第1話 美しい娘

 今からおよそ五百年以上も前、まだ地球が宇宙の中心にあり、太陽と月とが地球の周りを回っていた時代のこと。ユーラシア大陸の西端、現在のポルトガルがある地域一帯に大きな王国がありました。その国の王様は、もうすぐ16歳になる美しい一人娘をたいそう可愛がっていました。その美しい娘は産まれてからというものほとんどの時間を煌びやかな宮殿の中で過ごしていましたから、王国の外に広がる果てしない世界の風景を知る由もありません。彼女が得られる知識といえば、宮廷のお抱え司祭が教える聖書の説話ただそれだけでした。

 誕生日を三日後に控えた、月明かりが美しい晩のこと。王の娘は従者とともに城の西側の波止場を歩いていました。その波止場は背の高い城壁のすぐ下の海岸線に、まるで都市から身を隠すかのようにひっそりと築かれていました。その晩は人の声はおろか、虫の鳴き声ひとつしないとても静かな夜でした。歩くたびに古びた木の板がキイキイと甲高い音を鳴らし、次の瞬間にはもう暗いさざ波の隙間へと消えてゆきました。

 一行が桟橋に近づくと、桟橋のふもとの暗がりからリュートの美しい調べが聴こえてきました。リュートを弾いていたのは、いつからかその王国の地下道に住み着いている一人の青年でした。青年は漂泊の吟遊詩人という薄汚れた身なりで、かつて旅したといういくつもの不思議な都市の話を美しい音楽にのせて口ずさむのでした。

 はじめ、娘を惹きつけたのはリュートが生み出す幻想的な音色の響きでしたが、ほどなくして青年の足元の革袋に詰められた赤い木の実が気になり出しました。従者もその青年のことはよく見知っておりましたから特別に警戒することもなく、娘が青年に話かけるのを黙って眺めていました。

 娘は宮殿の中で青年の噂を耳にしたことがありましたが、実際にその姿を見るのは初めてでした。娘は生まれ育った王国の外の世界がどうなっているのかほとんど知りませんでしたから、青年がかつて旅したという様々な都市の物語に密かな憧れを抱いていたのです。娘は青年に、これまで訪れた中で最も美しい都市の物語をリクエストしました。

 

 この偶然の出会いを後に振り返ったとき、彼女はまるで雨露に濡れた蜘蛛の糸のような、一筋のきらめく運命の糸を感じずにはいられませんでした。青年のリュートの調べと幻想的な物語の中に、彼女はこれまで見たことのないほどの、白蟻の顎をも逃れるほどに美しい図柄のフィリグラーナを見て取ったのでした。


「正直に申し上げますと、私もその都市がどこにあるのか、皆目見当がつかないのです。もう一度行けと言われてもおそらくたどり着けないでしょう。けれどもその街の、幻のように淡い風景が、私の脳裏に焼き付いて離れないのです。その都市は私たちが見知っている都ととてもよく似ていましたが、どこかに微妙な違和感がありました。そして街を歩くうち、その違和感の正体が分かってきたのです。それは「法則の違い」とでも言いましょうか、あらゆる自然の法則や摂理が、こちらの世界のそれとは全く異なっていたのでございます。それでは、美しいリュートの音色にのせて、その名もなき不思議な都市のお話をお聞かせいたしましょう」

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