3
泥のような眠りが白い靄の中でだんだんと薄まっていく。それと共に、聞き慣れたスズメどもの煩い鳴き声と、耳に慣れない水音と、ガシャガシャと鳴る物音とに気がついた。
夏場だけは野鳥どもも早起きだ。起き抜けのそんなくだらない感想を機に、健二は目を開けた。僅かばかり思考が回転しはじめると、ここ数日のことが思い出された。
「おーい、皿、割らんとってくれやー」
「あ、起きたー? 今ね、朝ご飯作ってるからさー、ほんとはもちょっと寝かせといたげようと思ってたんだよ、ほんとー」
半笑いの声と、ジュウと何かがフライパンの中で一緒に返事をした。ベーコンだろう、冷蔵庫に入っていた焼けるものは、それと卵くらいだ。
掃除から後の記憶があやふやだった。肌シャツとパンツ一丁になっており、スーツ類はいつもと同じハンガーに掛かっている。視線をぐるりと回せば、敷き布団は畳んだままで、隅に積まれているのが見えた。
申し訳に上だけ掛けていた薄手の布団を剥ぐ。リビングは惨状だったから、片付けた後でも寝床を作ることは躊躇ったようだ。かろうじて無傷だったにせよ、ソファに寝たせいで、身体のあちこちが痛んだ。
起きて身支度を始めたことを気配で察したものか、美桜がまた喋りだした。
「冷蔵庫の中、勝手に使ったよー」
ショッキングだったはずの昨夜の事件も、彼女にとっては大したことがないものなのか、その声は弾んでいて違和感すら覚えさせる。
度胸が据わっているというべきか、彼女には日常的で珍しくもない出来事なのか、単純に居場所が出来たと喜んでいるだけの態度が逆に奇妙に感じられた。
「あたし、料理は得意なんだっ。ママの代わりに家事やっててさ、あたしが居ないとウチの中が回んないんだよー」
笑いに混ぜた自慢げな美桜の言葉が続けられる。だんまりの健二に対して畳みかけようとするかのようだった。
「でさー、全部あたしに押しつけてるくせに偉そうでさぁ、だから時々こうやって家出てきて困らせてやるのっ。コンビニ弁当のカラが今頃シンクの中で山盛りだよ、きっと」
少女の喋る声をBGMに着替えを済ませ、ネクタイを縛る。このまま首を絞めて死にたいと思った夜があったことを唐突に思い出した。
社畜の人生を選んだつもりなどなかったのに、気付けば社畜になっていた。その延長にズルズルと年端もいかない小娘を拾って、挙げ句、昨夜は何かとんでもない事態に巻き込まれたような気がして落ち着かなかった。観察すればするほど、拾ってきた少女は得体が知れないもののような気がした。
少女は独り、懸命に喋り続けている。健二は半ば上の空で別の物事を考えている。昨日の事件と家出娘との関わりは本当にないのか、など。
自身の特殊な家庭環境を、聞かれもしないのに切々と訴え続ける美桜は、おそらくはそんな男の態度にも気付いているのだろう。半分笑いに混ぜながら、半分は同情を得ようとしているようで、返事がないままでも独りで喋り続けた。
どこまでが本当か分からない作り話にしか聞こえなかったし、そんな作り話で媚びを売ろうという彼女の思惑の方がもの悲しかった。
「お父さんが生きてた頃はママもあんなんじゃなかったんだけどね。お兄ちゃんが受験に失敗してからかな、決定的にダメになっちゃったみたい。ウチの家」
応えない健二の代わりに電子レンジがチンと音を立てた。
ダイニングのテーブルには確か積み本の小山があったはずだが、それは床でタワーに化けていて、代わりに食器が並んでいた。
目玉焼きとベーコン、ピーラーで削っただけの千切りキャベツに牛乳、食パン、マーガリン……平均的な朝食のメニューだ。珈琲サーバーは使い方が解らなかったらしく、コンセントを入れた状態のまま放置されている。
ママゴトのような、少女の思い描いたであろう理想的な朝の風景が目の前に展開されていた。
手際よく済ませたとでも思っているのか、美桜は得意げに席に着く。
「今日も仕事、遅い?」
「いや、今日は夕方に帰れるはずや。昼は適当に食っとって。夜は……そうやな、寿司でも食いに行こか?」
同情心が発した思いつきというものだろう。ほんの少し、この不幸な少女を楽しませてやろう、喜ぶ顔が見たいと思ってしまっただけだ。そこには僅かながら自身が重なってもいた。
寿司と聞いた途端で少女の目が輝きを増した。現金な態度だが、妙に嬉しかった。
「お寿司⁉ わぁい、ありがとっ、大好きっ」
「回転寿司やからな、期待しすぎんなよ」
先回りで釘を刺すと、おどけた調子でぷぅと頬を膨らませる。なんだろう、もう何年もの間忘れていた普通の日常が、確かこんな感じのものだったような気がする。
普通に差し向かいで誰かと朝食を取り、小芝居のような会話を交わして、当たり前に見送られて家を出るような生活を、そう言えばかつてはしていたような気がする。故郷に置き去りの生家が懐かしく思い出された。
社畜とはいえ、完全なブラックではない。残業代はきちんと付いているし、一応、週に二日は休みもある。
早朝七時から始業して夜の七時に終業、残業やら当番やらで会社を出るのは十時を過ぎる。たまには七時の終業時間で直帰出来る日だってあった。金はあるが、使う時間と用途、そして余剰の体力がないだけだ。
生殺しのような飼われ方だと自覚したくはなく、どこでボタンを掛け違えたのかさえ、今では考えたくもなくなった。
毎日均等に優しくあろうとするのは物理的に無理な相談だが、こんな風に突発で、気まぐれな優しさを発揮することならばまだ出来る。
その程度のささやかな余力だけならば、まだ健二の中にも残されていた。自身の境遇が少女の自称する境遇と何ら変わらないような気がしたから、この提案も、同情という優越ではなくどこか卑屈な湿り気を帯びている。少女への憐憫は、自身にも跳ね返って来るようで泣けた。
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