第四章
1
犯罪未遂の夜から三日ほどが過ぎた。少女は相変わらず家に帰ろうとは言わず、健二も気まずさからあまり煩く言えなくなった。拙いとは思っている。
シャワーはたいがい美桜が先に使っていて、健二は帰宅後に食事をし、シャワーを浴び、泥の眠りを貪り、また出勤するという、普段通りのサイクルをただ繰り返していた。
「社畜の生活、ごくろーさん」
「うっさい、……行ってくるわ」
嫌味ったらしいやりとりの後は、惰性で玄関へ向かう。美桜は構ってくれない男の住処がそれでも気に入ったらしく、まだしばらくは居座るといって聞かなかった。
あの件があって以来、ずっと引っかかっている。今後の身の振り方について、この娘が真面目に考えている素振りは見えず、あまりにも野放図で、いい加減で、健二一人が神経をすり減らしているように思えた。
このままでいいわけはない。自身はいつ辞令が下りて海外へ飛ばされるかも知れない身の上で、そのことを美桜に告げてもまるで冗談にしか受け取らないばかりか、こともあろうに一緒について行くとさえ言って笑うのだ。
出勤間際のこの瀬戸際で、ついに溜まりかねて言葉に出した。
「お前さぁ、マジで一度、家庭相談所にでも相談に行ったらどうや? その……お母さんの連れ合いの話とか……」
「ああ、アレ? 嘘だよ」
「なんやと?」
ケロリと吐き出された言葉に動揺して、つい、脅すような声が出た。まったく怯まずに美桜は舌を出した。それでいて、大真面目な顔をして、次にはとんでもない法螺を吹いた。
「本当はあたし、お忍びで日本に来日した某国の王女サマだからさ。ワケあって国の名前は教えられません。だけど偉いヒトなんだから邪険に扱ってはなりません」
「お前、そんなにほんまのこと言うの嫌なんか」
「だから王女サマなのが本当なんだってば。あ、世界的大財閥のお嬢様のがいい?」
「もうええわ」
漫才の締めくくりのように、健二は強引に会話を終了させた。放っておけばどこまで付き合わされるか、堪ったものではない。美桜の戯れ言はほとんど虚言癖の域なのだ。さっさと背を向けて靴を履いた。
背後に美桜の突っ立っている存在感を受け止める。
嘘だと告げた言葉の方が嘘かも知れないと、辻褄の合わない美桜の態度の奇妙さや、先日受けたインタビュアーの訳知り顔を思い出していた。
後日にはちゃんと彼の開設したチャンネルを見つけ出し、その名が「罵倒観音」であったことも確認した。アーカイブの中にA市の事件に触れる回はなかったが、今でも調べているだろうか。
何の進展も無くダラダラと過ぎていく日々を思った途端、やりきれなくなった。あの時のVチューバーとのやり取りを思い出すうちに、やはり例のあの店へ行くべきだと、唐突に浮かんだ。
思いつきに近かった。このままではいけないという脅迫感も手伝っていた。勘の鋭い美桜に気付かれないよう、出来る限り平然として見せながら言った。
「ああ、そうや。今日はちょい遅くなるから先に寝とって」
「残業?」
「まぁ、そんなトコやな」
社畜やからな、そんな言葉を背中越しに返しながら、本当には例の新宿の店へ向かう決意を固めていた。冗談からの延長ですんなりと通せたのは幸いだ。
あの夜の一件は決定打だ。伸ばし伸ばしにしてきたこの事を片付ける覚悟がようやく出来た。でなければ、美桜の身辺を探る気などいつまでも起きなかったろう。
いつも通りに仕事をこなし、いつもと違って早退する。いつもなら逆方向で、乗り合わせることもない都心向けの列車に乗って、健二はその店を来訪した。新宿二丁目がそのテの店にはメッカであることは予測していたが、実際に入ることなどなかったから気圧された。
裏通りのこじんまりとした店構えはそういう店だという雰囲気を持たなかった。普通のよくあるスナックかクラブ、そういう外見をしていたが、一歩踏み込んだ店内で真っ先に目に入ったのは、男にしても大柄なママだった。
「あら、初めてのお客様? どうぞ、遠慮なく入ってちょうだい」
ママが先に声を掛けた。
こういう場所は空気で解ると聞くが、本当だった。周囲の客達の値踏みするような視線を受けて、一歩後ずさる。自身も時々はタイプの女性に向かってこういう無遠慮な目を向けてしまうことがあるが、それを受ける側がどんな気分かを図らずも体験した。
ニヤニヤと下卑た笑みでぶしつけに見つめてくる者達ばかりの間を抜けてカウンターへ向かうのは、少なからぬ勇気が要るものだった。
「ご注文は? ビール? ウィスキー? ベビーフェイスに見合ったミルクなんてものは、残念ながら置いてないわよ」
「とりあえず、ビール」
用心深く構えながらメニューも見ずにそう返した。油断のならない客たちだ。
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