第2話 スプリングソナタの出逢い

ベートーヴェンの【ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24 《スプリング》 第1楽章】。


今朝はこの曲にしよう。

これから1時間の譜読みが始まる。

僕が5歳から続けているモーニングルーティーンだ。


今から220年くらい前に作られたこの曲は、「スプリングソナタ」と言われることも多い。

とてもよく演奏されているし有名な曲なので、

クラシックを知らない人でも何となくでも聴いた事があるのではないかと思う。


ベートーヴェンは20代後半から持病の難聴がひどくなったと言われているけど、この曲は彼が30歳くらいの時に発表されている。

きっと迫り来る恐怖の中で想像を絶する辛い時期だったと思うが、それでもこんなに幸福感に満ちた美しい曲を作り上げたベートーヴェンに、尊敬の念はやまない。


だから僕も真剣に楽譜に向き合う。

でもこれはベートーヴェンに限らず、全ての楽曲に対して同じ気持ちだけど。


楽譜に書かれている音符はもちろん、

記号や用語の全ては作曲家がこの曲に込めた大切なメッセージで、ひとつでも取りこぼせば、曲の世界観が違うものになってしまう。


演奏家はその書かれたメッセージを受け取り、忠実に再現することが義務であり喜びなのだ。

だからその曲を演奏するためには、楽譜を隅々まで読み込み、一音たりとも違う音を鳴らしてはいけない。


子どもの頃からそう教わり信じて音楽に向き合ってきた僕は、浪人が当たり前と言われている難関の滝田音楽大学に入学して3年になるが、今もその教えを忠実に守りバイオリンを学び続けている。


「あぁ、もう時間か」


気が付けば朝の8時30分を過ぎていた。

今日は1時間目から授業がある日だ。

楽譜をバイオリンケースに持ち替え、僕は部屋を出た。


マンションから大学までは徒歩で数分の距離で

このエリアは滝田音大生向けのマンションが多い。


防音設備もしっかりしている上、室内練習にも寛容。

道を歩いているとたまに楽器の音が漏れ聞こえてくるが、名門と言われている音楽大学だからだろうか、許容範囲内という感じで大目に見られており、

そんな理由で家賃も相場よりは高目ではあったが、生徒には人気のエリアだった。


僕も御託にもれずこのエリアで部屋探しをしたが、家賃の高さに少し迷いもあった。

どうしようかと悩みながら歩いていると、コブシの木が植えられている公園を見つけ、

結局はそれが決め手となり、住むことを決めた。

なぜなら実家の庭にもコブシの木があり、春には白い花を美しく咲かせていて、子どもの頃からその花を見るのが楽しみだったからだ。


さぁ、その角を曲がれば公園だ。


今年もそろそろ花が咲いてもいい時期だ。

今日はもう咲いているかな。


そんな時ことを考えながら歩いていると、かすかに弦楽器の音色を感じた。


・・・弦の音?・・・バイオリンか?


足を止めてさらに耳を澄ますと、それはやはりバイオリンの音色で、その曲は今朝譜読みしたばかりのスプリングソナタだった。


だけど聴こえてきたのは、楽譜とは全く違うデタラメのスプリングソナタだった。


どうしたらこんなデタラメに弾けるんだ。


どうしようもなく不快な気持ちになった僕は、

怒りでバイオリンケースを強く握り締めていた。


文句を言ってやりたい。

でも僕はこんなバイオリンを弾く人間を知らない。

知らない人にいきなり文句を言うほど、僕は非常識な人間でもない。


ここは知らんぷりするのが一番だ。

違う道を使い、通り過ぎよう。


そう思っているのに、なぜか足は動かなった。

早くここから立ち去りたいのに。


理由は、…多分体がこのスプリングソナタを聴きたがっているんじゃないか。


それはデタラメだけど、だけどなぜか心地よく染み込んできて、さらに色々なテクニックまで駆使されているであろうその音色からは、音符がはみ出しているのが分かるが、これが心地よい。


そんなバカな。

どうしたらこんな音が出せるんだ。

弾いているのはどんな人間なんだ。


立ち去る時は動かなかった足が、公園へ向かうためには滑らかに動いた。


何に焦っているのか分からないが、早足に僕はその角を曲がった。


するとそこには、真っ白な美しい花を付けたコブシの木の下で男性がバイオリンを弾いていた。


男? 誰だ?


僕は公園の入り口で呆然と立ち尽くしてしまった。


すると気配を感じたのか、そのバイオリンを弾く美しい顔の男性と僕は目があった。


その瞬間、僕の体内のどこかのセンサーが『この男には近づくな』と告げた。


分かっている。

楽譜を無視する人間と僕は交わらない。

だけど体がこの音から離れないんだ。


そして曲が終わった。


「ブ・・・ブラボー」

不本意にも、僕は思わずこうつぶやいてしまった。


するとその男性は微笑みながらこう言った。


「ありがとう」


僕は混乱した。

今、ブラボーって言った?

なぜ? 

あんなスプリングソナタに?


混乱する僕とは反対に、男性は白いコブシの花をいとおしそうに見上げた。

「この白い花を見ていたらさ、弾きたくなっちゃったんだよね」


僕は再びショックを受けた。

白い花。

コブシの花が咲いてることに今気が付いた。

毎日楽しみにしていたはずなのに。


男性はバイオリンをしまいながら話を続けた。


「名前、教えてくれる?」

「名前?…コブシです。コブシの木」


すると男性は小さく笑いながら、バイオリンケースを肩に掛けた。

「面白いね、君。木じゃなくて君の名前が知りたいんだ。僕は鷲宮将生です。それ、バイオリンケースでしょ。君もバイオリンやってるの?」


君も?

もって、何だ。

僕は君みたいな楽譜を無視したデタラメなバイオリンは弾けないし、そもそも君こそなんであんなデタラメに弾いて平気な顔しているんだ。

ベートーヴェンに謝れ。


なのに、そんな事より名前を伝えたい気持ちになってしまった。


「・・・鵜飼有朋です」

「鵜飼有朋くんかぁ、これからよろしくね」


「これから?」


そういうとその男性は白くて美しい右手を出してきた。


そこにあるのは、あの音が生まれた手だ。

僕はなぜがその手を握り返すことが出来なかった。


「何だよー、寂しいじゃん」


男性は行き場を失ったその右手で、強引に僕の手を握ると告げた。


「コブシの花ことば、知ってる?」


「・・・知らない」


「友情」


「・・・友情・・・」


「俺のことは将生って呼んでよ。俺も有朋って呼ぶからさ」


これが僕と将生の出会いだった。


「今度有朋のバイオリンも聴かせてよ。俺、滝田に編入したんだ。有朋もきっと同じ大学だろ」

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