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「はぁ、すっきりしたっ」


 いつもの、脳天気な声で少女はそう言った。己の手にある凶器をちらりと横目に確認し、弄ぶように伸縮させる。つま先立ちになり、そっと茉莉花の身体を跨ぎ越すと、キッチンの隅にくずおれたまま動けない男の元へとまた戻ってきた。


「……あんたの元カノがさ、嫌がらせしててさ、乗り込んできたの。ついに。それでね、二人がここで争うの。ううん、急に刺されたことにしよう、あんたは何カ所も刺されて、それでも何とか元カノのこと撃退して、最後は殴り殺すんだよ。……あたしのこと、必死になって守ってくれたの」


 ふわりと、嬉しそうに笑った。提案は彼女の中で膨れ上がった妄想で、そこでの健二は命懸けで姫君を救い出す英雄に仕立てられているのかも知れない。夢を見るような目付きで、少女は熱く語った。


「最初っから最後まで、これっぽっちもあたしのこと疑わないし、あたしのこと真剣に思ってくれて、本当に大事にしてくれた人だったのにさ、……死んじゃうんだよ、すっごい悲しかった……」


 後々警察に聞かれたら答えるつもりの口実を作っているのか、記憶をねじ曲げてそういう事実にしようと自己洗脳を行っているのか、少女の心中は測れない。


 もう喋ることも出来ない健二に測る術はなかった。常軌を逸した目をしていると、解るのはそれだけだ。


「嫌だったけど……男に触られるのは、本当に嫌だったけど、あなたは他のヤツラみたいにしつこくなかったし、ほんとに嫌な日はやめてくれたし、恋人ごっこだって思ったら、ガマンできた……」


 反論のない彼女の独壇場が出来上がる、美桜の話す言葉は支離滅裂になっていく。


 いつ、健二が美桜に手を出したというのか、まったくのデタラメを並べだした。本人はまるで気にしてはいないようで、見ていて気味が悪かった。


 健二の目の前で、パントマイムの身振り手振りで過去語りをしていた美桜は、急にしゃがみ込んだ。健二の顔を見ているようでいて、視線の先には床の板目があった。


「ママが連れてきた彼氏はさ、ママの居ない時にあたしを強姦したの。ちゃんとママに話したんだよ? だけど、ドロボウ猫だってさ、あはは。あたしが悪いんだって」


 感情が昂ぶったものか、美桜の瞳から粒になって涙がぽたぽたと床に落ちた。


「ママのこと、大好きだった。美人で、いっつも輝いて見えて、あんな風になりたかった。けど、ママはあたしのこと、嫌いだったみたい。気持ち悪い子って……」


 ぐす、と鼻を鳴らし、袖口で顔を拭うと無理やりに笑った。


「あたしの身の上話、すっごく真剣に聞いてくれたよね? 嘘だって言った後も、呆れたり、怒ったり、すっごく真面目に聞いてくれたでしょ? すっごく嬉しかったよ。だから、ほんとはずーっと一緒に居たかったのに、変な女が付きまとってきて、……こんな、血まみれになっちゃった……、めった刺しにされて、大好きだったのに、大好きだったのに」


 病んだ娘の震える両手が、そっと健二の青ざめた頬を撫でた。


「あたしは泣きながら、近所の人に助けを求めに行くの。だけど、家出してるからね、ぐずぐずしてられない事情があるじゃん、だからそのままどっかに消えるんだよ。しょうがないよね、ケーサツに見つかりたくないもんね、家出してるし。あたし、ママに見栄切って出てきてるから、ちゃんと証明しなくちゃだしさ。絶対、幸せになるまで帰らないって、言っちゃったんだもん。ここでなら、幸せになれそうって思ったんだけどさ、健ちゃん、イイ人だったし。だからさ、だから……」


 ぐすぐすと泣きながら、言い訳のような、詫び言のような言葉を幾つも繰り出した。


「でも、もう、おしまい」


 一人芝居の夢遊病者だった美桜の挙動が、その言葉を最後に現実へと戻ってきた。


 ゆっくりと立ち上がり、首を斜め上へと傾げた。能面のように表情が消える。あらぬ虚空を見ていた瞳は、ぐるりと周囲を巡った後に、冷たく健二の姿を捉えた。


 警棒を振りかざした少女は、しかし男の視線が別の何かを見ているらしき違和感に気付いて動きを止めた。人間の表情がその一瞬だけ、戻った。


 訝しんで振り返った美桜の顔面に、彼女の背後で振りかざされていた木刀が強かと打ち下ろされた。


「お返しよっ‼」


 斟酌なしの一撃で小柄な少女の身体は吹き飛び、けたたましいほどの騒音を奏でてあちこちに激突し、最後は床に倒れ込んだ。鈍い音が直後に響く。


 ぶつけた角度が悪かったか、首があらぬ方角に曲がっている。顔は向こうへ背けられて、表情は見えない。そのままピクリとも動くことはなかった。


「しっかりして‼ 健二、健二!」


 木刀が転がる音、茉莉花の声が遠ざかる。朦朧とした意識の中、茉莉花の額に赤く跡がついていた。残らなければいいがと思った。


 美桜が死んでしまったのかどうかだけが気掛かりだったが、確かめることは出来なかった。


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