4
娘を捕まえるのは簡単だった。足を怪我でもしているのだろう、びっこを引いてひょこひょこと走る背中にはすぐに追いつくことが出来た。
ちょうど街灯の下で捕まえ、もしやと思い足元を覗き込むとやはり怪我を負っている。派手な擦りむき跡が痛々しかった。
「ちょっと待てや、怪我してんのか?」
「ほっといて! 警察に通報しようとしたでしょ⁉」
その通りだった。だから返事はしなかった。不審な人物を見たらとりもなおさず通報が正解だと思っている。
健二も顔をしかめていたが、娘の方もぶすったれた顔をしている。
お互いが、相手の出方を窺ってわざわざ不機嫌な顔を作っているのがどうにも奇妙でおかしな様子だ。腹の探り合いだった。
その場に踏ん張って動こうとしない少女を引きずって、先ほど放り出した傘を拾いに向かう。
少女は引きずられるうちに、イヤイヤの動作が全身全霊となり、しまいにはしゃがみ込んでしまった。その間、なにやら言い訳らしきを喚き散らしてもいた。
「うちに帰りたくないだけだし! 気が済んだら自分で帰るんだから、余計なお節介だし! 今だって別に困ってなんかないし、ブランコ漕いでただけだし!」
家出だ。問い詰めるまでもない、状況が雄弁に語っている。
座り込んだままテコでも動かないつもりらしい娘を見下ろして、健二はさらに顔を厳つく、怖い表情を作って脅してみせた。
娘は怯えるどころか毛を逆立てて威嚇する猫のように、その頬を大きく膨らませた。睨めっこの勝敗は健二の負けだ、精一杯に寄せていた眉根がほどけ、笑い出してしまった。
「通報する気でしょ」
笑いに誤魔化されることなく、見知らぬ娘はぶすったれた顔のまま、聞いた。
「どうしょうかな、けど、見て見ぬフリなんか出来へんわな」
少女の手をホールドしたまま、こちらも憮然とした態度に戻って告げた。
互い、にらみ合いの様相となったが、僅かな追いかけっこのうちに警戒も薄らいでしまい、健二の表情は緩んでしまって説得力に欠けるし、少女の方でも声に甘えが滲んでいた。
通報するかどうかもすでに決めあぐねている。ひたすら、面倒なことになったとばかり考えていた。
逃げようと本気で抵抗すれば逃げられただろうにそうしない少女の思惑にも勘付いてしまった。妙なところで義理堅い自身の性質をどうやら見抜かれてしまったらしい。
何かの事情で家に帰れないのだろう少女を、このまま放置することも、警察に突き出すことも、なんだか薄情に過ぎるような罪悪感がある。
個人がどうのこうのと手出しをするより、司法の手に委ねた方がこの娘のためには絶対にいいのだ、それは解っているのに、なんだかそれでは巧くいかないような気がしてしまう。
なぜ公園の中へふらふらと入り込んでしまったのだろう、そんな後悔すら沸いた。
気負いすぎ。判断の過ち。色々と言葉が浮かんでは消えていくのに、肝心の動作は何も決められないまま立ち尽くしている。
警察に通報して、警官がやってきて、そこで少女があらぬ疑いを健二に吹っかけてこないとも限らないわけだ。揉めている隙に彼女はまんまと逃げおおせるだろう。それを予感させるような、すれっからした上目遣いで少女は健二の顔色を窺っている。
しゃがみ込んだ少女は覗き見るような視線でじっと健二を見つめ、その目の色彩は徐々に期待を込めたものに変わり始めている。
完敗だ、なぜだかそんな感想が湧いた。上目遣いに見上げている少女に、ため息で答えた。
「解った、とりあえずその怪我の手当てしようや。消毒と絆創膏だけ貼らせてくれ、その後は好きにしたらええから」
半分は口からの出まかせだ。放置してやる気は起きていない。まだどこかで通報の義務を考えている。
元々、面倒事を自ら買って出るようなタイプでもないし、いい加減煩わしく感じ始めているのも本心だが、だからといって舐められるのは本意でない。
こんな真夜中のひと気もない公園で、見知らぬはずの男に拘束されていてなお、怖れのカケラもない少女の顔つきが如実に語っている。
期待に満ちた表情は、健二を、彼女がそれまでに引っかけてきただろう幾多の男どもと同じ類型に混ぜ込んだことを教えていた。
この少女の、これは常套手段なのだ。
男の引き寄せ方とでもいうべき方法に引っかかったのだと思うと、あれこれと浮かんでいた善良な言葉があっという間に色褪せるのを感じた。
熱意はすんなりと冷めた。呆れてしまい、もうどうでもいいとすら思った。好きにすればいいという気持ち半分、さっさと警察に突き出してしまえという処罰的な考えとがない交ぜになった。
やはりいつもの手口なのか、少女は大袈裟に眉を潜めて、男の良からぬ企みを疑うような目を向けた。
「何もせぇへん!」
思わず言い返してしまった。
案の定、気付けば立場が逆転している。
いつの間にやら、健二の方が不審者に見える状況だ。嫌がる若い娘を浚おうとしている不審な男、としか見えない。雨の中、傘も差さず、明かりも持たずで揉めている二人だ。
何も後ろめたいことなどないのに、慌てて周囲を見回してしまい、憮然とした。
それでも関わってしまった以上は仕方がない、何が仕方がないのかよく分からない、まんまとハメられた、と、腹立ち紛れの自問自答で健二は言葉を探した。怪我人を放置するのは心苦しいとする己の良心までが奇妙に歪んだものに感じる。
「雨の公園よりはマシやと思うから」
ぶっきらぼうに付け足した言葉は、疚しい男の言い訳台詞そのものにしか聞こえなかった。
甘えたような少女の目が、しゃがみ込んだ姿勢のまま健二を見上げている。
どこか愛嬌のある表情でわざとらしく目をすがめて、得意げでありながら、この男を疑っていますと周囲にアピールするような顔を作り上げた。
あざといやっちゃ……。そう思う。
反対に健二の方では渋い顔になっていた。これは絶対にわざとだ、いっそもう放り出して帰ろうか、そういう思いまでが掠める。
けれど健二の手が微妙に力加減を抜き始めると、少女は逆にその握る手の強さを増すのだ。疑っているような目付きが急に、途方に暮れた、縋りつくような表情に取って代わる。
その度にどきりと心臓が鳴り、苦々しい思いが溢れる。本当に、あざといだけなのかどうかが、解らなくなった。
片手でしっかりと手を捕らえ、なおも歩けば、しゃがんだままでズリズリと移動する。
先ほど放したビニール傘を拾い上げ少女に向けて差し掛けると、今度は黙って立ち上がった。
手を繋いだ状態で、なのに逃げる気は満々で、身構えた少女はリレーのタスキでも待っているかのポーズだ。さっきは確かに、離そうとする手を引き留めるかのように力をこめたくせに。
健二が深々とため息を落とす間も、少女はフェイントを仕掛けるようなコミカルな動作を取っていた。なんの意味があるのか、この娘の考えはよく解らなかった。
ボクシングの選手がやるようなステップを踏みながらも、本気で手を振りほどこうとはしない。逃げ出したいのか構ってほしいのかどちらなのか。
「答えたくないなら別にええけど、こんな夜更けに何してたん?」
「別に……ブランコあったから漕いでただけ」
答えにもなっていない返事の後は、もう逃げ出す素振りも見せなくなった。
妙なファイティングポーズを解いて、腕をだらりと伸ばす。通報する気配でも見せれば即座に逃げる算段くらいは残しているだろうか。
そうと思えば間髪入れずで、今度は文句を言いだした。
「騙し討ちでケーサツに通報とか、ほんっとにやめてよね? 正義ぶってさ、こっちの事情なんか何も知らないくせして、エラそうに説教してくるヤツ、たまに居るんだよね。迷惑だから。アレ」
早口で捲し立て、締めくくりには「あんた同じニオイがするよ」と、少女は憎たらしいことをズケズケと言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます