4
帰路に着いたのは早い時刻だった。まだ宵の口だと引き留めるママに謝辞を表して店を出た。
行きに使った路線にまた乗り込む。しばらく来ないうちに変わってしまった幾つかの景色を今度は新鮮な気持ちで眺める。
行きに乗った時より気分は軽かった。やがて見慣れた景色と合流して、そうして最寄りの駅で列車を降りたが、何だか別の街に来たような新鮮さを覚えた。
ゆったりした歩調で歩き、こんな余裕は久方ぶりだと感慨深く思う。自宅が近付くにつれ、ママと交わした様々な会話も蘇ってくる。都会の孤独と世知辛さと、僅かばかりの人情噺だった。
隣の部屋の小窓は今夜も、音もなく開いては健二の顔を確認するだろうか。そうだとしても、今日はさほど腹立たしくは感じないだろう。
白い建屋のコーポには、外からは見えないようになった鉄製の階段が付いている。
一段、一段と上るごとにカンカンと高い音色を奏でる。この音が合図になるのだろう、住民の行き来と来訪者の有無を告げる音なのだと、ふいに気付いた。
音が聞こえる度にそれが誰かを確認して、彼は本当には何をしたいのだろう。登り切ったところで、隣家の小窓に視線が向いた。
さほど遅い時間でもないのに、隣人の目は今日はなかった。
現金なものだ、そうならそうで、寂しいような、期待外れなような、がっかりした気分に陥る。ここ数日、姿自体は見なかったが、変わらず監視の目だけはあり続けていたのに、今日はそれすらないわけだ。
「なんやねん」
小さくこぼした自身の声は照れ隠しのように聞こえた。
それから数日後だった。隣の住民の視線がここのところ感じられないような気がしていたが、大家に問われて確定になった。呼び鈴を鳴らしても出て来ないという。
確認の為に健二も隣を訪れたが、留守なのか、物音もしない。いつかの早朝には確か例の小窓で目が合ったはずだから、あの日、新宿へ出掛けた日には居たはずだ。
その夜、食後にシャワーを浴びて、換気のために窓を開けたところ異臭が鼻を刺した。
これもここのところ微かに漂っていたもので、日増しに強まっている気がしていた。この季節に多い、近所の野良猫が糞を溜め込んで、それが匂っているのかと決めつけていたが。妙な不安が湧き出たものの、まさかと否定した。
窓を閉めて、換気扇だけにして浴室を出る。
「ここらも野良猫が多いから、嫌になるなぁ……」
わざと言葉にしてみたが、ますます妙な不安を煽っただけだった。
「どしたのー?」
先日の未遂事件などまったく忘れ果てて、美桜はチューハイの缶を片手にリビングでくつろいでいた。また下着姿だ。ここ数日で図々しさに磨きが掛かっていた。
「お前、いくら何でもハメ外しすぎやろ、またそんなモン飲んで」
「やだ、ママみたい」
「俺の部屋じゃ、文句あるなら出てけ、ボケ」
「うるっさいなー、ヘタレのくせに!」
「アホか、危うく犯罪者にされるトコやったわ。さてはお前、脅迫目的でそんなカッコしてんのやな? そうやろ?」
「ばーれーたーかー!」
きゃはははは、と箸が転んでもおかしい年頃のことだから、どこまでが冗談だかも解らない。健二も半分ほどはジョークを混ぜて、本気で怒ったりは出来なかった。
先ほど感じた嫌な臭いは、気が付いてみれば部屋の中にも微かに侵入していた。
何事かがあったとして、賃貸では即座に対応というわけにはいかない、毎度のことだ。おかしな臭いにげんなりさせられて、若い娘が露骨な姿でうろうろしていてもさほど気にならずに済むことだけが唯一の救いか。
早々に大家に文句を言ってやってもよいものを、この露出狂な小娘のことをどう言い逃れるかと考えると億劫になってしまう。
世間では三連休の初日だが、健二にとってこの金曜は出勤日なので、別にいつもの週末と代わり映えもしない。おまけに悪臭のせいもあって真夏の不快指数は上がる一方だった。
翌朝も、いつものように美桜は健二を送り出すため玄関に立ち、健二の方では諦め混じりに靴を履く。このことも日課になりかけていたが、今朝は少しばかり妙な感じがした。
上空を二羽のカラスが旋回し、向かいの屋根にも一羽、真っ黒い鳥が止まってこちらを見下ろしている。初めてのことだ。目が合うと、威嚇するように甲高い声で鳴いた。
「うるっさいなぁ、もう」
美桜が喧嘩を売るように手で追い払う仕草をする。カラスの方では知らん顔で羽づくろいをしているばかりだ。
美桜はカラスの態度が悪いと言って癇癪を起こし、カラスはまるでバカにするようにカァと鳴く。これだけを見れば平和な朝なのに、何かが不穏で心はざわめいていた。
「猫でも死んでんのかな」
嫌な一致が気になって、つい口にした。内心、猫ではないかも知れないと薄々勘付いてもいたが、口にすることは憚られた。
ここ最近はカラスなど見ることもなかったのだ、この悪臭の元を嗅ぎつけたのだとしたら……。確定の言葉は忌避している。
「なんで猫が死んでたらカラスが煩いの?」
不吉がるわけでもなく、美桜はさらりと問い返す。
「カラスは死臭とかに敏感なんや、よく死人が出そうな家にはカラスが集まるなんて言うくらいやからな。知らん?」
「うん。初めて聞いた」
ふーん、そっかー、賢いね、カラス。美桜は感心した様子で、カラスを見上げる。神経質な眼差しを投げている健二とは対照的に、どこまでも暢気な娘だ。
健二は拍子抜けもした。猫が死んでいるかも知れないと言われて、返ってくる態度はそれじゃないだろうに。どうにもその感覚は女子高生らしからぬような気がした。
こう見えてやはり自己申告通りの成人済みということなのだろうか。
思考が飛躍しかけて、それは話が違うと、都合良く理解をねじ曲げようとした己に自嘲した。高校生が成人済みになったところで、猫が死んでいるかもと聞いて取る態度が変わるわけではない。
「で、お前、そろそろ帰る気になったんか?」
「やだ」
これも毎朝になりつつあるお決まりのやり取りだ。
健二が仕事をしている間に日帰りで戻ったなどと見え透いた嘘をついたりもするから、説教もどんどん長くなっている。
ことあるごとに勧告し、度ごとに拒否の返事を聞かされた。今日も今日とて、時間もないのに小言を言いたくなるその態度に、健二は改めて美桜の顔を正面から見据えた。
ちょうどそのタイミングで、どこから沸いたのか、会話を遮るように大きな銀バエが美桜の眼前を横切っていった。
「わ! でっかいハエ!」
大袈裟なくらいにのけぞって、美桜は健二の後ろに隠れた。最近見ないほどの大きさのハエに、健二もつい尻込みしてしまいそうになる。
小バエならば毎年のようにどこかしらに沸いて出るが、こんな銀色の大きなハエは珍しい。目線で追うばかりだった。
「マジでなんか死んでんちゃうやろな」
「きも! キモ! キモー!」
美桜は言語能力を失って、一つの単語だけをひたすら繰り返した。
健二はしがみつく美桜を引き剥がし、周囲の点検を始めた。どうにも奇妙だ。否、奇妙だという感じを通り越して不穏さに近付いていく。
元凶を求めるように健二は周辺を探り始めた。この強い悪臭の元は、カラスが嗅ぎつけた獲物は、いったい何処にある。
ふと、いつもの小窓に目が向いた。いつもあの隣人が、目だけを覗かせて疑るようにこちらを監視していたあの粘ついた視線が、そういえば最近は感じられなかった。
その理由が映る窓を見て、背筋が凍った。
小窓は黒く……じっくりと目を凝らせば、その黒が、群れて蠢いていることに気付く。窓ガラスの内側に、びっしりと大きなハエがたかり、視界を塞いでいた。
「どしたの?」
袖を引いてくる美桜を後ろに下がらせ、このショッキングな光景を隠す。
「大家に電話、それから、警察もや」
「え⁉ 警察⁉」
不安げな声が答える。
「たぶん、死んでるわ、隣り」
美桜の心配は隣の住民よりもむしろ自身なのだと、ふいに思い出した。
「あ、そか。お前、俺の妹ってことにしとけ、ええな?」
「う、うん」
どうせまだ帰るつもりはないのだろうと確認を取れば、狼狽えながらもこくこくと頷き返す。片や自身の脳裏でも、会社への上手い言い訳をあれこれと捻り始めていた。
有給は付くだろうか、ペナルティは、評価が下げられても仕方がないと思うべきなのか。どう足掻いても今日は出勤出来まい……。
後は慌ただしい一日が、怒濤のように過ぎることとなった。
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