最終章

1

 目の前にいる少女は、血まみれの両手をだらりと下げて俯いていた。


「……嫌だったのに……」


 ぼそりと、聞こえづらい細い声で呟いた。独り言なのかも知れない、健二に聞こえたかどうかは興味がない風で、ゆるゆると顔を上げた。


 夢遊病者のような目付きというのだろうか、喩えるならそういう、現実など見てはいない目が健二に向けられていた。狂った目をしていた。知っていたはずの少女とは違う、まるで見覚えのない女がそこに立っていた。


 狂気の瞳に忽然と、怒りの炎が灯った。


「あたしは嫌だったのに、ヤらせないと泊めないって言われた!」


 まっすぐな目が、非難に満ちた視線を健二に送りつけた。いきなり何を言い出したのか、意味が解らなかったが生憎返事が出来るほどの余裕は残されていない。呼吸がひどく苦しくて声など出そうにもなかった。


 ようやくで思い出したのは、以前に泊まったとかいう男の話だ。死んでいた隣人のことも彼女はキモい男としか言わなかったから、ややこしい事態だと頭の片隅がどうでもいい思考に繋げた。


 意識はまだ幾分の余裕を残しているが、身体の方は限界だ。両足がまず悲鳴をあげ、ガクガクと震えだした。臨界を迎えた時点で崩れ落ちた。息を吸っても酸素が入ってこないような気がした。壁に背を預け、死の淵で喘ぐ男を少女は見下ろしている。


 美桜は瀕死の男を前に置いて、観客に訴えるかのように身振り手振りをつけて話し出す。まるで演説か何かのように熱がこもっていた。


「仕方なかったの。だって、泊まるとこなくて、家にも帰れなくて、だってお父さんもお母さんもお兄ちゃんも、全員殺されちゃったもん。あっという間だった。鉈持った男が入ってきて、いきなり三人とも殺しちゃったの。」


 今度は何を言い出したのか、初めのうちは解らなかった。


「それで、あたしに付いてこいって! 嫌だったよ、だけど従うしかないじゃん、何されるか解んないんだもん! 山の中を連れ回されてさ、……あたしまで殺されそうになって! 何度も命乞いしたんだよ? そのうち陽が暮れてさ、隙を見て逃げたの」


 俯いた先に居る健二のことを、もう美桜は見ていなかった。


「追っかけてきて、殺してやるって叫び声上げてて、無我夢中で逃げてたら崖からジャンプしちゃった。バカだよね……呆気なく死んでやんの」


 うふふと笑うその表情は誰かを嘲るものだった。彼女ではない誰かが崖から落ちて死んだのだ、それが誰なのかを考えると怖気が走った。


 次第に、以前に報道されていたニュースの情報に重なり、A市での事件だと気がついた。状況を飲み込むと、次には焦りが生じた。


 この娘は真実など吐かない。鉈を持って一家を惨殺したのは誰なのかを思考するよりも先に、本能が逃げろと警笛を鳴らした。立ち上がることさえ困難で、その場で無様にのたうつだけだったが。


 美桜は背を向け、ふらふらと玄関先へ歩いていく。このまま逃亡するつもりかと、咄嗟に目で追った。危険人物を野放しにしてしまう焦燥感と、自身の助かる見込みへの期待とが入り交じった。


 姿が見えなくなったのは束の間で、彼女はすぐに引き返してきた。その手には銀色の伸縮警棒が握られている。武器を調達してきただけと知った途端、今度は絶望が滲んだ。どこに隠していたのだろうか。


「……あたし一人が生き残ったの。犯人はきっと探してるよ。見つかったらヤバいじゃん。韓国行って、整形して、元の顔を取り替えてもらってさ、そしたら犯人にだってバレないじゃん?」


 例の、少し悪どい笑みで美桜は笑った。整形したから、元の顔とは違ってしまっている、その延長を先取るように以前ニュースで見た田舎娘の顔が脳裏をよぎった。真相の一端を語ったのかと思いかけて、すぐに取り消した。辻褄が合わないことに気付いた。あの娘はとうに死んでいるはずだ。頭が混乱している。


「警察に、行けばよかったんやろ」


 座った状態で、少しでも距離を開けるためにもがき、後ずさる。後ろは壁だ、実際には横へ横へとズレただけだった。


 逃げようにも、もう足は重すぎて立ち上がれない。何かがおかしい、けれど冷静に考えを纏めるだけの余裕はもうない。美桜は幽鬼の佇まいで、のっそりと健二の前まで歩み寄り、唯一の退路を断つように立ち塞がった。少女の影がすっぽりと犠牲者を覆い尽くし、鬼の目が、男を見下ろした。


「警察はダメだよ……。ここ来る前に泊まってたトコのおっさん、殺しちゃったもん」


 感情のない声音が、初めて真実らしきを健二に告げた。


「あいつ、臭せぇんだもん、しつこいし。山の中で車ごと置いてきたけど、そろそろ行方不明なのバレると思うし」


 低い声だった。一瞬、男の声かと思うほどに低い声で、美桜はそう言った。

 そして、ケラケラと笑い飛ばした。


 車の中で死んだと思しき男は、彼女の話にたびたび登場したあのキモい男と同一だろうか。脳裏に疑問がよぎったものの、拘泥しておけるだけの余裕はとうになく、すぐに流れ去った。それどころではない、このままでは自分も同じ道を辿るのだ。


 もがくほどに状況は悪くなり、床は自身が流した血でぬるぬると滑った。手にも力が入らなくなり、支えて上体を起こしていることさえ困難になる。血の泥濘に伏した。


 少女はふいにしゃがみ込み、芋虫のように寝そべってなお藻掻く男に哀れむような視線を向けた。


「あーあ。……今度は、どうやって逃げようかな……。こんなに血が流れて、床が汚れちゃったら、さすがに誤魔化せないよね。ついでだから、隣のヤツ殺したから自殺したってことにしとく?」


 犯人からの提案は半分聞き流した。外に居るはずの刑事たちは何をしているんだと、焦りばかりが募った。


 視界に映ったコンセントを咄嗟に掴み、残る力を振り絞って引き寄せると、家電のひとつが落下した。危うく頭上に当たりそうになり、首を引っ込め、同じく驚いたらしい犯人を見上げた。


「びっくりしたぁ」


 その一瞬の声音だけは、聞き慣れた少女のものだった。疑念が半分、確信が半分、この一瞬でその割合は大きく疑念に傾いた。何かの間違いだ、と思った。思った途端にまた、裏切られるように、少女の瞳の狂気に気付く。絶望が滲む。


 騒音はたてたのだから、これで外部に聞きとがめられたはずだ、今起きているすべての状況が信じられない、誰か嘘だと言ってくれ――混乱は思考をかき乱した。


 しきりと周囲に目を配る健二に、美桜はアザけるように言い放った。


「助けが来るとか思ってる? 残念でした。張り込みはねぇ、もう居ないよ? 適当なこと言ってたら、信じたみたい」


 いつだったかに見た、悪そうな微笑だった。かつては可愛いと思って見たその笑みが、今は凶悪なものに映る。


 目の前が薄暗くなっていく。死が近付いているせいか、絶望が深まったせいかは解らなかった。くすくすと、さもおかしそうに笑いながら少女は告げた。


「すっごく一生懸命に嘘のアリバイ喋ったんだよ。警察ってさ、他のヤツらと違ってぜんぜん信用してくれないんだけど、何回聞かれてもいいように暗記しといたから、今度はバッチリだった。あたし、嘘つくの上手いんだっ」


 本当に刑事たちが納得して引き上げてしまったのか、詳細を問い質そうとしたが、言葉の代わりにひゅうひゅうと息が漏れただけだった。


 にわかには信じられなかった。いつも見てきた、知っているはずの少女ではなかった。目がそう言っていたのだろう、美桜は一瞬、苦しそうに眉を潜めた。


「やめてよ……健ちゃんまでそんな目で見るの?」


 感情の昂ぶりが狂気の中に顔を出す。憎悪さえ込めた瞳に、みるみる涙が湧き上がる。少女の頬を伝い落ちる。期待に応えようとして、精一杯の背伸びまで否定されて。バーのママが言った言葉に答えがあったことを今さら知った。


 ほんまは嫌なんやろ、嫌なんやったら俺で終わりにせぇよ、俺は恨まへんから……!


 願いは虚しく美桜の甲高い笑い声に掻き消された。


 ひどく気軽な調子で、美桜は健二の腹に刺さったナイフの柄に手を伸ばした。もう拒む力も残っていない、いよいよ終わりかと強く目を瞑る。


 その時、誰かの靴音が階段を駆け上がる音が聞こえた。少女は振り向き、玄関を見据える。横顔に、瞳に怒気が宿っていた。彼女以上の怒りに燃える茉莉花の声が響いた。


「健二! 居るんでしょ! 話があるわ、開けなさいよ!」


 激しく玄関ドアが叩かれた。先ほどの家電とはレベルの違う騒音に、微かな希望が芽生え、すぐに焦燥が上書きで消し去った。最悪の事態が到来した。


 今までにないほどの焦りで、動かない身体を無理に動かそうとなおいっそうに足掻いた。茉莉花にまで危害が加わることを恐れ、この恐ろしい殺人鬼の注意を自身に向けようと藻掻く。


 けれど少女は動けない獲物に再び目を向けはしなかった。


「……煩っさい、女……」


 健二へのトドメを中止して、美桜はふらりと立ち上がった。せめて声を上げて危険を知らせようと思ったが、ぜいぜいと荒い息しか出て来なかった。


 ようやくと上体を起こしたものの、支えるだけの腕の力もない、すぐにズルズルと崩れ落ちる。もがく中、美桜の背中越し、スローモーションのようにくっきりと、殺人鬼のその手が玄関ドアのノブにかかり、鍵を外すところが見えた。


 扉は勢いよく開き、少女はその影に隠される。飛び込んできた新たな犠牲者は、内部の惨状に息を呑んだ。


「ちょっと……! どうしたの⁉」


 すぐ後ろには、ギラギラと、瞳に剣呑な光を湛えた少女が立っている。


 健二は言葉に出来ないまま、口だけをぱくぱくと開閉した。危ない、後ろに、唇の動きで伝えようとしたが、読み取ろうと目を懲らした茉莉花の背後で、美桜が大きく腕を振り上げていた。


 咄嗟に目を閉じてしまったが、鈍く響いた大きな音ははっきりと耳に届いた。


 再び目を開けると、玄関框に続く板間に茉莉花が倒れていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る