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翌日も朝から健二にはマークが付いていた。美桜にも接触しているだろう。彼女が家出中の放浪者であることも、すでに調べがついているだろうか。それともまだ家族の届けがないせいで掴みあぐねているだろうか。
保護もされずに放置されているところを見ると、届けが出ていないか、成人済みの大人ということだ。これもはっきりしない事柄だった。
張り込みの刑事もさることながら、先日に続いて百件近い着信を寄越している茉莉花も憂鬱な案件だ。思い起こせば、彼女の神経症紛いの気質に気付いたのも、付き合いだしてずいぶん経ってからだった。何につけても健二は気付くのが遅いのだ。
仕事の間はそれらを忘れ、気晴らしさながらで没頭しているうちに一日が過ぎた。終業後の足取りは重く、けれど、これもいつもとは微妙に違った重さで心に懸かっている物があることを教える。それでも機械のように正確に、寄り道もせずに帰路に着く。
自宅周辺を見回した限りでは、刑事らしき人影はなかったが、どうせ見張られている。ムシャクシャした余計な感情まで抱え込んで、健二は玄関の鍵を開けた。「ただいま」と声をかけて入ったものの、中は真っ暗で誰の返事もなかった。
美桜はこんな最中ですら遊びに出ているのかと思うと腹立たしい気もしたが、電灯のスイッチを入れた途端に、抱えていた苛立ちは吹き飛んだ。
目に飛び込んできた鳩の死骸が、思考のすべてを拭い去った。
「な、なんや、これ……」
あとは絶句した。
よく踏みつけなかったものだと思う。そろそろと迂回して、開けてあった玄関扉を閉めた。上がり框、少し段の付いたその板敷きに骸は無造作に置かれている。徐々に腹立たしくなってくる、靴を脱いで先に上がろうとしていたなら大惨事だった。
血痕もなければ、羽が落ちているわけでもないところから、ここで殺したものではないようだが、気味は悪い。誰がこんな悪戯をしたのか。傍に、脱ぎ散らかされた美桜のスニーカーが転げていることに改めて気付いた。まるで慌てて放り出していったような有様で、本人の姿は見えない。
慎重に奥へ進み、居間の電灯も点ける。真っ暗だった室内が明るくなると、ロフトの上の丸まった肌蒲団が目に止まった。微かに動いているところから、おそらく美桜が引き被って震えているのだろうと思った。
他に変化はない。ここのところの日常通りだ。テレビのリモコンはテーブルの上に出しっぱなし、菓子類のカラ箱が二つほど放置され、普段のだらしない生活臭がそのままで残されている。何もかも放り出して外出し、帰ってきてアレを見つけてロフトへ逃げ込んだといったところか。
「美桜! 何があったんや、もう大丈夫やから、降りてこい!」
「健ちゃん……、やっと帰ってきたぁ」
ほとんど涙声で、美桜の返事が聞こえた。
「あたしが帰ってきたら、なんかまた鍵が開いてんの……。ちゃんと閉めたと思ってたけど、もしかしたらまた忘れちゃったかなとか思ってたの」
しゃくり上げながら美桜はロフトの梯子を降り、コトのあらましを喋りだした。言葉を途切れさせることなく、健二に駆け寄ってしがみついた。手を放せばそのまま座り込んでしまいそうなほどに弱り切っていた。どれほどの間、緊張を強いられていたのか。うわずった声はまだ震えている。喘ぐように続けた。
「電気点けたら、そこに死んでんの入ってて……。誰かが放り込んだんだよね? だって、こんなトコ、勝手に入り込むわけないもん。ずっと電話も鳴ってて、怖いよ……」
「電話て、いつからや?」
「昨日もずっと。カノジョさんかと思って、ムカつくから出てない」
健二は言葉を失った。平気そうな顔をしていたから気付かなかった、美桜はずっと事実を黙っていたらしい。自身の携帯への無言電話はもう止んでいるから、自宅への分ももうないと勝手に思い込んでいた。茉莉花からの着信は相変わらず続いているが……まさか、茉莉花の仕業なのか、唐突に疑念が浮かんだ。
無言電話も。この死骸も。合点がいくような、それでいて全力で否定する気持ちもまだ強かった。確かに神経症的なところのある女だったが、ここまで悪質なはずはない。いや、彼女の何を知っているというのか。大学の四年と社会に出ての数年、性質を断定してしまえるほどの長い付き合いと言えるだろうか、解らない。自信はまるでない。
色んな感情が渦を巻いて、最終的には混沌の中に落ちた。
「美桜、もしかしたら犯人はその……俺の、元付き合ってた女かも知れん」
無理に美桜を引き剥がし、そう告げた。震えながら健二の胸に貼りついていた少女の顔には、驚愕の表情がゆっくりと形作られていった。
非常に言いにくい言葉を言わねばならない、口中に湧きだしてくる嫌な唾液を嚥下して、健二は言葉を切りながら慎重に語りかけた。
「一度、ここに呼んで問いただしてみるから。そしたら白黒はっきりするんや」
「やだよ! 危ないよ、そんなの! そんな、本当のことなんか言うわけないじゃん!」
美桜の瞳に恐怖が映り込んだ。
「それより逃げようよ、あたしパスポートは持ってるよ、健ちゃんと一緒に何とかっていう国に行くよ! 転勤したってことにして、誤魔化しといて、逃げよっ⁉」
焦った口調で、ここへ被疑者を呼び込むことを強行に反対した。健二の中ではもう決定項だ、説得するように肩を掴む。
「とにかく、お前は一度、家に帰れ。ええな?」
いつもより強い口調できっぱりと命じた。これは提案ではない、そんな状況はとっくに過ぎ去った。この部屋は危険なのだ。
どれほど嫌な家庭であろうとも、まさかに命の危険までは伴わないだろう。だが、ここは違うのだ。今後、何が起きてもおかしくない。
「もう夜も遅いから、今夜はええわ。せやけど、明日の朝んなったら、速攻で家に帰るんや。それとも警察に通報して保護してもらう方がええんかも知れんな……」
「警察……」
「もう、未成年やなんや言うてる場合とちゃうわ。ここまでやられて黙ってたら、エスカレートするばっかりや。何しでかすか解らん相手や、危険なんや。俺かて、出来るだけ穏便に済ませたいんやけど、しゃあない」
「あのハト、あのまま……?」
美桜は、返事の代わりに脱力したような力ない声で、いきなりそんなことを言った。美桜を抱き支えたまま、健二は背後を振り返り、玄関の方向へ顔を向けた。死骸はここからでは目に入らない。
「何かに包んで置いとく。外へ持ち出したら、それこそ見張っとる刑事にバレるやろ」
あの張り込みの誰かに聞けば一番早いのかも知れないと、ふと思った。だが、まずは自力解決の方法を探る。話し合いで済めばいいが……せっかくキャリアを掴んでいるのだ、茉莉花の経歴に傷を付けるようなマネはしたくなかった。
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