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「じゃあ行ってくるけど、マジで頼むで」


 出掛ける前には念押しで、戸締まりをきつく言い渡す。昨夜はテレビのみの被害で済んだものの、空き巣に狙われたのではないかとの疑念はまだ拭えていなかった。犯罪者の間で出回るという狙い目リストの如きを想像するなど、心配の種は尽きない。


同じ犯人でなくても、また誰かが悪い顔で訪問してくるような気がして、嫌な想像が止まらない。泣きっ面に蜂の諺ではないが、アレは弱った心に効くカウンターだ。


「戸締まりは必ず確認して、もし何かあったら即警察に通報するんやで。俺の迷惑とかは考えんでええから、解ったか?」


 まるで小姑だと思いながら、けれど言わずにはおけなかった。


 執着が生まれかけているのだろう。父親のような心境だ。問題だらけの小娘が心配でならない。独り置いて行かねばならないことが悔しくて堪らない。


 実の親のような心情で念押しをしたが、かつて生意気だった頃の自身が嫌そうな顔をして言ったようなセリフを、まったく同じ表情をして目の前の小娘も吐いた。


「解ってるよぉ。もぅ、煩いなぁ……」

「昨夜の今日やろ!」


 親の心子知らず、当時の自身と同じく美桜も舐めくさっていて、素早く健二の背後に回ると玄関の外へと押し出しにかかった。


「わかったわかった、早くしないと遅刻するよ、ほら!」

「ほんま頼むで。携帯もちゃんと持っとってや、ほんま」

「過保護のオヤジだよ、もー……」


 後ろ髪を引かれるとはこのことだろうか。健二の両親もこんな風にヤキモキする毎日を過ごしたのだろうか、そうだとしたら申し訳ないことをした。反省の心はそのままブーメランのように目の前の少女へ向けられる。一向に真剣味を持たない彼女にイライラした。


「なんや、その言い草は――」


 そのまま美桜に外へ押し出され、振り向いたところでドアが無情に閉じられた。まったく彼女の言う通りの、心配性で過保護な親だ。室内で少女が笑う愉快げな声がドア越しに聞こえた。


 自覚はあっても、それでもまだまだ言い足りず、けれど時刻はすでに差し迫っていた。仕方なく、健二も玄関に背を向け歩き出す。最近の天候は乱気続きで、今日も予報では雨と告げられており、空はどんよりと重たかった。


 電車で一時間ほど掛けて健二は職場へ向かう。都心からは逆方面になるため、ラッシュは幾分マシだ。心持ち……気持ち分だけは、二十三区行きに比べればマシなのだと思っていたかった。


 ふと見上げた先の中吊り広告は今週発売の週刊誌のもので、未だA市の事件が大々的に取り上げられ、目立つタイトルが掲げられていた。世間の興味はすでに下火となっていて、同僚との間でももうほとんど話題には上らないのに、ご苦労なことだ。


 広告の中の、目立つ位置に据えられたモノクロームの写真が心をざわめかせる。世間の興味を掻き立てる為に投入されたとしか思えない一枚で、今までに見たことのない一枚だ。


 被害者宅の遠景はテレビのニュース番組でも、リポーターの背景として登場することしかなかった。よくある田舎の古びた一軒家で、集落からは離れていたという情報を裏付けるように周囲に木立が映り込み、押しつぶされそうな重みのある屋根がいやに目立って、その下の住空間を圧迫しているかに見えたものだった。


 煽るようなタイトルには季節労働者だの社会的隔絶だのといった言葉が浮き出して目にちらちらと飛び込んでくる。忘れているなら思い出せとでも言いたげな文言と、ダイレクトな視覚情報の一枚で目を引く作戦だ。


 ベルトコンベアのような都会の生活をまざまざと思い起こさせてくれるその広告を見つめて、健二は不機嫌に眉根を寄せた。


 思考は独りでに連結して、自身の置かれた環境を悲観的に分析し始める。生殺しのような人生を、なんのために続けているのだろう。


 仕事以外の時間は取れず、仕事の為に生きているかのような日々だ。かつてはそうじゃなかったような気もするのに。


 地割れのように意識の底を突き破り、ふいに姿を現すその疑問だけは躍起になって埋め戻す。考えてはならない問題だと本能的に拒否し続けてきたことだ、答えを出そうとすればきっと足元から崩壊する。


 自分の勤め先は決してブラック企業ではないと呪文のように心で反芻した。中堅の小さな商社だが残業代は出るのだ、決してブラックではないと、毎日のようにそう言い聞かせつつ職場へ向かう日々だ。


 取引先との兼ね合いで今日は定時で帰れる予定になっている、そうだ、定時で帰れる日だってあるのだ。祝日までは望めないにしても、土日は休めるのだ。電車に揺られながら、反発に寄り掛かろうとする意識を懸命に押し止めた。


 会社の擁護に努めようとすればするほど、拾ってしまった少女の姿がチラつき、芋づる式に、埋め固めた不満を呼び覚まそうとする。


 こんな未来を思い描いていただろうか。いや、ささやかな幸せを否定するつもりはない、惰性であろうが、やり過ごしていれば日々は平穏無事だ。社畜という言葉さえ普段は忘れていられる。


 会社とベッドとの往復も、気付かずにいられればどうということもなく過ごせる。自由を満喫しているバックパッカーのような家出人と知り合うまでは、不満などいつまででも氷漬けにしておけたのに。


 あの娘は幾つだろう。ふと、疑問が浮かんだ。


 女子高生だと思う。思い込みで決めつけて、年齢を聞きそびれたことに今さらで気付いた。制服っぽい服装をしているからそうと思ってしまっていたが、彼女の服装がどこの制服であるかの確認などしていない。


 一度、聞いてみようか。帰ったら何かのついでを装って……そこまで考えて、年齢など聞いて今さら何を確かめようというのか、自身のバカさ加減にため息が出た。


 滑るようにホームへ入った電車の扉は工業化したようにいつもと同じく人々を吐き出し、勤め人の群れもまたいつも通りの動きを繰り返して流れ出していく。ベルトコンベアの上で足掻くことの無意味さを思うのか、皆、口をへの字に曲げていた。


 人の流れに乗り、前を向いてひたすら前進することだけに集中すれば、数々の気掛かりも薄れはじめる。会社に着いた頃には意識も切り替わり、いつもの仕事モードに徹していた。

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