第三章

1

 夕刻から突然ひっくり返したような豪雨となり、健二が帰る時刻には多少マシになったとはいえ、かなりの雨脚で鬱陶しい限りだった。おまけに傘がない。それでなくても憂鬱な日々に、雨はかなりのダメージ要素だった。


 週明けの月曜日から徐々に蓄積され、土曜日を過ぎる頃には足を上げることすら億劫になるほど疲れる。精神的肉体的に消耗しきって帰宅する。そんな生活がいつまで続くかに関してはもう考えなくなった。うっとうしい雨に苛立つ心くらいは残っているが、激務に対する疑問や怒りはとうの昔に擦り切れていた。


 重労働とは呼べないギリギリの精神疲労は何と呼ぶべきだろう。今日は定時で戻れただけマシなのだと、そんな誤魔化しの言葉で自分自身を騙さなければ続けていけないほどの労働は正常なのだろうか。重たくなった足でアパートの階段を登った。雨は時間が経つにつれ、細く、弱々しく、体力を失った痩せウシから絞るような小雨になった。


 長すぎた昼の休憩を取り戻すため、いつも以上に働き、残りの休憩も返上で穴を開けてしまった分の仕事をきっちりと片付けたのだ。いつもの倍疲れ、雨への愚痴に乗せて普段の鬱屈も加勢して泣きたくなった。いつものように自宅へ帰り着き、いつものように少し手間取りながら鍵を開ける。


 隣りに住む半分引きこもりのような男が、この時だけはまるで見張りに立つように、玄関横の小窓からこちらの様子を窺ってくる。いつ帰宅しても必ず覗きに来る。


 ひと月前に越して来た時は、まさかこんなヤツだとは予想もしなかったことだ。文句を言いたくとも、一度たりと玄関チャイムを押して出て来たことはなかった。


 毎日毎日うんざりする繰り返しだが、文句を言う元気も残っていない。勝手にしろと内心に毒づいてドアを開けるだけだ。少女の靴は今日もなかった。


 深い溜息は何のためだろう。親でもないのにこんな心配をしてやる筋合いはないし、苛立ってみたところでそれこそ筋違いのお節介で、拾ってしまったことに対して、見当違いに涌き出した少しの後悔さえが、激しく自己嫌悪を煽った。


 むしゃくしゃした気分で玄関のドアを閉め、そのまままっすぐに冷蔵庫へ向かい、ビールを一本手に取った。とたん、さっき閉めた玄関のドアが開く音が聞こえた。


「ただいまー」


 玄関先からの声はなんだか疲れたような感じで、妙に気に掛かった。一旦は手にしたビールを戻して、冷蔵庫の戸を閉める。それだけの動作の間にも、普段の少女ならば矢継ぎ早に台詞を言い募っていることだろう。今日は静かだった。


「どうしたん?」

「ん、ちょっとね……」


 顔を覗かせると、玄関框に座る少女の丸まった背中が口ごもりながら返事をした。スニーカーをぽいぽいと投げて、美桜はむくれた顔でこちらを向いた。


「この先の道幅せまいトコで車に引っかけられそうになってさ、そんで勢い余って電柱に手ぇぶつけた」


 ぷらぷらと振っている右手の甲にはまるで殴られでもしたようなアザが赤黒く広がっている。帯状に、幅広くぶつけたようになって、電柱の痕跡らしきものが残っていた。


「うわ、派手にやったなぁ」

「痛いよー」


 ふざけてみせるだけの余裕があるようだが、冗談では済まない状態にも見えた。


「病院で見て貰ったほうがええんやろなぁ……」

「保険証とか持ってないよー。いっつも気軽にウチ出てくるけど、こんなの初めてだよぉ」


 半泣きに崩れかけた顔を、美桜は慌てて首を振り、戻す。にかっとばかりに笑いを作ったが、無理やりだった。不安を押し殺しているのだとそれで気付かされた。掛けてやるべき言葉がない、ひと通り探した後でも結局見つからず、何も返さず質問を続けた。


「どんな車やった?」

 そう聞いた時だ、


「えっとね……」

 どこかで見覚えでもあるのか、美桜は部屋の中を見回した。一瞬の違和感。


「あ、ほら、あれ。あんな感じの車だった」


 あろうことか、少女が指差したのは写真に収まっている赤いBMWだった。もたれ掛かるようにポーズを取って、茉莉花が微笑んでいる。


 なにより健二を動転させたのは、その写真立てはそもそもで数日前から伏せられていたはずのものだからだ。少女と出会うよりずっと前、茉莉花とはやっていけないと思い迷っていた頃に、自ら伏せたはずだった。


「その写真立て……触ったんか?」

「ううん?」


 美桜は訝るような目で健二を下から覗き込んだ。


「なになに? あれってカノジョか何かでしょ? もしかしてあたし、ここに居るのマズイのかなー、とか思ってたんだけど、大丈夫?」


「いや、別にええねんけど……」


 上の空に答えた。Vチューバーのバト観が軽く言い放った言葉が脳裏を駆けた。茉莉花の仕業ではないのか。下から顔色を窺っている少女に悟られぬよう、即座に打ち消した。代わりに少女の声が耳に入ってきた。


「ケンカでもしてた? あ、でもさ、似てるってだけで、別にあの車だったわけじゃないよ、たぶん! ぱっと見ただけだし、赤いってのと、外車のゴツいのだったくらいしか覚えてないし! 当てずっぽうだからさ、ほんと!」


 慌てて言い募る彼女は、慣れないフォローの言葉を懸命に探している風だった。


「それにほら、わざとってわけでもないし! あれ、わざとだったら怖いよ!」

 あははと笑って誤魔化そうとした。


 健二も笑いに応えようとしたが、ぎこちない笑みが口元に貼りついただけだ。まさかとは思う、しかし、奇妙な空き巣の件といい、引っかかる点が全て並列に並べられていくような気もした。テレビが倒され、代わりに写真立てが戻されたとしか思えない。


 深刻さに浸っている時には深刻な話題が続くものらしい。ふいに美桜が話を切り替えてきたが、軽い口調の割にはただならぬ内容を喋りだした。


「そう言や、ここの住民って、なにげにヘンなの多いよね。今日はさ、下に住んでる人かな? 男の人にばったり出くわしたから挨拶したんだけど、思いきし無視されたし。ちょっとイケメンだったけどさ、すっごいカンジ悪いよね!」


「イケメン……? そいつ、どこで会ぅたんや? このアパートの敷地内か?」


「そだよ? 二階に上がる階段のとこ。なに?」


「あのな、美桜。教えとくけど、このアパートの住民やとな、上の階の俺と、隣のめんどくさいヤツの二人だけやねん、若い男っちゅうのは」


「ええ⁉」


 美桜はのけぞって驚き、目を瞬かせた。無理もない、この建物は門扉で外の通りと区切られており、郵便受けはその門扉の傍にある小部屋に設えられている。外部の者が勝手に敷地内に入る理由はなく、その男は不法侵入者の可能性があった。


 他の住民の知人である可能性もないことはなかったが、偶然が続きすぎると人間、嫌な方の可能性を取りたくなるものだ。


「ど、ドロボウ?」

「かも知れへんな。とにかく、前のこともあるし、気をつけなあかんで」


 コクコクと美桜が頷くのを見て、健二も気持ちを引き締める。あの日のアレは、やはり空き巣だったのか、ほとぼりが冷めた頃合いで再びやって来たものかも知れなかった。


「そいつ、どんなヤツやった?」


「えっとね、ひょろっとしたヤツで、あんまり背は高くなかったかな。陰気な感じでさ、ちょっと童顔っぽい? 帽子で顔隠してたからチラっとしか見えなかったし、そう言われたら何かコソコソしてて、人に見られるの避けてるみたいだった! やっぱドロボウだよね、アレ!」


 興奮気味に美桜は声を荒げる。健二は、美桜の証言を脳内でカタチにするうちに、別の懸念を覚え始めていた。


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