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 健二は空を見上げたが、別段意味はない。まだ当分雨は降り止みそうにもないと思っただけだ。


 けれど隣の少女は何かあるとでも思ったのだろう、釣られるように空を見て、それから健二の顔をまじまじと見た。まだあどけない顔をしていた。


 健二は顔を空に向けたまま、視線だけを落としていた。可愛らしい顔が雨に濡れてべとべとだ、相合い傘のひとつきりでは心許ない。ぼんやりとそんなことを思った。


 次には思いつきのままに少女を促して公園を出た。彼女は素直について歩いた。


 とぼとぼと、互いの手を繋いで雨の中を歩く二人の足元で、アスファルトに跳ねる水音がひたひたと重なって、いやに侘しげな気分をもたらした。


 付近のコンビニへ立ち寄った際には二人ともに口を噤んでいて、まるで幽霊が訪問したようだ。


 店員も同じように感じたのだろう、少しばかり警戒を呼んだらしかった。彼の強張った表情と胡散臭そうな目付きには、どこか怖じ気の混じった緊張が滲んでいた。


 何の機転のつもりか、少女は突然に腕を組んできた。


「早く帰ろうよー、風邪引いちゃうよー」


 大袈裟に震えてみせながらのセリフは不意打ちだ、咄嗟の上手いアドリブは浮かばなかった。


「馬鹿、お前が傘も持たんと出掛けたからやろ。天気予報見てへんかったんか」


 芝居っけ丸出しになったのではないかと思う。わざとらしい上に、何の誤魔化しにもなってはいない。


 店員はあからさまな挙動不審で、対応に苦慮している様子が窺える。よせばいいのに、要らぬサービス精神というか、関西人の悪い癖だ、疑っているだろう店員に詰め寄って、更にダメ押しのセリフを浴びせた。


「いやもう、コイツ、自転車壊してしもて。明日になったら改めて取りに行かんなりませんわ、ほんまに勘弁してくれって話ですわ。ほんま」


「そうですか、大変っすね」


 お互いがお愛想笑いの応酬だ。突然に振られたアドリブの会話に戸惑うような、そんなやり取りの後には両者の間に沈黙が降りた。隣の少女が精一杯の媚びたスマイルを浮かべて、店員を牽制している。


 彼はどうしたものかと困り果てる様子で視線を泳がせ、触らぬ神になんとやら、とついには下を向いてしまった。


 支払いを済ませ、店を出てから少女がぼそりと「……バッカじゃないの」と不服げに呟いた。


 首を回して後ろを見れば、店員は業務に戻ったようで忙しなく動いている。


 通報の義務を重んじることのないバイトの身分ゆえか、傍の受話器に手を伸ばす様子も見えなかった。けれど表情は心なしか焦って遅れを取り戻そうとしているかに見える。言われるまでもなく、対処が悪かったと反省しきりだ。


 家出娘は健二が買ってやったマスクの包装を破り、口を覆いながら言った。少女の追い打ちが辛い。


「わざわざ会話振らなくていいじゃん、あの店員、困ってたよ」


「ああ、そやな。しくじったわ」


 妙な共犯意識が芽生えていた。


 通りは雨で、多少は降りが緩やかになったとは言え、人の姿はほぼなかった。泥水色の粘土で蓋をされた天空は低かった。茶色く汚れた雲の渦巻きをなんとなく追いながら歩く。目を離してももう少女は逃げようとはしなかった。


 駅に近づくにつれ、通りは賑やかさを戻していく。商店が多くなり、煌々と灯りを点した軒先が増えていく。


 それでも交番の手前で制服警官が二人話し込んでいる姿が目に入ると、にわかに緊張の糸が戻った。知らず手に力が入ると、少女も握り返す。


 視線を向ければ、少女は不安げな瞳を揺らした。じっと見つめる目には懇願の色が見えた。警察に突き出すことは、見捨てることと同義だろうか。あと百メートルほどの距離、歩く速度は比例して落ちる。


 足が止まり、二人、見るともなしに見つめ合い、それからもう一度揃って前を向いた。


「ケーサツ、突き出すんじゃなかったの」


「そんなん、お前また逃げ出すんやろ」


 妙な責任感も生まれていた。いや、下心というわけではない、今夜が寂しく、耐えきれないと思う気持ちは無関係だ。


 健二が改めて一歩を踏み出すと、少女も遅れて歩き出した。厳しい顔つきで何やら話している二人の警官の傍へと近付いていくごとに、緊張感が増していき、足は重くなる。


 すぃ、と少女が前へ出た。


「こんなの、平然としてれば誰も疑わないよ」


 隣の横顔が冷静に言い放ち、まっすぐ前を向いたまま大股に二人とすれ違った。警官たちは話に夢中でもこちらを鋭く一瞥することは忘れなかった。


 追いかけてきて「もし」などと声を掛けられたらどうしようか、健二の心臓は縮み上がっていた。


 相当の距離が開いてから、彼はようやく伸ばしていた姿勢を緩めた。らしくもなく、のけぞるように背筋を伸ばしていたものだ。


「ふぅ、生きた心地せぇへんで」

「大袈裟だよぉ。あの人たち、割とフシ穴だからなんにも見てないよ」


 悪そうに目を細めて少女は言った。コンビニの時と同じく慣れた調子で腕まで組んだ。やはりいつもの手口なのだろう、緊張のカケラすら見受けられない。


 少女は行き交う人々と同じになりきっていた。


「ねぇねぇ、さっきからさぁ、気になってたんだけど。おじさん、大阪の人でしょ? 大阪から来た人ってさ、なんか面白いこととか言うんじゃないの?」


「それな。大阪言うたら漫才師扱いしてんやないぞ。俺なんかごく普通の真面目なサラリーマンなんやから、そうポンポンと調子のいい話なんか出ぇへんわ」


 背後に警官の気配を探りつつ、わざと作ったチャラけた口調で切り返す。周囲の人々に紛れるためだと割り切った。


「ひゃはは、それそれ、おもしろーい」


 相づちはテンポよく返ってきた。誰が聞いているわけもない小芝居に、心の隅の方では不穏さを感じていた。背にした警官たちの気配はいつまでも二人を追ってくるようだった。


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