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 二人の事情聴取は思った以上に長引き、すべての野次馬も引き上げてしまった頃になって、ようやく解放された。今は近所のファミレスへと退避している。


 派出所からは制服警官が二人、それに救急車と消防車も駆けつけて、仰々しい限りの現場となったものだった。ガスの危険を確認とのことでまず消防が、ついで警察の応援が駆けつけて検証を行い、それから救急車が死体を回収してこれはすぐに帰っていった。


 関係者たちがその後もしばらく残っていたが、数時間後に引き上げた。おそらく自殺で片付けられるのではないか、というのが周辺住民たちの噂した内容だ。


「ふぅ、大変な一日やったな」

「すっごい臭いだったよね。なんか……あんま食欲ない……」


 健二は首を左右にしつつ、大きくため息をこぼした。


「首つり自殺やそうやけど……。あかん、しばらくトラウマになるわ、あんなん」


 ファミレスの店舗内に漂う匂いまでが今日に限ってはいただけなかった。強烈だったあの死臭が微かに混じっている気がして、何度となく鼻を鳴らしては確認した。


 健二は第一発見者として、駆けつけてきた大家と共に最後まで付き合わされることとなった。警察立ち会いのもとでドアを開けた時の、あの大量に飛び出してきたハエの群れはほとんどホラー映画だった。


 すべての窓や扉が閉めてあったせいで出口を失った虫たちが一斉に飛び出してきたものだが、あの絵面は思い出しただけで鳥肌が立つ。


 僅かに漏れ出ていた腐臭が、玄関を開放した途端に周辺一帯に拡散され、誰もが一旦引き下がるほどの騒ぎとなった。ドアの傍でこれを嗅いだのだ、強烈な臭いに吐き気がしたものだった。


「あれで死後五日程度っていうんやから、腐りやすいモンなんやなぁ、て」


 妙な感心を告げると、美桜に非難の眼差しを投げられた。


「大家さん、泣きそうだったじゃん。あれ、なんか業者さん呼んでさ、特別なクリーニングしなきゃダメなんだって。すっごい高いんだって言ってたよ」


「お前、いつの間に大家とまで仲良くなってたんや?」

「へっへー、お兄ちゃんがいつもお世話になってますぅ、って!」

「コロッと欺される大家も大家や」


 呆れるものの、好都合だった。幸運といえば、今日は風の強い日であの悪臭も換気と強風で少しはマシになるだろうという話だ。『クーラーが効いていたからまだマシでね、この暑さだし、もっと腐乱してたかも知れないらしいのよ』とは、大家の言だった。


 本音をいえば、まだ帰りたくはない。あの臭いが微かでも残っているなら遠慮したい、そう思わせるだけの悪臭だと思う。だが、戻らないわけにはいかない事情があった。


「そろそろ帰らなあかんかな。配達来るし、ここに長居も出来へんしな」


 チープなプラスチックのグラスを玩ぶように斜めに傾げ、中の水を眺める。普段なら汲むだけ汲んでもほぼ飲まないお冷やが、今夜ばかりはお替わりが要る勢いで減っていく。


 ようやく、テレビが生活に戻ってくる日だ。なのに気分は重かった。嫌でも帰らねばならないのだが、ぐだぐだと、逃避のように二人して何時までも粘っていた。


「やっとテレビ来るーっ、涼しいお部屋でテレビ観れるー」


 わーいわーいと子供じみた身振りで、美桜は素直に喜んでいる。かなり大袈裟な態度で、嫌な事件を無かったことにしようとしているようにも見えた。


「マン喫もさぁ、この辺の店って身分証出せとか言うんだもん、マジでどっこも遊びに行けなくて困ってたんだぁ。日中なんか地獄の暑さだしぃ」


「お前、今まではどないしててん? いつもと同じようなもんとちゃうの?」


 ドリンクにすら手が出ないまま、健二はまた水を口に含む。一応、料理は頼んだのだが、並んだ品には食指が動かなかった。


 美桜はいわば家出のエキスパートのようなものかと思っていたが、よく考えれば腑に落ちない点が幾つかある。第一がこれだ、家出は慣れているといいつつ、時間潰しに四苦八苦しているという告白は、チグハグに思えた。


「ん? デパ地下とか、地下街うろうろしたり、友達ん家だったら何もしないでダラダラ? この辺が田舎過ぎるんだよぉ、何にもないじゃん!」


「駅前に商店街くらいはあるわ! ファミレスもあるし、けっこう開けてるはずや、いちおう東京やねんから」


「東京の端っこじゃん! ド田舎の埼玉より何にもないよ⁉」

「埼玉さんに謝れ!」


 かの地がいかほどかは行ったことがないから解らないが、咄嗟にたしなめる程度にはヤバい発言だった気がした。


「ほんまに、もぅ……」


 絶句の後にはようやく、口を湿すだけだった水を手放し、ドリンクを喉に流し込む。さすがにあの惨状を見た後では肉料理になど手が出ず、シーフードサラダとコーンスープを頼んだものだが、それでも腹に収めることは困難だった。ほとんど手つかずで、テーブルの上で冷めている。食べてから帰るつもりで、しかし箸は進まなかった。


 なんのかんのと言いつつ、美桜の方はしっかりとハンバーグセットを注文していたから食欲がないなどという話も大袈裟だ。美桜は死人を見てはいないからこんなものかも知れないが、身元確認だとかで大家に代わって面通しをした健二は、食事どころではなかった。白目を剥いた死者の顔が脳裏から離れない。


 首の骨が折れているとかで暴れた形跡はないと言われたが、そんな言葉は気休めだ。横死の表情は無残で、特有の伸びた首やドス黒く変色した顔や、風船のように膨らんだ頭部、唇からはみ出した舌が、まるで別の生き物が口から這い出ているかにも見えた。そこに白い蛆が何千と貼りついているのだから、正視に耐えないのは当然だ。生前の面影など消え失せ、よく見なければ解らないほどに醜い物体と化していた。


 その上でのあの悪臭だ、吐き気を抑えるのに苦労した。今ですら、目玉や舌にたかっていたハエや蛆が連想されて、美桜の側に出された肉の皿さえ見たくはなかった。


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