5

 隣の部屋で事件が発生してからのここ数日は、健二に付けられた見張りの数も最初ほどではなくなっていた。他に容疑者が現れたものかも知れないが、情報は何も入ってはこない。おそらくはプレッシャーを掛ける必要が薄れただとか、その程度の理由だ。帰り際に見えたそれらしき人影も数人だった。今も居るかは解らない。


 健二は美桜の説得を続けている。


「ロフトはなんかあったら危険や、今夜はソファで寝たほうがええわ。いざとなったらベランダに出て、飛び降りたら裏から逃げられるからな」


「うん……」


 美桜の返事に、目に見えて精彩が無くなっていくのが気掛かりだった。だが、ぐずぐずしてはいられない。美桜の身体を離し、健二は自身の携帯を引っ張り出した。


「誰に電話すんの?」

 生気の無い間延びした問いかけが背後から聞こえる。


「元カノ……名前言うたことなかったな、茉莉花や」


 背中越しでも聞こえると思っていたが、美桜の返事はない。呼び出し音が鳴る間、意識は半ば後ろの少女に向けられていた。ショックが強かったのか、これまでの緊張が今回の件で切れてしまったのか、答えない彼女が心配だった。


 呼び出し音は鳴っているのに、相手はなかなか出てこない。仕事中のはずはない、半ブラックの健二とは違い、茉莉花の職場は羨ましいほどのホワイト企業だ。どこかに出掛けていて取る余裕がないのかと、憶測を巡らせている途中で、繋がった。


『……健二?』

 こちらが尋ねるより先に問いかけがあった。


「今、どこにおる?」

『……通りを歩いてたところよ』


 予想とは違い、落ち着いた声だった。

 ほっとしたのも束の間で、茉莉花は捲し立てた。


『今もあの女がそこに居るんでしょ、知ってるのよ、ずっと一緒に住んでるわよね? どうせ私と付き合ってる間に知り合ったんでしょ、二股で……それで私のことを遠ざけて、堂々と彼女を部屋に住まわせて、そういうことでしょ?』


「茉莉花!」

 ぷつり、と。


 反論も許されず、通話は一方的に切られた。


 健二は即座にリダイヤルのボタンを押した。こんな勝手な憶測をそのままに放置など出来るわけがない、茉莉花が負った心の傷は健二が付けたようなものだ。誤解を解かねば果てしなく後悔することになるだろう。


 家出の少女など拾うのではなかった。脳裏にその一文が浮かんで、慌てて打ち消す。誤解はあったが、巡り合わせが奇妙に絡まっただけで、美桜のせいだなどとは思いたくなかった。自身の善良な部分を責めたくもなかった。


 美桜に心が揺らいだことも事実としてはあっただろうが、今でも茉莉花を愛している。それがこんなカタチで本当に終わってしまうなど、耐えられそうにない。せめて誤解を解いてから、それでも元に戻れないのなら諦めもつくだろう、いや、諦められるわけがない。泣きたいほどの辛い時間が過ぎていく。


 呼び出し音は鳴り続け、二人の繋がりが戻る瞬間が再び来ることを祈るように願い、待ち続けた。


 やがて微かな電子音が変化し、通話に変わる。繋がった。距離が縮まる。電話の向こうに茉莉花が居る。声が震えそうになり、唾を飲んでひと言を発した。


「もしもし?」

 無言で通話は切られた。


 再びリダイヤル。繋がったが、声は聞こえてこなかった。


「いきなり切るなや、話は終わってへんで」


 また切れた。即座にリダイヤルを押す。なんだか滑稽で、泣きたくなる。百件もの着信を寄越した彼女の心境を思い描き、あの日、無視を決め込んだ自身の薄情さを噛みしめた。


その後も繋がっては切られ、何度目かの繰り返しの後の通話で、ようやく声が聞こえた。


『なによ』

「今どこや?」

『駅よ、電車が来たわ』

 プツリ。


 短いひと言を残して、彼女は無情に通話を断ち切った。そんな冷たいひと言ふた言で終わらせられても納得がいかない、健二は携帯を耳から離して舌打ちした。取り付く島もないとはこのことだ、それでもこれで終わらせるなど出来ようはずがなかった。即座にリダイヤルを押しかけて、ふと、我に返った。


 嫌な予感が膨れ上がる。まさか、ここへ来るつもりでいるのではないのか、唐突に浮かんだ自らの考えに戦慄する。


 何をするつもりかは、考えるまでもない、最悪の予想しか浮かんでこない。茉莉花はもう健二など眼中にないのだ、彼女が目指している場所はここだが、目的は憎い女ただ一人だ。美桜と直接対決するつもりだ。


 手汗がひどく浮いてきて、何度もスラックスの端で拭った。時計を見上げ、まだ十分に時間があり、終電まで間があることを確認する。緊張のためか、口内に唾液が溢れ出て、何度も嚥下しなくてはならなかった。


 気を取り直し、今度は深呼吸の後にリダイヤルのボタンを押した。場合によっては説得の必要がある。……説得は通じるだろうか。


「今、どこにおる?」


『駅の改札を通るところよ。行き先も教えてあげましょうか? あなたの町よ』


 やけに冷たい言い様が、落ち着き払った声音が、健二の神経を逆撫でた。茉莉花の住む地域は電車にして一駅区間しか離れていない。そして、駅に着いてからこのコーポまではおよそ十分ほどしか掛からない。


 まずい、美桜をどこかへ逃がさないと。思考が少女へと巡り戻ったその瞬間に、脇腹に熱を感じた。


 痛みを通り越すと傷口は熱を感じるものなのかと、その一瞬をどうでもよいほど冷静に受け止めた。


 引き抜かれたキッチンナイフが、今度は真正面から腹部へと沈み込む。思考はこの状況に追いつかない、視線だけが白く光る刃を捉え、腹にめり込む様を見ていた。


 遅れて激痛が瞬時に走り、すぐに熱波に変わった。脂汗が滲む。


 何が起きているのか、咄嗟には判断が付かなかった。目の前に見えているのは自身が保護した少女だけなのに、混乱した頭は正常には働かなかった。本能的に、再びナイフを引き抜こうとする美桜の腕を殴りつけ、腹に刺さる凶器からその手を引き剥がした。無意識だった。


「な……どういう、ことや……?」


 自分でも間の抜けた声が出たと思う。問いかけにはさしたる意味もない。空いた片手で少女を牽制するように押しのけ、これ以上の深手を負わないため、もう一方の手で突き立ったナイフを支える。よろよろと後ろに下がると、壁にぶつかった。


 幽鬼のように、美桜はそこに立っていた。


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