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 細身で、背が低く、童顔の、陰気な男……ひと目を避けるように早朝からコソコソと他人のアパートの敷地でうろついていたという、その印象はどこか記憶に引っかかるものがあった。帽子を目深に被り、隠れるようにして、階段下で何をしていたのか。


 はっと、思い出す事柄があった。ニュースで流れていた一枚の似顔絵が、脳裏で鮮やかに蘇る。


 中学時分の写真しかないと思しきA市の事件の、あの犯人のモンタージュだ。年齢相応の顔付きに描かれた白黒のイラストがこれまでに何度も流されていた。


 コメンテーターが確かに喋っていた。


『――犯人は整形している可能性もありますね。事件から少なくとも一ヶ月は経過しているわけですし、その間、何もしていないとは考えられません』


 A市での大量殺人事件は、人里離れた場所ゆえ発見が遅れ、警察捜査にも支障が出ているという話だった。犯人は未だ野放しだ。


 死体の腐乱具合からおよそひと月以上は経過しているという話でもあったし、その間に整形などで顔形を変えている可能性が指摘されていた。


 美桜を追ってきた?


 ふいに浮かんだ自らの疑念にぞっとする。美桜が忘れてしまうほどの些細な間柄であったとしても、犯人にとっては違うのかも知れない。


 証人を消す……これまたドラマか映画のようなことを考えてしまい、すぐさま打ち消した。真面目に考えねばならない事柄だ。


 その男が例の事件の犯人だとして、どうして美桜がここに居ると知ったのだろう。


 昼間はほぼ外出しているらしき娘だから、出先で見掛けたものだろうか。いや、服装はおろか髪型すらしょっちゅう変えてしまうような娘だから、顔だけで気付けたとは思いがたい。


 美桜は駅のロッカーに荷物を預けているらしく、健二のアパートに私物は置いていないのだ。あのVチューバーが言っていたように、あどけないように見えても用心深いということだろう。だからこそ、どこであの犯人と接点があったのかが推測出来なかった。


「ねぇねぇ、隣のキモいヤツだけどさぁ。あいつなに? キモいんだけど!」


 袖を引っ張られて注意を向けると、いきなり美桜がそんな言葉で健二の思考を分断させた。


 正直、深刻な問題が重なっていてそんな些細な事柄に割ける余裕はなくなっていたが、咄嗟のことで、つい同意の言葉を口に上せた。


「キモいて……確かに、めんどくさいお隣さんやけど」


 隣りにおかしな男が越してきたのも、そう言えばひと月ほど前だったか。何気なしの言葉で美桜には応えながら、そんなことを考えた。


 素性が知れない上に、出歩く姿を見ることもなく、本人との付き合いもない。そもそも、この辺りの住民同士にコミュニケーションがない。


 東京ではこんなものなのだろうと疑問にも思わなかったし、別段、不便も感じなかったが、よくよく考えれば不気味な人間関係だと改めて思う。


 ひと月前というところに妙な符号を感じつつも、まさかと否定した。あの事件の犯人が偶然ここに逃げ込んだ、などと出来すぎもいいところだ。


 美桜はずいぶんとお冠だ、目を怒らせて文句を言い募る。


「今日、出掛ける時も、さっき戻ってきた時も、なんかあたしのことジロジロ見ててさ、マジでキモいんだけど!」


 髪を振り乱す勢いで、その後も唾棄する言葉を連呼した。一抹、あり得ない可能性への懸念と共に、こちらもまた頭の痛い話だと首を振った。


 隣人は総じて女子にウケが悪いようで、茉莉花が来た時も確か散々に貶していたことを思いだした。


 茉莉花は見かけによらず、激しいタイプの女だったから美桜よりも口汚く罵ったものだ。


 口火を切ってしまえば、続く美桜の口調もすぐ遠慮のないものへと変化した。


 目しか見えなくてもブサイクなのが解るだの、目付きが嫌らしいから性格もきっと悪いに違いないだのと、好き放題に言った。


「隣のヤツ、いっつもああなの? すっごい失礼じゃん、大家さんに文句言ってみたりしたら? あんなの、違法行為だよ、プライバシーのなんちゃらってヤツだよ、絶対! ケーサツに通報してやればいいんだよ!」


「今、そんなんしたら困るの、お前やろ」

「あ、そっか」


 最後には間抜けた提案をしてくれ、お陰で幾らか場が和んだ。


「隣はもう放っとけ。越して来た時からあんなんやし、じろじろ見てくるだけで、これっていう実害もないねんから」


「健ちゃんがそう言うなら、もうそれでいいけどさぁ……あたしが出掛ける前だってさぁ、玄関の扉、こーんな風にほっそーく開けててさぁ、こっちの物音とかずっと聞き耳してんだよ、アレ。今だってそうだよ。聞こえてんだろ、死ね!」


 まだ腹の虫は治まらないらしい、今度は隣の部屋の壁に向かって怒鳴りつけた。


「あ、ラジオ聞こっと」


 そうかと思えばケロリとして不機嫌な素振りを消し、調子よく鼻歌など歌い出す。まったくコロコロとよく態度が切り替わる娘だ。


 彼女はスマホを取り出し、手早く操作する。誰に掛けたものかと思ったが、電話ではなくラジオ局のチャンネルを設定したもののようだ。


 美桜の手元からニュース番組らしき落ち着いた男性アナウンサーの声が響いた。


『―― 特集でお届けしています。本日未明、立て続けに二人目、三人目の被害者が出ました。警察はこれを受け、連続通り魔事件と断定、捜査本部が設置されました。――』


 また憂鬱な事件報道が流れだした。A市の事件も進展がないままだというのに、もう新たな事件の発生で世間に注意を促している。初めて聞いた報道内容だが、健二からすればうんざりするばかりの類似事件に思えた。


 美桜は顔を歪め、嫌悪のこもった声を上げた。


「うわ、また被害者出てるよ。あっ、それにこれ、さっき通ったトコの道だ、怖っ。なんか物騒だよね、この辺。もう他のトコ行こうかな……」


 美桜はお気に入りのラジオ番組が変更されたことが不服な様子で、この言葉の後には早く犯人が捕まらないかとブツクサ文句を言った。


 ニュースを聞くなど珍しいなと思ったが、お目当ては別の番組だったようだ。


 鬱陶しくなったのか、ついにアナウンサーの言葉が終わるよりも先にスマホをオフにした。涼しげな声がぶつりと途切れた。


 ここのところ、嫌な出来事が続いている。それぞれ関連などないのだろうが、連続するとどうにも偶然ではないような気がしてくる。


「なんや、また物騒な事件が起きとるみたいやな、気ぃつけや」


「うん、解った。健ちゃんも気をつけてね、なんか無差別らしいよ、この犯人」


「そ、そうなんか……」


 動揺が見て取れたか、美桜はずいと顔を近付けた。


「あ、健ちゃん、知らないんだ。仕事ばっかしてるからだよ」


 興味のなさそうな顔をして、美桜の方がまだ事件には詳しかった。自身が仕事漬けで世情には疎いことを思い知らされる。


「昨日だか一昨日だかに、最初の被害があったんだって。夕方に雨降りだった日あったじゃん? あの日。後ろから来た自転車にいきなり殴られたんだよ。で、他の人にも殴りかかって、だけどその人は躱したから無事だったって」


 美桜の喋り方は嬉々として、この事件自体にはあまり不安を覚えてはいないようだった。本当のところはどうか解らない。美桜はよく本音を誤魔化した。


 あのVチューバーの男が言っていた件を美桜に問いただすつもりだったが、そのタイミングを逸してしまった。美桜の興味はこの新たな事件と、これも最近発覚した某議員の浮気スキャンダルで一杯らしかった。


 自分への詮索などきっと嫌がるだろうし、自身も面倒は嫌いだ。挙げ句にまた嘘でも吐かれて腹立たしい気分になるのなら、例の店には黙って訪れた方がいいとも思った。認めたくはないが、自分は御しやすい人種というものなのだろう。


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