一番の読者

花岡 柊

一番の読者

 二十歳で早い結婚をし、すぐに子供が生まれた。妻によく似た、可愛らしい女の子だ。名前を「未知留みちる」と名付けた。芯の強そうな瞳をしている子だった。仕事で疲れて帰っても、未知留の顔を見れば心が満たされた。しかし、結婚生活は長続きしなかった。仕事にばかりかまけ,家事にも育児にも協力せず。自分の都合のいい時ばかり娘を可愛がる僕に、妻は三下り半を突き付けた。当然の成り行きだ。


 憤りを抑えながらたたきつけられた離婚届を、僕は粛々と受け入れるしかなかった。疲れ切った妻の表情に、返す言葉などひとつも浮かばなかった。


 娘とは、小学校に上がる年に別れて以来会っていない。あんなに可愛らしい娘だったのだ。今では成人し、素敵な女性に変わっていることだろう。


 今僕は、路上に座りこむ生活をしている。日銭を稼ぎ、誰に気を遣うこともなく、その日その日を気ままに生きている。


 晴れた日は、うつらうつらと舟をこぎながら、道行く人の足音を聞き。雨の日は家から一歩も出ることなく、雨音に耳を澄ませ、やはりうつらうつらと惰眠をむさぼる。組織に組み込まれていた時には、到底できない暮らしぶりだ。


 路上に座り込む以前、サラリーマンをしていた。書店で本を売っていたのだ。好きな本に囲まれて仕事ができるなんて、こんなに幸せなことはない。入社したての頃は、本気でそう思っていた。けれど、現実というのは甘くない。確かに本は好きだ。けれど、自分の好きな作家ばかりを仕入れ、棚に並べるわけにはいかないし。いけ好かない大手出版社の営業には、強制的に棚を占領され、もっと売りたい本があってもスペースを確保できない。上からは頭のてっぺんを金槌でガンガン叩かれ、下からは小間使いのように扱われる。どちらにもいい顔ができるはずもなく、日々へとへとになっていた。今では路上に座り込み、日がな一日下界を眺めるようなのんきな生活をしているが、これでも真面目に働いていたのだ。


 ある時。中間管理職の僕がどんなに頑張ったところで、どうにもならない現実が押し寄せてきた。紙の書籍が売れなくなったのだ。会社は売り上げの悪い店舗をいくつか閉店せざる負えなくなり、人件費を削らなければ立ちいかなくなった。所謂、リストラだ。僕の名前がその名簿に載っていた。それが十五年程前のことだ。


 人事に呼び出され、淡々と告げられた現実に頭の中は真っ白になった。何をどう考えればいいのか解らず、未来などというものが何一つ想像できなくなった。


 リストラを告げられてからも、暫くは勤めに出なくてはならない。周囲が僕の人事をどこまで知っているのか解らない中、人目を気にしながら毎日オドオドと働いていた。残っていた有給を消化するために出勤しなくなったときはホッとしたものだ。


 首になったことを妻に言い出せず。辞めてから暫くは、スーツを着ていつもと同じ時間に家を出ていた。行くべき場所などないから、公園で時間を潰していた。日がな一日スーツ姿のサラリーマンが、何をするでもなくぼんやりと公園のベンチを占領していると、子どもを連れた母親が不審な目を向け始める。警察にでも通報されたら面倒なので、しかたなく別の公園へと移動する。それを少しの間繰り返していた。



 月給の代わりに振り込まれた退職金を見て、妻にリストラされたことがバレテしまった。家事も育児もしないだけでなく、仕事さえもままならない僕に、妻は離婚届を突き付けた。


 住むところも追い出され、一人になった僕は狭いおんぼろアパートに引っ越した。鉄の錆付いた外階段は、踏み込んだ瞬間にいつか足が抜けるんじゃないかというほど古く。隣の音が丸聞こえの薄い砂壁は、寄りかかるとじゃりじゃりして落ち着かない。


 部屋にある家電はリサイクルか、粗大ゴミ置き場に放置されていたのを拾って利用していた。家電と言っても、冷蔵庫と洗濯機くらいしかないが。


 貯えなどないに等しいから、エアコンも暖房器具もない。夏は、リサイクルショップで買った安い扇風機の前から動けないし。冬は、ありったけの布団を体に巻き付け過ごしている。何なら、靴下を二枚重ねにして、下着やTシャツを重ね着した上に、古くなったダウンを着込んでもいた。去年の冬、ダウンの羽がそこいらに散っていたから、今年の冬には薄くなった生地から大量の羽が部屋中に飛び散るんじゃないかと思っている。やれやれ。


 食事を制限しながら仕事を探したけれど、リストラにあったショックから立ち直るのは容易じゃなかった。ハローワークに行ったけれど、散々待たされた挙句に、思うような求人は紹介されず次第にいかなくなった。求人雑誌で見つけた仕事は、どれも長続きしなかった。思い出したように日雇いのアルバイトをしていたが、体力を使う仕事は向いておらず。筋肉痛で動けなくなると、嫌になって辞めてしまった。


 働き口がないということは、食べるものもまともに買えないということだ。おかげで一日一食なんてこともよくあった。


 食事は我慢できても、住むところだけは確保しておきたい。妻との家には戻れないし、段ボールや新聞紙にくるまれた路上生活者にはなりたくない。風呂などなくていいから、せめて雨風をしのげる屋根と壁が欲しかった。だから家賃分だけは毎月何とか工面できるように頑張った。いくら安いといっても、家賃分を稼ぐというのは楽なことではない。仕方なくやりたくもないコンビニでのアルバイトをしたこともあった。この年で下っ端アルバイトというのは、周りも気を遣うし使いづらい。なんせ、店長より年上なのだ。なのに、仕事はできないとくれば、毛嫌いされるのは必至だ。高校生のアルバイトに鼻で笑われ、大学生アルバイトには顎でこき使われる。しかし家賃のためには我慢しなければいけない。そこだけは譲れず必死になったが、誰も褒めてはくれない。当然だ。


 食べる物もままならなくなると、いつしか出ていた腹は引っ込み。顎の下の肉や頬の肉も削げ落ちて、すっかり痩せ細ってしまった。


 家にいても腹が減るばかりでイラついていたある日、気晴らしにふらりと外に出かけてみることにした。今まで気にもしてこなかった町を観察することにしたのだ。すると、町には個性的な人が多いことに気が付いた。ギターを背負う音楽をやる奴や、演劇を志す奴が多く。ライブハウスや小劇場がいくつもあった。そういう奴らが着ている洋服は奇抜で個性的で。需要と供給か、古着屋も充実していた。


 フラフラとなんの当てもなく町を歩いている時、ふと店の表にあった姿見に映る自分を見て閃いた。若かりし頃に憧れてよく着ていた、ヒッピーの服が着られるようになっているんじゃないかと。更に、そのスタイルで商売ができるのではないかと考えついた。


 この町には、路上に座り込み、わけのわからないガラクタに値段を付けて売る奴がたくさんいる。しかも、それが意外と売れていたりするものだから驚いてしまう。


 どうせまともな仕事など長続きしないのだから、誰に縛られることもない自由気ままな露店商になろうと考えた。そうなると、当てもなかった町散歩は一転し。あちこちにいる露店商の姿を観察することになる。


 色んな奴がいた。ごくごく普通の姿をして、古本や昭和のCDやゲームソフトを売っている奴。あからさまに小汚い格好をして、ゴミ箱から拾ってきただろう週刊誌などを売っている奴。似顔絵を描いて売る奴。訳の分からない、教訓みたいな言葉を色紙に書いて売りつける奴。時折まともなのもいて、手作りのアクセサリーや小物を売っている奴もいた。


「なんでもいいんだな」


 僕の感想はそれに尽きた。細々と難しく考える必要などない。要らない物を売る。欲しい奴がそれを買う。ただそれだけだ。


 露店商を始めると決めた僕の足取りは軽かった。体重が減ったからともいえるが、久しぶりに心が弾んでいた。働くこと自体は好きではないけれど、縛られることなく自由に商売ができ、しかも売るものなどなんでもいいときたら、心が浮足立つのは当然だ。


 錆びついた外階段を踏み込んで足が抜けない程度の軽快さで昇り部屋に帰る。古い建物は無駄に収納がしっかりしているので、押し入れも天袋もついていた。その押入れにしまい込んでいた雑多な物が詰まる段ボール箱を引っ張り出す。


 離婚した時に、僕が意味もなく買っていたガラクタのような所有物は、妻の手によって段ボール箱に詰め込まれ、このアパートへ強制的に送られていた。


 いくつもしまい込まれていた段ボールを引っ張り出し、越してから一度も開封していなかった箱に貼りつくガムテープを勢いよく剥がす。


 中を覗くと、書店で働いていた頃に買った、未開封のロックバンドのカレンダーがあった。年月はとうに過ぎているが、このロックバンドは今も現役で人気があるから、好きなやつにしてみればプレミアものかもしれない。自分自身はそのロックバンドのことなど好きでもなかったから、どういう経緯で買おうと思ったのか謎だ。


 他には、ピザ屋で貰ったペアのマグカップに、同じくピザ屋で貰った未使用のTシャツ。どこにでもある形のマグカップは、使われることもなく箱の中に収まったままで綺麗なものだ。Tシャツに至っては、正面にデカデカとピザの絵が描かれているものだから、恥ずかしくて着なかった。けれど今になって広げてみれば、なかなか面白いデザインではないかという気がしてくる。大きなピザが美味そうに描かれていて、切り離されたワンカットから伸びるチーズを、ピザ屋のキャラクターが飛び越えようとしていた。見ているうちに腹が減ってきたので、すぐに別のものを手にする。


 次は、どこで貰ったのか解らない小冊子の束に、何かのイベントで山ほど貰ったボールペン。小冊子も、カレンダー同様に、欲しい奴にしてみたら喉から手が出るものかもしれない。まー、ただの小汚い本にしか見えないが。


 何十本もあるボールペンは、インクが中で固まっているかもしれないが、一本ずつビニールに入れられているので確認するのは面倒だからそのままにする。


 缶詰も収まっていた。ミカンやパイナップル。サバ煮や焼き鳥などなど。これは妻が僅かにくれた情けなのかもしれない。今まで気がつかずに放置してしまった。腹が減っているので食べたい気持ちはあるが、缶切りはないので売りに出すことにした。賞味期限は、まだあと少しある。


 未使用の手ぬぐいに布巾。誰の葬儀で貰ったのかも覚えていない木箱入りの袱紗。土産のキーホルダーに、野球観戦で買ったメガホンにペンライト。UFOキャッチャーやガチャの景品も山ほど入っていた。


「本当にガラクタばかりだ」


 とにかく何でもいいから商品になりそうな物を見繕った。


 ある程度の品物を探し出したあとは、パンタロンだ。衣類は箪笥も買えないので、押し入れにドンと積み上げてあった。奥底から裾の広がったパンタロンジーンズを引っ張り出す。太ってしまって履けなくなっていたが捨てられずにいた。一緒にあるのは、サイケデリックな柄の派手なシャツだ。年を取ってからは、気恥ずかしくて着ようなんて思いもしなかったけれど。今手にしてみたら、昔着ていた時と同じようにカッコイイと思えた。痩せ細った体は若かりし頃のサイズに戻り、パンタロンもサイケデリックなシャツもスッと着られた。しかも。


「意外と似合うじゃないか」


 洗面所の小さな鏡をのぞき込むようにしながら、ヒッピーな自分の姿を映して悦に入る。床屋にも行けなくなったので、今では髪の毛も髭も伸び放題だ。くせ毛が少しあるせいで、伸びた髪はいい感じのうねりを見せている。剃るのが面倒で、汚い無精ひげが顔を覆っていた。鏡を覗きこみながら、流石に髭くらいは整えようかと古くなったT字の剃刀をあてたら血だらけになってしまった。ヒリヒリする血だらけの顎や頬を手で押さえながらも、ヒッピー然とした姿に満足し頬を緩めた。


 そうして僕はヒッピーを気取り、路上に座り込んでガラクタを売ることにした。看板があるといいだろうと、段ボールを切った裏側に「巡り堂」と書いて立てかけた。なかなかに達筆でいい字だ。


 客が来ることなど期待してはいなかったが、一日中座っていても誰も品物を手に取らない日は、流石にくさくさとした気持ちになった。思い付きとは言え、つまらないプライドがあったのかもしれない。しかし日を追うごとに、小さなプライドなどどうでもよくなる。ただ道に座り、ガラクタに囲まれた一日を過ごす。ただそれだけだと、諦観の境地になっていった。


 不思議なことに、そうしていると客は向こうからやってくるようになった。どうでもいいと思っていたガラクタに金を出す奴が現れ。その逆に、買い取ってもらいたいと、品物を手にしてくるやつも現れた。物は巡り巡る。誰かの手から誰かの手へ。手放したい奴から欲しい奴の元へ。想いのこもったもの、未練を断ち切りたいもの。泣く泣く手放すもの。それぞれがそれぞれで、人と人とを巡り行く。


 今日も一人、思い出を手放しにきた人がいた。


 女性客が数冊の本を持ち込んだのは、そろそろ店仕舞いかと考えていた夕方だった。女性はそれまで何度もこの辺りを行き来しては、僕の様子を窺っているようだった。ある時は、遠巻きにジッと様子を見つめていたり、ある時は目の前を素知らぬふりで何度も通り過ぎたり。


 きっとヒッピー姿のオヤジが路上に座り込んで露店をしている雰囲気に尻込みしていたのだろう。確かに怪しい風貌をしているのだから警戒されても仕方ない。


 五十歳を過ぎても定職につかず。路上に敷物を敷き。金になりそうにないものを並べて売っているのだから怪しいことこの上ない。


 女性客が置いて行ったのは、十冊近い真新しい書籍だった。紐で括られた本たちは、とても窮屈そうにしていた。新品同様の本を見て、他に持って行った方が金になるなとは思ったが、差し出してきた姿に勢いがあり過ぎて断れなかった。


「これ、引き取ってもらえますか……?」


 躊躇うように訊ねる女性は、三十代初めといったところか。あるいは、少し手前のように見えた。迷いのある言い方とは対照的に、芯の強そうな真っ直ぐな瞳をしていた。まるで一大決心をしてきた。そんな雰囲気を醸し出している。


「高く買い取ることはできないが」と前置きしたが、女性はそれでもいいから引き取って欲しいと半ば強引にその本を置いていった。ただ同然で引き取ることができたこちらとしてみれば、ありがたい話だ。これを他の客が買い取ってくれれば、しばらく食い扶持に困らないだろう。


 女性が置いて行った本は、全て同じ著者のものだった。本屋を離れて随分と経つせいか、僕は知らなかった。女性は、この著者が好きだったのかもしれない。


 女性が立ち去る際、後ろ髪でも引かれるようにこちらを振り返ってからいなくなった。本当は、この本たちを手放したくはないのかもしれない。


 ここには色々な客がやってくる。何にも考えず、興味本位でやってくる奴もいれば。探していたものがこんなところで見つかったというように目を輝かせる奴。思い悩んだように品物を売りに来る奴。女性のように、まるで大切な思い出が詰まったものを手放さざる負えないというように悲しげに物を売っていく奴。


 僕はきつく縛られた紐を解き、本を自由にしてやった。パラパラとめくり中を見ると、ここ数年に出版されたものばかりで全て初版本だった。保存状態の良さを見て、発売して直ぐに本屋へ駈け込み手に入れ、大切にしてきたのだろうと思わせた。


 アパートに戻り、露天の品物を部屋の隅に置く。一日一缶と決めた缶ビールが数本以外、ほぼ空っぽの冷蔵庫からもやしを一袋取り出し塩で炒めた。肉など贅沢で買えないので、大抵いつもこれだ。時折、高額で買い取る客が現れた時だけ、缶ビールやベーコンなど、日持ちのする加工品を多めに買うことがあった。


 引っ越しの時にゴミ捨て場から拾ってきた、小汚いテーブルの上にモヤシ炒めと水道水の入ったグラスを置く。シャリシャリと音を立てて腹に収めながら、隅に置いた品物に視線を向けた。


 書店を首になってからというもの、本を読むことなどしなくなっていた。リストラという現実は、仕事にするくらい大好きだったものまで遠ざけていた。活字と向き合うことが苦痛になり、今日のように売り買いすることはあっても気になることはなかった。


 テーブルのもやし炒めを途中で放置し、ズリズリと這うようにして部屋の隅へ移動する。積み上げられた本を手にしてページを捲ってみた。


「懐かしい感覚だ」


 紙の手触りと香り。手に持った時の重量感。小さな文字が規則的に並ぶのを目にすると自然と表情が緩んだ。


 ずっと遠ざけてきた本は、やはり自身を幸せな気持ちにしてくれるものだった。


 その日、久しぶりに活字と向き合った。女性が置いて行った本を読むことにしたのだ。読み進めていくうちに、この著者が描く物語に夢中になっていった。どれも面白くて泣けるし感動した。顔を涙でグチャグチャにしながら読み漁った。気がつけば、心を鷲掴みにされていた。


 ページを捲る手を止められず徹夜をしてしまった。明るくなった窓の外に視線をやり、テーブルの上に忘れ去られていたもやし炒めに気がついた。冷たくなったもやし炒めを一気にかき込む。むしゃむしゃと頬張り、冷蔵庫の中から、一日一缶と決めていた缶ビールを取り出して喉を鳴らした。アルコールが心に染みた。


 窓を開け、朝の清々しい空気を部屋に入れる。徹夜で疲れているはずなのに、心は満ち足りていた。


 女性は、どうしてこの本を手放したのだろう。こんなにも素晴らしい本を、僕みたいな者に預けるなんてどうかしている。


 今日も路上に座り込んでいた。女性が持ち込んだ本を、他の商品と一緒に敷物の上に並べようとしてやめた。全て読み終わったのだから、売ってしまえば金になる。けれど、女性が後ろ髪をひかれるように振り返った時の顔が忘れられなかった。


 どこか寂しげで、未練のある切ない表情が心の奥底にある、忘れ去られた何かを揺さぶってくる。


 本は売り物とは別にし、座っている横に積み上げた。


 僕は、女性を待っていた。きっとまた現れると、どうしてか強く感じていた。


 数日が経った日の夕方前。本を置いて行った女性がやって来た。やはりと思った。手放してしまった本に未練があり、返して欲しいと言うのではないかと考えていた。


 以前同様に、女性は少しの間遠巻きにこちらを観察していたけれど、観念したというようにゆっくりと店の前に立った。


「あの……」


 躊躇うようにして声をかけてきた。徐に顔を見返すと、スッと小さく息を吸い話し出した。


「私が置いて行った本、読みましたか?」


 探るような視線の中に、恐る恐るというような表情がうかがえた。声が少し震えている。


 買い取った全ての本を、貪り読んだ時のことを思い出していた。あんなに夢中になって本を読み漁ったのは、いつ以来だっただろう。社会人になってからは仕事に追われ、通勤電車の中で文庫本を広げるのが精いっぱいだった。大学生のころだって、就職活動や、友達と遊ぶことに比重が傾いていた。となると、高校生以来だろうか。


 高校生だった僕は、図書館に何時間でもいられた。どんなに読んでも読み切ることのできない多くの本に囲まれていると心が躍った。生きているうちに、どれだけの本を読むことができるだろうか。活字を見ていない時は、そんなことをよく考えていた。図書館にいる間に読み切れなかった本は借りていき、週末には尻が痛くなるのも構わず座り込み読書に耽っていた。


 女性の本を読破した時の感覚は、あの頃の自分を思い出させた。達成感に近いが、それだけじゃない。物語の中に入り込み、自分にはない感覚に翻弄され、同じ感覚に共感を持ち、その世界の中で僕は生きていると実感できた。本の虫とからかわれても一向に構わず、寧ろ本の面白さに気づかない奴らがかわいそうでならなかったくらいだ。


「ええ。全て読みましたよ」


 悪気もなく応えた。


 会社という枠組みの中にいれば、商品を私物化し読み漁るということはあり得ない。しかし、僕は自由気ままな露店商だ。


「どう……、思いましたか」


「素晴らしかった」と口にしようとしてやめた。安易な言葉では言い表せないくらい、僕の心はこの著者の作品に惹かれていたからだ。今までたくさんのの本を読んできたというのに、適切な誉め言葉と言えるものが思いつかない。


 なかなか口を開かずにいると、呼吸を整えるように息を吐き出した女性がまた話し出した。


「私。仲間たちと、会社を立ち上げたんです。小さな小さな会社です。そこで私は、たくさんの物語を書き書籍にしました」


 話しだした女性は、僕の横に積み上げられた本に視線を向けた。


 もしや、この本の著者は目の前にいるこの女性ということか。


 わずかに驚きながら次の言葉を待っていた。


 女性はそこから少し間を置き、次にどう言葉を繋げればいいのか考えあぐねている様子だった。なにか間違ったことを言ってしまってはいけないと、怯えている風に見えた。


 巡り堂は基本的に暇だ。一日のうちに訪れる客などたかが知れている。まともに売り買いしていく客より、冷やかしの方が多いくらいだ。だから時間はたっぷりある。僕は根気強く女性の言葉を待ち、漸くその時間が訪れた。


「それは――――。いつかあなたの目に触れて欲しいと願っていたからです」


 きっぱりと言い切り、力強い瞳でまっすぐと僕を見る。


 僕にって……。一体どういうわけだ?


 突然名指しされたようで落ち着かない。


 女性には現れた時のオドオドと怯えた様子はどこにもなく。今この瞬間を逃すことなど、けしてしてはいけないというような決意が見て取れた。


 女性の勢いに飲まれ、ぐっと身を引く。そんな僕に構うことなく勢いをつけ話を続けた。


「あなたにどうしても読んで欲しいと思っていたからです。なのにあなたは、会社を辞めていた……。あちこち探しました。別の書店で働いていないか。書店ではなく、編集の仕事についていないだろうか。まさか自分で書いてるなんてことだってあるかもしれない。色んな可能性を考え、そこに救いを求めるように、本当に長い時間をかけて探し続けていました。意地でも読んでもらおうと、ずっとずっと探していました。あなたの目に触れないのなら意味がないからです」


 僕の目を真っすぐ見つめると、女性はゆっくりと頭を下げた。


「お久しぶりです、お父さん。未知留です」


 瞬間、全ての時間が止まった。行き交う人の話し声も足音も。少し離れた先の通りを走る車の音も何一つ耳には届かず。ただ目の前に立ち、瞳を潤ませ見据えてくる未知留の姿に魅入られていた。


 驚き過ぎて声も出ない。幼い頃に別れ、会うこともなかった娘が今目の前にいる。そして、書店で働いていた僕のために本を書き、こんな所まで探しに来てくれた。


「お父さん。あなたに読んで欲しくて、私は作家になったんです」


 唇をキュッと結んだ未知留は、今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えている。その瞳は、あの頃と少しも変わっていなかった。


 幼い頃の姿しか記憶にない僕は、二十歳もとうに過ぎ、綺麗な女性に成長した実の娘にかける言葉が何一つ口から出てこない。


 芯のある、真っ直ぐな瞳が僕を見続ける。


 気がつけば、未知留の涙に釣られるように、僕の瞳も潤みだす。心の中では、たくさんの言葉が渦を巻いていた。


 家族を終わらせてごめん。悲しい思いをさせてごめん。寂しい思いをさせてごめん。会いに行かなくてごめん。こんなに立派になって、こんなに素敵になって。会いに来てくれてありがとう。


 謝罪の言葉も、嬉しい言葉もたくさん溢れてきたけれど、どれも口から出てはこなくて、喉の奥がキュッと締まりうるむ瞳の涙が一つ頬を伝った。節くれだった親指で拭い、一度息を吸いゆっくりと吐き出す。気持ちを落ち着けてから、娘の瞳をしっかりと見つめ返した。


「読んだよ。とても素敵な物語だった」


 そんな一言では片づけられないと思っていたはずなのに、そう伝えていた。未知留なら、言葉に込められた深い思いもくみ取ってくれるに違いない。未知留は、僕の姿を見て涙を流しながら笑った。


「お母さんは、何も教えてくれなくて。学生のころまで、私はずっとお父さんは本屋さんで働いているって思ってた。でも、ある時働いていた書店の名前を知り訪ねて行ってもお父さんの姿はなかった。それどころか随分前に辞めていると聞いて、二度と会えないと思ってた」


 涙を堪え話す未知留が、僕のスタイルを見て少し頬を歪める。


「やっと見つけたと思ったら、ヒッピー姿なんて」


 再会の感動が薄らぐと泣き笑う未知留に、僕は立ち上がり伝えた。


「僕が未知留の一番の読者になる」


説得力のない姿で力む僕を見て、未知留がまた笑った。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一番の読者 花岡 柊 @hiiragi9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説