第8話 夏の扉を開けて

 ホテルに着く前にいつも言われた電気と水回りの確認のことが、この日はとくに念入りだった。

「二つ星、三つ星のホテルと言えども、日本の住宅ほど便利ではありません」

 他の日には言われなかった注意事項もある。

「海に近いホテルでは、真水を確保しにくくなります。シャワーを連続で使えるのは1分30秒までです。時間帯や他の部屋の状況にもよりますが、1分ほど間を置くとまた使えるようになります(※)」


 こちらとしては潮風を浴びて歩き回った日こそゆっくり髪や体を洗いたいけど、まあ仕方ないと思う。

 ビーチサンダルのことは気がかりだった。日本に帰るまで履かず、トランクに仕舞いっぱなしになるだろう(実際そうなった)。

 そうでなくても、泥だらけのままにしておけない。環境には申し訳ないが、今日洗うほうが良いだろう。


 ホテル「ドゥ・ラ・ディグ」に着く前に、ツアーはその近くのスーパーマーケットに寄った。

 入口の、派手な模様に彩られた牛のオブジェがおもしろかった。

 ゲランド産の塩と、エコバッグを買ったのは確かだ。どちらも今も自宅にある。

 バッグは底面の四角いマチが広い。買い物というより、室内のこまごまとしたものをとりあえず放り込んでおくのに便利だ。

 塩は日本でも輸入食料品店で手に入るものだが、なんとなく勿体無くてまだ使っていない。


 そして、これを書いている今となっては理由が全く思い出せないのだが、私はこの買い物のときようだ。バッグに入れて持ち歩けるペットボトルの水を切らさないように、あんなに旅行中ずっと気にしていたのに。



  *  *  *



 ホテルの夕食は、フレッシュな海の幸がとても美味しかった。牡蠣は三陸産だ。北極圏上空を通って空輸されるという。


 夕食後、ツアーのみんながそれぞれ鍵を受け取り、客室階の入口から入る。増築された部分があるとも聞いていた。

 一組また一組と、それぞれの部屋へ入ってゆく。

 K夫妻と私を残して、廊下は行き止まりになったように見えた。

 よく見ると壁に簡素な扉があった。

 扉を開けると通路だ!

 また言うけどRPGみたい。


 たぶん、ここが増築部分なのだ。建築様式が違うかどうかは知らない。

 窓のない通路(両側とも客室だから)なので暗いが、灯りのスイッチはすぐに見つかった。一定時間が経つと消灯する。そのころには次の点灯用スイッチが見つかる。2つか3つあった。

 灯りをつけながら進むと、通路の端を挟んで、K夫妻の部屋と私の部屋がある。


 室内には、机の上に500mlペットボトルの水が2本もあった。有難い。



 早くサンダルを洗おう。夜遅くなるほど、他の部屋でシャワーが使われる時間とかち合うだろう。


 履き物を包むための新聞紙を余分に持ってきていた。そのうち2、3枚を重ねて床に広げ、その上でサンダルをはたいて、なるべく砂や泥を落とす。新聞紙は砂をこぼさないように丸めてゴミ箱に捨てた。

 それからバスタブのなかで、桶に溜めた水を時々換えながら、サンダルを丁寧に洗う。

 なぜバスタブの中で作業するのかというと、バスルーム内に洗面所もあるので、なるべく床を濡らしたくないのだ。

 水を切るために、爪先側を上にしてバスルームの壁に立てかけた。

 


 気になっていたサンダルの始末が一段落すると、一休みしたくなった。

 窓から川が見える。水門に沈もうとする夕日を眺めながら梅干しを食べ、ペットボトルの水を一本飲んでしまった。

 ふと時計を見ると夜9時を過ぎていたが、まだ明るい。

 

 外に出ることにした。通路に出ると、隣の部屋の人も出入りするところが見えた。日本人で、ほかのツアーの人だ。

 明日集合するとき間違えないように気をつけよう。



 モン・サン・ミッシェルが向こう岸に見える。

 手前の橋には、そぞろ歩いたり、欄干にもたれて景色を楽しむ人々がいる。

 私もそのなかの一人となった。

 すれ違う人と会釈を交わした。何割かは同じツアーの人たちだった。

 

 すべてが薄紅色の夕焼けに染まっていた。

 夕やけ色の空気のなかに浮かんでいるような気分。

 橋から眺めるモン・サン・ミッシェルも美しかった。




(次回、第9話の日没後へ続く)




(※)具体的な数字は違うかもしれませんが、髪が長いとシャンプーには物足りない程度の時間制限が、当時あったのは確かです。

今はもっと改良されているかもしれません。

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