第10話 失楽園

「これが、私がこれまで訪れた中で最も美しい都市の相貌でございます」

 そう言って、青年はリュートを弾く手を止めました。波止場には以前の静けさが戻り、松明の炎が寂しげに揺らめいていました。青年は暗闇を味わうかのように僅かな間を置いて、再び娘に向かって語りかけました。

「私の音楽を終わりまで聴いてくださったあなた様には、特別にこの世界の秘密の一端を明かして差し上げましょう」


 松明の炎に照らされた青年のすす汚れた顔は、羊飼いのように柔和であり、また蛇のように怪しくも見えました。美しい娘は話の先を促すかのように、黙って青年の燃える瞳を見つめていました。


「この世界のはじまりにはまず大海があり、時間の経過とともにいくつもの小さな島が生まれました。それぞれの島は大きくなったり沈んだりしながら、今日まで絶えることなく脈動を続けております。あなた様が暮らすこの都市は、その大海に浮かぶ一つの島でございます。それはまことに小さな、強い風が吹けば難なく沈んでしまうほどに小さな小さな島でございます。私が語ったその都市も、また異なる一つの島に違いありません。けれども多くの人々は、自らの生まれ育った島が世界の全貌だと思い込んでおります。他の島の存在にも、大海の存在にも気付くことなく、その短く幸福な一生を終えるのでございます。私はかつて、とある島で禁忌とされる果実を口にいたしました。その瞬間、私は故郷の島への帰り道を見失い、大海に浮かぶ島から島へと漂泊する根なし小船となってしまったのでございます。故郷を失うことは自らの存在を失うことでもございます。ですから私は見えない都市を巡り語ることで、私という存在の手触りを確かなものにしようとするのです。それは禁忌の果実を口にしてしまった人間の、取り返しのつかない罪の由縁なのでございます」


 青年はその燃える瞳で美しい娘の瞳を捉えたまま、静かに話を続けます。それはまるで蝋燭から蝋燭へと炎を燃やし移すような注意深いまなざしでした。


「あなた様はいま、心の中でまことに強く輝く、美しきフィリグラーナの存在を感じておられます。一つ考えてみてご覧なさい。あなた様の父方は、どうしてあなた様の外遊を禁じておられるのか。あなた様を卑しく無知にしておくのは一体なぜなのか。それは、あなた様が禁忌の果実を取って食べたあかつきには、あなた様の目が完全に開かれてしまうことを父方は知っておられるからでございます。けれども、あなた様はいま、その美しい果実を必要としておられます。一体誰にあなた様の自由を奪う権利がございましょう。人なる女神よ、さあ手をのばし、この果実を自由に味わいなさい!」


 すると突然、美しい娘の瞳が、青年の瞳と同じ燃えるような烈しい光を帯びました。松明の炎が生み出す闇が、彼女の瞳の輝きをより一層際立たせました。

 彼女は思いました。一体どうして手をのばし、身体と心とを満たすのがいけないのか。一体どうして身体と心とを開き、自分の内にきらめく美しきフィリグラーナを求めてはいけないのか…!

 その瞬間、彼女は創世記の物語において、イヴが禁じられていた果実を口にしてしまった訳を一瞬にして理解しました。そして、イヴがその果実を口にしなかったという可能性などはじめから存在しなかったことを悟ったのです。楽園を後にすること、それさえも神の意志であったのだと―。


 

 その後、その美しい娘がどんな人生を歩んだのかは今日まで伝えられておりません。あの夜、確かに娘の瞳に燃え移った烈しい炎は、彼女を漂泊の旅路へと誘ったのでしょうか。今となっては誰にも明かすことはできません。

 ただ、さいごに一つだけ。ポルトガルの西海岸の崖沿いに築かれた小さな村には、今でもある古い詩が歌い継がれているといいます。そのいにしえより伝わる詩をお聞かせして、この物語を終わることといたしましょう。


『安住の地を求め選ぶべき世界が、二人の眼前に広々と横たわっていた。そして摂理が彼らの導き手であった。二人は手に手を取り、漂泊の足取りも緩やかに、孤独の道を辿って行った』



おしまい

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見えない都市 椋本湧也(Yuya Mukumoto) @kiiroilemon

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