の中に引き入れた。

「おい、ハズいって」

「テルがいなくなってから席替えあったから、場所分かんないでしょ?」

 リョウはそのまま雪輝の手を引いて、静かになった教室内を歩く。視線は依然二人に集中していた。すると、一人の女生徒が痺れを切らしたようにリョウに声をかけた。

「ねぇ、二人……というかアンタら三人はもう、いいの?」

 少し言葉を濁したように言う。口調には心配の色が見えた。

「アハハ……そだよね。僕らの事でみんなに心配かけちゃってたよね」

 バツが悪そうに笑うと、先程まで自分の席で座っていたタケルが立ち上がる。今度は視線がタケルに集まり、雪輝、美心、リョウの三人も彼の方に目を向けた。

「……席、そこだ」

 そうぶっきらぼうに言い放ち、タケルはその席の椅子を引いた。少し恥ずかしそうにしてる表情を見て、他のクラスメイトは「仲直りしたんだ」とか「元通りになってよかった」などと、思い思いの言葉を口にしている。

 ポツンと立ったままだった雪輝の背中を美心が軽く小突いた。反射的に振り返ると、彼女の嬉しそうな笑顔が目に入った。


「おかえり」


 美心が言った。その言葉が意外だったのか、雪輝の目が少し大きく開く。そして照れ隠しのような笑いだけを返した。



 雪輝らの教室を、窓越しに眺められる向かいの校舎の廊下には、その様子を見守る來華が立っていた。教室の方からは、誰もその存在に気づいていない。

 リョウに手を引かれ、自分の席に着いた雪輝の周りには、他のクラスメイト達が集まっている。その中にはタケルと美心もいる。

 來華はただ、遠くで笑う雪輝を見ていた。彼の声は、もちろん届いては来ない。


「気になるなら行けばいいじゃないか」


 静かな廊下に突如響いた声に驚き、後ろを振り返ると、そこには神原が立っていた。


「……神原先輩ですか」

「美術室にノートを忘れてな」

 顎でくいっと道の先の美術室を指し、來華の横で雪輝のいる教室を眺めた。

「こんなところで盗み見なんて、まるでストーカーだな」

「……な」

 どの口が言う。とでも言いたげな表情を神原に向けると、ふんっと彼は鼻で笑い、再び美術室に向けて歩きだした。

「あっ、あの、先輩」

 來華が神原を止める。

「なんだ?」

「SNSの件、助かりました」

「あぁ、なんかギリギリだったみたいだな。昨日あかねちゃんから聞いた」

「……ありがとうございます」

 來華はそう言って頭を下げた。その様子を不思議そうに見つめる。

「まさか君が礼なんか言うなんて。一体どうした?」

「……実は、別でお願いしたいことが――」

「お願い? 僕に……?」





「おい、テル。移動教室行くぞ」

 二限目の授業が終わり休み時間になった時、タケルがそう声をかける。次の授業は科学だ。それもテスト前の余った時間で、ペットボトルロケットを作る事になっている。教室の生徒たちは、その楽そうな授業に湧き上がっていた。

「……行くか」

 しかし、教室の雰囲気とは反するように、雪輝は少し緊張していた。彼が急いで授業復帰する事になった理由が、その授業にあったからだ。

 雪輝らは校舎を一度出て、相談室がある駐輪場方面とは逆の方に進んでいく。学校の裏門付近に、目的の倉庫があった。

 裏門の外には川が流れていて、その向こう岸には田んぼがしばらく続いている。住宅はほぼなく、夜になると川と虫とウシガエルの泣き声が煩い。国道に面している正門とは違い、一気に田舎臭い景色が広がっていた。文化祭の神輿の準備がこの倉庫で行われるのも、夜遅くまで作業を行う為、近隣住民への配慮という理由があった。

 雪輝が目論むのはこの倉庫の雨漏りの促進だ。しかし、どのようにしてそれを行うかは、これと言ったプランを用意していなかった。用もなく中に入る事が出来なかったため、今日まで現場の様子も分からない、行き当たりばったりの計画だったが、この授業時間五十分に今後がかかっていると思うと、不安とプレッシャーを感じた。


 授業は楽し気な雰囲気で進んでいった。ロケットの組み立てが終わったグループから外に出て発射の準備を行っている。雪輝はタケル、リョウ、美心の四人で作業をしていた。他の人たちに気づかれないようにたまに天井を見上げて様子を確認する。実際に雨漏りがあった個所以外にも、トラバーチン柄の天井材に大きなシミが数か所見当たる。普通に汚いといった印象を受けた。


「出来たな」

 タケルがペットボトルに最後の羽を取り付けて言った。

「よし、外行こうよ」

「私先生に伝えてくるね」

 そう言って美心が外にいる先生を呼びに出た。まだ倉庫内にいたグループの中から数人が、美心を追いかけるように一緒に出る。そのまま全員で先生を連れて来て、それぞれのグループのロケットを確認した。その確認が終わった人たちから、パラパラと倉庫の外に出始めた。雪輝らのグループは最後の確認となり、それが終わると同時に、タケルとリョウはロケットをもって小走りで外に出て、倉庫内に残っているのは雪輝と美心だけになった。


「私たちも行こっか」

「先行っててくれ。ちょっと掃除していくよ」

「え、でも多分すぐ発射しちゃうよ?」

「大丈夫、すぐ追い付くから」

 そう言って雪輝は散らかったペットボトルの切れ端や、ビニールテープのゴミなどを片付け始める。美心は不思議そうにその様子を見つめ、しばらくしてから腰を下ろして手伝い始めた。

「えっ」

 雪輝は驚いて顔を上げる。そこにはニコニコした美心の顔があった。

「テルキチ、掃除ばかりしてたから癖が抜けないんでしょ」

 そう言いながら笑ってゴミを拾う。

「いや、ホント、手伝ってもらわなくて大丈夫だから。先行っててくれ」

「いいの。私が手伝いたいの」

「あぁ、ありがたい……んだけど」

 ありがたいんだけど、今は困る……。


 天井に細工をするのに一人にならなければならない。美心の気持ちは嬉しかったが、今の雪輝は、焦りで額に薄っすらと汗すら滲ませていた。

 どうしたものかと考える。あと十分もすれば、他のグループが遊び終えて倉庫に戻ってくるだろう。もうそんなに時間は残っていなかった。


「よし、これで綺麗になった」

 雪輝が考えを巡らせている間に、掃除はあれよあれよと進んでゆき、美心の言う通り、ゴミはもう全て片付けられていた。

「い、行くか」

 雪輝は仕方なく立ち上がり、そのまま二人は倉庫を出た。しばらく歩くと、集まっているクラスメイトの騒がしい声が聞こえてくる。その中にいたリョウが雪輝らを見つけて手を振った。

「二人とも、何してたのさ。もう発射するよー」

 その声に美心は小走りに駆け寄った。

「お待たせ」

「遅いよ。もう準備できてるからね」

「あぁちょっとスマン」

 雪輝が無理やり会話に割って入る。

「どうした?」

「オレちょっとトイレ行ってくるから先やっててくれ」

「はぁトイレだぁ? 我慢しろよちょっとぐらい」

 タケルが口元を歪めた。

「うるせぇ、ペットボトルじゃなくてオレが色々発射してもいいのかよ」

 わざとらしくお腹をさすって言う。

「ちょ、テルキチ言い方汚い」

「ま、仕方ないね。行ってきなよ」

「おう、すまんな!」


 そう言うと雪輝は、怪しまれないようにトイレのある校舎の方に走りだした。このまま校舎を一回りして、誰にも見つからずに倉庫に戻るには一分程かかる。また帰りも同じようにしないといけないとなると、倉庫内で作業が出来るのはもう残り五分といったところだろう。天井に何をすればいいのか、まだ検討すらついていないのにと雪輝は焦った。

 校舎をぐるりと回り、倉庫が見えてきた。息が上がるのを感じながら、速度を上げて中に入る。すると倉庫の中に人影が見えた。他の生徒がまだ残っていたかと一瞬背筋が凍ったが、それは本当に一瞬の事だった。よく見るとその人影は、東雲來華だったのだ。


「來華!?」

 驚く雪輝。彼女は細い腕で脚立を必死に動かしていた。

「おそ……い」

 体いっぱいに力を込めて身長程の脚立を引きずっている。雪輝は急いでその隣に体を寄せ、その作業を手伝った。しかしその脚立を持ってみると、見た目ほどは重くなく、一人でも十分に運べそうだったため、來華の手の甲をとんとんと叩き、手を離すように促した。

「どこに持っていく?」

「とりあえずそこに」

 來華が指さした先は、天井に大きなシミが出来ている場所だった。雪輝は指示通りに脚立を運ぶ。設置すると來華は床に置いてあったマイナスドライバーを手に取って急いで脚立を登る。

「それでどうするんだ?」

「私もよく分からないから、とりあえず天井の隙間に突き刺してみるわ」

 そう言ってマイナスドライバーを、天井材の板と板の間に突き立てる。その瞬間脚立が揺れ、倒れないように雪輝が支えた。

 ぽろぽろと木の屑が降りつつ、天井がドライバーを飲み込んでいく。一番奥まで差し込んだら、來華は体重を込めて引き抜いた。

「んぁっ」

 と声が漏れる。引き抜くと同時にまた木屑が降り注いだ。

「……穴、目立つかしら」

 開いた穴を指で少しならす。

「大丈夫だろ。それより何か所かやっておこう」

「そうね」

 そう言って來華は脚立から飛び降りた。雪輝がすぐに持ち上げて、次の場所に移動する。


 そうして手早い動きで、二人は合計四か所にマイナスドライバーをねじ込んだ。

 脚立を元の場所に戻して、降ってきた木の粉を軽く掃除し、証拠を消す。


「……来てくれてて助かった」

「気になったから遠くで見てたんだけど、なかなか一人になれなさそうだったから」

「ありがとな」

 雪輝がそう言うと、來華は少し照れたように天井を見上げた。

「……これで大丈夫なのかしら」

「正直わかんねぇ。明日雨らしいし、祈るしかないな」

「何か分からなかったけど、一応ビニール的なものを貫いたような感覚はあったわ」

「断熱材か? それともルーフィングシートか? 昨日ちょっと調べたぐらいだからなんも分かんねぇなマジで」

「……何にしても、バレたら退学かしらね」

「どうだろうな。少なくとも滅茶苦茶怒られるだろうけど、その時は言いだしっぺの冴島先生も道連れだな」

「ふふっ、そうね」

 來華はそう言って笑った。

「クラス、ちゃんと元に戻れてるようね」

「……いや、正直まだちょっと変な感じするがな」

「はたから見ている分は馴染めてたわ」

「……そっか」

 すると外が騒がしくなってきた。

「そろそろ戻ってきそうだな」

「そうね。私も行くわ」

 そう言って來華が倉庫を出て行こうとする。雪輝はその後ろ姿にもう一度声をかけた。


「なぁ來華」


 來華が振り向いて「なに?」と返す。


「教室、戻ってきたらどうだ?」


 その言葉に一瞬驚いたように目を丸くしたが、次には笑って首を横に振った。


「……そっか」


 雪輝もそれ以上何も言わなかった。來華は踵を回して外に出て行く。しばらくその後ろ姿を眺めていたが、雪輝も走って外に出た。




 そして翌日。

 天気予報の通り、朝から大雨が降っていた。

 雪輝は倉庫の様子が気になりつつも、確認しに行くわけにもいかず、落ち着かない時間を過ごす。昼休みになり、日課になっていた情報棟の掃除に向かう途中、校内放送が鳴った。臨時の職員会議だった。

 大雨警報が出て休校になるのかと、生徒たちが浮足立っている。職員室の扉の周りには、野次馬たちの人だかりも出来ていた。校内あちこちで、お祭り騒ぎのようになっている。情報棟に入ると、そこは校内の騒がしさとは切り離された空間だった。雪輝よりも先に入っていた漆野が、もう既に掃除を始めている。


「すまん、人だかりを避けて来たから遅くなった」

「いえ大丈夫ですよ、それにしてもなんだか賑やかですね」

 落ち着いた笑みを浮かべる漆野。雪輝も早速雑巾を手に取って掃除を始めた。

「でもこういう時って殆ど休校にならないよな」

「そうですよね。で、ガッカリしてるクラスの雰囲気を見て、五限目の先生が笑ってたり」

「あははっ、あるあるそれ」

 雪輝は笑った。スマホで天気を見てみると、確かに大雨警報は出ていた。しかしそれによって午後の授業がどうなるかは、今の雪輝にとってはそんなに興味のある話題ではない。ただ、外でバチバチと降り注ぐ雨が、もっと強くなってくれと願うだけだった。


「あの、吉祥寺くん」


 漆野が少し小さく声をかける。

「どうした?」

「クラスに戻れたんだってね」

「おう、昨日からな」

「……じゃあもう、相談室にはいかないの?」

「え?」

 漆野のその意外な質問に、雪輝は首をかしげる。

「その、東雲さん。吉祥寺がいなくなって寂しがらないかな」

「……っ」

 雪輝の手が止まった。

「いや、そんなまさか。あいつの方もオレに早く戻れってしつこかったし」

 あははと笑う。しかし漆野の目はどこか真剣だった。

「吉祥寺君は、ちょっと鈍感なとこあります」

 漆野が詰め寄った。


「私だって、ここでの掃除がいつか終わっちゃうって考えると……寂しいんですよ?」




 同じ時間。冴島は人だかりをかき分けて職員室に入った。前方の学務の机の前には教頭が立っており、扉の横にはちょこんと校長が立っている。入室した冴島が校長に会釈すると「ごめんねえ」という気さくな返事が返ってきた。職員室に席の無い冴島は、そのまま校長の横でしばらく立っていると、他の教員も続々と集まり初め、扉はピシャリと閉められる。ある程度の集まりを確認した教頭は手をメガホン代わりにして、広い職員室に声を放った。

「みなさん、お忙しい中すみません。二点あります。ご存じかと思いますが、現在西濃地区にですね、大雨警報が出ております。しかしですね、先程気象台の方に問い合わせたところ、雨は十五時過ぎには弱まるとの事でしたので、無理に今生徒を帰すよりは、六限までやって雨が上がってからの方が安全ですので、午後は通常通り行うことになりました。また、迎えに来られる親御さんもいらっしゃるかと思いますので、放課後の自習室の方も、すみませんが通常通りお願いいたします。これが一点目です。生徒の方、騒がしくなるかと思いますが、対応よろしくお願いします」

 と一気に話しきる。廊下で聞き耳を立てていた生徒たちからのブーイングが職員室内にも響き、生徒指導の教員が扉を開けて生徒たちを一喝した。冴島も近くの扉から顔を出して、外で落ち込む生徒たちに悪戯な笑顔を送って煽った。

 静かになった後、再び教頭が手でメガホンを作る。

「で、二点目です。かねてから雨漏りのあった倉庫ですが――」

 倉庫という言葉に冴島の眉がピクリと反応する。

「今日のこの大雨で、また雨漏りがかなり酷くなりまして。業者に聞いたところ、修理に三日から五日程かかると言われました。これでですね、何が関係してくるかといいますと、文化祭の、神輿。アレを作るスケジュールに影響が出てきます」

 とりあえず、吉祥寺君達の成果はあったようね。と、冴島は表情には出さないように、ひっそりと心の中で喜んだ。

「で、ですね。例年の様子だったり、三年生の先生方と相談したところ、テストも挟みますし、やはり一週間のズレは詰めるのは難しいとの判断でですね。一応予備日としてました、翌週の土曜日。その日に文化祭をずらした方がいいのではと、学務の方で話を進めておるのですが……何か不都合のある先生はおられますでしょうか?」

 教頭はそう言って、職員室を見渡した。冴島も固唾を飲んでその様子を見守る。

 すると一人の教員が手を上げた。

「作業、ピロティの方でやっちゃ駄目なんですか?」

 すると間髪入れずに冴島も手を上げ、教頭に呼ばれるよりも先に話し始める。

「ピロティだと壁も無いですし、住宅街にも近くなって、夜まで作業しているとすぐ苦情が来そうですよ。だってこう……金槌でとんとんカンカンやるわけですし。今ですらたまにそう言うお声来てるんですよね?」

 そう言って教頭に振る。すると教頭は目を細めて頭を激しく縦に振った。その表情を見て冴島は心の中でガッツポーズをとる。

「ピロティも考えたんですけどね、冴島先生のおっしゃる通り、苦情が目に見えてますので……学校としてはちょっとそれは避けたいんで」

 そう言って苦笑する。手を上げた教員は「そうですか」とだけ言って、特に不満げな顔もせず、素直に引き下がった。それを見て教頭は再び「他、よろしいですか?」と職員室を見渡す。もう手を上げて発言をしようとする教員はいない。しばらく待ってから「よろしいですね」と教頭が締めた。

「では、担任の先生方はホームルームでそのように生徒に連絡お願いします。あとすみません、これが終わった後ICTの先生は、保護者に向けた文章をブレンドで流しておいてください。チェックは私が行います」

 すると職員室の奥の方で、はーいと低い声が響いた。その声を皮切りに解散の雰囲気が漂い始める。廊下にたむろっていた生徒たちはとっくにいなくなっており、職員室周りは静かになっている。教員たちがそれぞれ昼食を食べ始めたり、仕事に戻り始めたりするのを見た教頭は「以上となります」と一応形だけ閉めて、席に腰を下ろして弁当を食べ始めた。

 それを見て冴島も職員室を出ようとする。が、隣に立っていた校長に呼び止められた。

「例の吉祥寺君。教室に戻したそうですね」

 落ち着いた雰囲気ながらも、妙に威圧感を感じる声だった。先ほど気さくにかけてきた声とは全く別の物に聞こえる。

「えぇ。アレは私に一任されましたので」

「それは分かってますよ……ただ、やはり心配でねぇ」

「……それは何の心配ですか?」

 冴島も声だけは穏やかなまま、探るような視線を向けた。

「もちろん生徒のですよ。彼は『些細な口喧嘩』で暴力を振るっているわけですから、また他の生徒が傷つかないか心配で心配で」

 冴島の目が冷たくなる。

「彼は大丈夫ですよ。反省もしてますし。もちろん、あの日の事を蒸し返すこともしないです」

「それは良かった」

 そう言って校長は先に職員室を出て行く。冴島はその後ろ姿を睨みつけていた。


「……あのジジイ」


 ギュッと拳に力が籠る。その様子は他の教員にも見られていたが、全員我関せずというった具合に、見て見ぬふりをしていた。

「私も戻ります!」

 誰に向けるわけでもなく冴島はそう声を荒げて、ピシャリと扉を閉めた。職員室内は変わらず、誰も冴島の声に触れることは無かった。


 冴島が相談室に戻る途中で予鈴が響く。すると同じ方向に向かって歩く雪輝の姿を前方に見つけた。

「おーい」

 と声をかけて雪輝の元に駆け寄る。

「冴島先生。職員室帰りすか?」

「そ。臨時の会議。残念ながら午後は通常通りでーす」

 また煽るような顔で言うも、雪輝の反応は薄かった。

「でしょうね……それよりも、倉庫の件、何かありました?」

 その質問を受けて、冴島はウインクを送った。今度の反応は大きい。雪輝の顔にぱぁと明るさが宿った。

「マジすか!」

「マジ。さっき延期が決定したわ。上手くいったわね」

「良かったぁ。そうだ、來華に早く報告しないと」

 そう言って相談室に向かって走り始めるが、その肩を冴島が掴んだ。

「あたしが伝えておくわよ。あなたもう授業でしょ」

「え? あっ」

 と、何かを思い出したように顔が青ざめる。

「しまった! つい癖で相談室の方に向かってた!」

「はぁ……なんか授業前に変なところ歩いてると思ったら、そういうワケだったのね。アホ」

 ため息まじりにそう言って、雪輝の頭を軽く小突く。

「いてっ。はぁ……アイツの喜んでるとこ見たかったのに、しょうがない。教室に戻りますよ」

 雪輝が道を引き返す。

「ねぇ待って」

 その声に雪輝は歩みを止める。

「もしかして、あなたもちょっと寂しい?」

 いつもの悪戯めいた笑みが雪輝に向けられた。

「似たような話、さっき漆野ともしましたよ」

「で、どうなのよ?」

「……ノーコメントで」

 そう言って雪輝は再び歩き始める。もう振り返る事は無かった。


「ふふっ。それ、答え言ってるのとおんなじなんだけど、気づいてないのかなぁ」

 雪輝の後ろ姿を見て、冴島はクスクスと笑うのだった。

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