山の子 第二章(1-13)

「政綱殿、私にも聞こえてきたぞ。これは人の喚き声ではないか…?」

「そうらしい」

 人狗にんぐの政綱が遠くの騒音を聞きつけてから、中原師春はまた政綱の後ろを歩くようになっていた。

妖討使ようとうしだろうか?」

「そう考えるのが自然だが…」


 妖討使達は、政綱達の後を追うように山に入り、上手い具合に会わずに済んでいたのだが、無論二人はそんなことは知る由もない。

 政綱が注意深く様子を窺いながら先導し、師春はその陰に隠れるようにして随伴した。何度か転びそうになったが、自由になった両手のお蔭で倒れることはなかった。


 麓が近づく毎に騒音は大きくなる。聞こえてくるのは喚き声だけではない。金属がぶつかり合う音も、段々と大きくなってきた。

 師春は身震いしたが、それは冷たくなってきた風の所為ばかりではなかった。

 木立の切れ間から顔を覗かせた政綱は、思った通りの麓の光景に舌打ちした。

「合戦だ」


 村一帯を戦場に、合戦が始まっていた。武士や官人が集まっていた広場は、すっかり踏み荒らされ、不揃いな具足に身を包んだ男達が駆け回り、斬り合い、倒れ伏している。最も目立つ実量さねかずの家は、片方の陣所になっている様子だ。陽が傾いて色が分からないが、幾筋もののぼりが立てられているのが見えた。

 恐る恐る顔を出した師春は、広場の光景を見て息を飲んだ。


「何ということだ…」

「見たところ、村人の姿はないようだ――」

 政綱は目を凝らしながら言った。

「倒れている中にも見当たらんな。公家らしい者もそうだ。お前の友人も上手く逃げおおせたんじゃないか?」

「そうだろうか…?」

 どうかそうであってくれ。師春は祈った。


「確か、本所の代官と山僧の軍勢が、名の外に来ているんだったな?」

「あ、ああ。そうらしいが」

「戦っている連中は、御家人の郎党や下人にしては妙な装束だ。少し派手過ぎる」

「私にはよく見えないが…だとすると、戦っているのは……?」

「ほう、斧を引っ提げた奴までいるぞ。…あいつ、中々やるな」


 政綱の目に留まった男は、大きなまさかりを振り上げ、立ち塞がった別な男の頭を叩き割った。

 幸いにも人狗のように細部までは見えなかったが、師春にもその瞬間が見えた。咄嗟に目を塞いだが、麓から届く騒音の中から、頭蓋の砕ける音だけが大きく聞こえたような気がした。


「そんなことより――」

「誰が戦っているか、だろう?」

「ああ」

「おそらくは、お前達の言っていた代官と山僧だろう。妖討使の制止は十分ではなかったようだな。まぁ、あの戦いぶりからして、簡単に引き下がる連中でもなさそうだが」

 政綱が目で追う鉞の男は、次なる敵を求めて周囲を見渡した所で、顔に矢を射込まれて崩れ落ちた。殺到した敵方の男が、馬乗りになって止めを刺している。


「行こう。何時までも見てはいられまい」

「しかし何処へ?」

「離れた所で下山すれば、戦には巻き込まれないだろう。麓までは送ろう。そこからは、とりあえず、何処かで一晩明かせ。近くに宿駅があるだろう。峯匡みねまさにも会えるかもしれん。おれは村に戻る」

「なに、村だって?何のために?」

「馬を置いてきた。実量に預けてな。奴等にくれてやる気はない」

「馬のために戻るのか?」

「そうだ。急ぐぞ。山で完全に陽が沈むと、おれでも思うように――」

 そこまで言った政綱は、師春の肩を掴んで地面に伏せた。二人の頭上を、唸りをあげて矢が飛び去った。

「な、何だ⁉」

「隠れてじっとしてろ!」


 政綱は慌てる師春を木立に押し込むと、太刀を抜き払い、矢の飛んで来た方向を睨んだ。麓の様子に気を取られていた間に、山に上がって来ていたはぐれ者達を見逃していたらしい。相手は五人。そのかなり後ろにも、こちらを目指す者達の姿が見えた。

 政綱は仁王立ちで言った。


「弓を下ろせ。敵ではない。おれ達は戦には無関係だ」

「その手は喰うか!騙し討ちがお前等の得意とするところだろう!」

「誰かと間違えていないか?手を出せば後悔することになるぞ」

「黙れ悪党!おい、さっさと片付けろ!」


 ――どっちが悪党だ。

 舌打ちした政綱は、反りの浅い二尺五寸の愛刀――ヒトトイの柄を握り締めた。

 命じられた射手は矢を番え、一気に引き絞ると、呼吸を置かずに政綱の胸を目がけて放った。

 手慣れた動作だったが、政綱には物の数ではなかった。造作もなく太刀で矢を払うと、瞬く間に射手の目前に迫り、腰の入った回し蹴りで坂下に落とし込んだ。


「うわああああ――…!」


 叫びながら転がり落ちる男には目もくれず、政綱は太刀の刃を返し、構えずにぶらりと引っ提げた。暗がりの中に立った人狗の満身から、妖気が立ち上がったかのようだ。その異様な雰囲気を打ち破ろうと、気合いと共に斬りかかった男は、一合も打ち合うことなく、首筋に峰打ちを叩き込まれた。

 あっという間もなく二人を倒された男達は青ざめ、政綱から距離をとった。


「こ、こいつ強いぞ…!」

「下がれ、下がれ!後ろの連中を待って畳みかけろ!」

 慌てる男達を尻目に、政綱は木の陰で屈んだ師春を立たせた。

「残念だがこのざまだ。山奥に向かって走れ」

「お主はどうする⁉」

「心配要らん、すぐに追いつく」


 バラバラと新手の<悪党>達が現れ、じりじりと間合いを詰め始めた。

 政綱は師春を庇いながら、右手の太刀の切っ先を男達に向けた。

「走れ!」

 師春は弾かれたように木立を飛び出し、下りて来たばかりの道を駆けた。

 途中一度だけ振り返ると、政綱は後から登って来た男達に囲まれつつあった。


 とにかく走った。政綱に詫びながら走った。だが、いよいよ暗くなった山道では、人狗の先導なしで走るのは至難の業だ。それでもなんとか頑張ったが、麓が遠退けば遠退く程木立は深くなり、しばらく登ったところで走れなくなった。精々早歩きが限界だ。


 木の間から垣間見える空は、茜色から薄紫色に変わっていた。見ているゆとりは無いが、幾つか星が瞬いている。もう幾程もなく、完全な闇に包まれる。

 追いつくとは言ったが、どこかで待たなければ政綱は見つけることができないだろう。師春は途中で見つけた岩陰に隠れ、耳を澄まして人が近寄るのを待った。師春の人間の目には、周囲の景色が殆ど見えなくなっていた。

 じっと隠れていると、目が暗さに慣れていくのが分かる。昔、家中の人々と共に野遊びに出て、日が暮れるまで山を歩いた時のことを思い出した。子ども時代の思い出だ。それも楽しい思い出だった。


 だが今はそうではない。命を狙われている。その恐れが、次から次に悪い想像を呼び込み、思い出したくもない色々な妖の知識を、いつもより詳細に思い出させた。そう言えば、今自分が背負っている革袋も、ぬえの翼膜だ。そう思った瞬間には、忍び寄る鵼の姿と、その鵼から襲われる自分の姿を幻視してしまう。この恐ろしい想像自体が、妖にかけられた呪いなのかもしれない。


 ――まさか、この山の神が呪いを?山を歩き回った所為で怒りに触れたのか?

 一度考え始めると、留まるところなく人を包み込むのが恐怖だ。師春の呼吸は浅く、荒くなり始めていた。

 ぐるぐると廻る恐ろしい想像の連鎖で、師春がマドウクシャという死体を持ち去る猫妖怪のことを思い出したところで、地鳴りのような大音響が山に響き渡った。全身に鳥肌が立ち、直後に冷や汗が吹き出した。


 ――何だ⁉何の音だ⁉

 音は一度きりだった。それから随分経ったような気がするが、空が辛うじて赤味を保っているところからすると、それ程は経っていないらしい。


 ――まさか、さっきの音は人狗が何かに襲われて…?斬り合いであんな音がするはずがない。もしかすると、山に住む大鬼に踏み潰されたのでは⁉

 師春がそろそろと立ち上がり、場所を移動しようとしていると、ガサガサと草を踏み分ける音が聞こえてきた。師春はすぐに岩陰に隠れ、顔を伏せた。


「丸見えだぞ」

 その低い声は、師春が待ち侘びた声だった。飛び起きた師春は、周囲を見回した。


「政綱殿!何処だ、見えないぞ!」

「静かにしろ、声が高い。ここだ」

 声を頼りにして目を凝らすと、なんとか姿形だけは見つけることができた。しかしそれでも、政綱が黒い装束に黒い具足を着けている所為で、師春にはどこまでが政綱で、どこからが闇なのかがよく分からなかった。


「一体何があった?物凄い音がしたが、お主も聞いたか?」

「あれは、おれの吹かせた風の音だ。一々相手にするのにうんざりして、少し驚かせてやった。夜明けまでは探しに来ないだろう」

「か、風だって?お主が吹かせたのか…?」

「いまそう言ったろう。天狗からの授かり物だ。天狗のように激しいものは吹かせられないが、少し驚かせるくらいのことなら人狗にもできる。分かったか?」

「…あ、ああ」


 政綱は、驚いて言葉の出ない師春の肩を叩いた。

「しっかりしろ。もう少し登るぞ。おれはまだ、灯りが無くても足元が見える。昼の内に立ち寄った場所に、隠れるには悪くない岩があった。そこでなら火も焚けるだろう」

「分かった。案内してくれ」

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