女王アリとキリギリス

糸賀 太(いとが ふとし)

女王アリとキリギリス

 食っちゃ産み、食っちゃ産み、食っちゃ産み。

 どうしてこうなったのかと、女王アリは巣穴の壁に問いかけます。答えは返ってきません。外敵を阻む地下迷宮も、女王にとっては牢獄です。

 近衛兵たちは、女王の悩みには気づいても気づかないフリです。

 外に出たいなんてことは言いません。「女王のお役目」に始まり「ゾンビ菌でも感染ったら」に終わるお説教は、もう聞きたくありません。

 そこで女王は一計を案じました。

 衛兵の交代式を見届けると、子守唄を始めたのです。

 若いころは月光の下、絶世のソプラノとして、オスどもを手玉に取ったものです。一夜明けると、男たちはみな精根尽き果てて、春風に吹き流されドブ川に浮いてましたが、オスなんてそういうものです。

 歌は二番に入りましたが、近衛たちは触角をピンと張ったまま、水も漏らさぬ警戒態勢です。

 三番に入ったところで、入口に誰かがやってきました。

 一匹の働きアリです。

 女王が頷くと、衛兵が訪問者を通します。

「何用か?」

 相手はもじもじと顎を動かすばかりです。

「余の歌を習いたいのか?」

「はい。歌のことです」

「うむ」

 女王は期待に満ちた視線を注ぎます。

「幼虫が起きてしまいました」

 奏上は土壁に吸い込まれ、あとには静寂だけが残りました。


 それから数日後、女王の間に甘美な音楽が流れてきました。決して見ることの出来ないだろう、地上からの音です。

 女王は思わずうとうとしましたが、決して閉じない複眼が決定的瞬間をとらえました。近衛兵たちの居眠りです。あられもない姿を晒して眠りこけています。

 なんたる幸運。

 女王は六本の足に渾身の力を込めます。

 長い胴を床にこすりながら、出入り口へ体を潜り込ませます。

 上り道の大変さといったら、卵を生むためだけに膨れ上がった腹が恨めしい。

 地上からの旋律を励みに、胴体をえいやえいやと引きずって、枝分かれした迷路のようなトンネルを這い登ります。

 ありがたいことに、古参兵から幼虫に至るまで、みな寝静まっていました。

 他のものが寝ているなかでする夜遊びほど愉快痛快なものはありません。

 地上にはきっと素晴らしいものが待ち受けている。

 女王の期待は見事に的中します。

 二度は見られぬと思っていた月明かりの下で、翡翠像のようなキリギリスが神々しい音楽を奏でています。

「お会いできて光栄です。マダム」

 女王アリは言葉が出てきません。

 殿方に言い寄られるなんて、何年ぶりでしょう。

 中天の月が草むらに半分埋もれるまでの間、女王とキリギリスは睦言を交わしに交わしました。若い頃に見た太陽の眩しさは今でも同じかと尋ねたり、メロディを目指して迷宮じみた隧道をいかに這い登ってきたか、武勇伝を語ったりしました。

 本来であれば、巣穴の構造は門外不出なのですが、愛の前では規則など無力です。

「また昔のように高いところにのぼってみたい」

 女王は、羽を失った自分の背中を見て呟きました。

「その願い、叶えて差し上げましょう」

「本当?」

「本当ですとも」

 そう言い残すと、キリギリスは緑色の風となり去っていきました。

 長い後ろ足の先からヒマワリの香りが漂ってきて、今は夜だというのに女王は太陽を思い出しました。


 また外に出たい。

 声にならない声を土の壁が押し殺しました。

 あれから何日もたったはずですが、いまだにキリギリスの再訪はありません。

 女王アリは触角をばさばさと振りますが、近衛たちは知らんぷりです。

 いつものように働きアリが女王のお膳を運んできます。いつものように女王は巣ごもり生活の愚痴をこぼします。いつもと違ったのは、新米の働きアリだということ。

「外に出られないのはお母様だけじゃありません」

 女王は顎を開いて、娘を睨みつけます。

「何だって?」

 新米は胸をぴんと張って言い放ちます。

「蟻地獄だってずっと土の中です」

「馬鹿言うんじゃない。老いぼれた母親をからかおうったってそうはいかないよ。蟻地獄ってのは、最後にはカゲロウになって、透明な羽でお空に飛んでいくんだ。これだから世間知らずの若いのは…」

 もう誰にも止められません。

 娘が解放されたのは衛兵が二交替したあとのことでした。

 八つ当たりをしてからというもの、どのアリも女王とは必要最小限の付き合いだけになりました。昔は気の利く娘が、さりげない調子で外の世界のたよりを伝えてくれたものですが、もうそんなことはありません。

 退屈は前よりもひどくなりました。


 さてさて、そんなある日のことです。

 ヒアリの大軍が女王アリの巣を襲いました。

 トンネルになだれ込んだ血の色のアマゾネスたちは、働きアリも兵隊アリも見境なしです。切ったり噛んだり、焼け付く酸を浴びせかけたり、地下迷宮は地獄です。

 なかにはひとおもいに殺さず、神経を噛み切って麻酔を打ったようにしてから、悪童がするように脚を一本ずつ、ちょんぎったり引き抜いたり食いちぎったりする、芸術家気質のヒアリもいます。

 麻痺させているだけ慈悲深いのかもしれませんが、どのみち頭、胸、胴の三つにバラされる運命です。

 隠し通路も一つ残らず暴かれて、避難させていた幼虫も皆殺しです。

 生き残りたちは反撃のため、老いも若きもみな、秘密の場所に集合しました。

 牙を研ぎ、盃を割り、決死の覚悟で出撃しようとした刹那、背後で偽装壁が崩れ落ちました。

 現れたのはヒアリの大群。

 緋色の大波が、怒涛の勢いで襲来します。

 不意を突かれた味方たちは、なすすべもなくやられていきます。

「なぜだ!」

 どうして仲間だけが知っているはずのルートから敵が来たのか、誰にも分かりませんでした。


 とうとう太陽は見れずじまいかと、物思いに沈む女王の足元に、娘たちの生首が転がってきます。

 ヒアリの群れは女王を取り囲みました。

 包囲の輪が狭まります。

 あにはからんや、敵は女王に断頭の一撃を加えずに、体の下に潜り込みました。歴戦のアマゾネスたちが剛力を奮い起こし、普通の何倍もの大きさがある女王を持ち上げます。

 女王はジタバタと暴れますが、地に足が付いていないのでどうにもできません。

「ちょろいちょろい」

「もっと手こずると思ったけど」

「緑野郎のおかげさね」

「翡翠参謀バンザイ!」

 ヒアリたちは浮かれ騒ぎながら、死屍累々たるトンネルを地上へと遡っていき、とうとう女王は念願の太陽と対面しました。

「我らが女王陛下の命により、貴殿は磔刑に処す」

 ヒアリの将軍が、顎をカチカチならして宣言しました。


 女王アリは、ヒアリの塚に磔にされ、天日干しにされています。

 高いところにのぼりたいとは願いましたが、自由の身であってこその話です、

 このまま朽ち果てるのかと絶望する女王の目が、蟻塚のふもとに動くものをとらえました。

 キリギリスです。

 翡翠像みたいな彼は、今日もおしゃれです。緑の体にあった、メジロの羽毛を襟巻きにしています。

「愛しい人、愛しい人。余はここだ」

 口は天日でからからですが、渾身の力を振り絞って呼びかけます。

「そこですねえ」

「そう。ここだ」

「そこですねえ」

 キリギリスは、女王を見上げたきり動きません。

 彼のたくましい足と羽なら、蟻塚の天辺までひとっ飛びでしょうに。

 暑さで朦朧とした頭で地上を見下ろしていると、二匹のヒアリがキリギリスに近づいていきます。

 愛しい人の肌が燃えつく酸で焼き焦がされるのだと思うと、女王アリはいてもたってもいられませんが、粘土の枷を振り払う力など老体にはありません。

 逃げて、逃げて。

 女王アリは声にならない叫びをあげますが、地上には届きません。

 キリギリスはといえば、ヒアリが近づいてきても平気な顔です。

 ヒアリの門衛たちがキリギリスの口元につきました。触角を動かしたり、羽を震わせたり、首をきょろきょろさせたり、何やら言葉を交わしているようですが、遠くて聞き取れません。

 面会は穏やかな調子でおわり、ヒアリたちが塚の中へ引き上げていきます。

 きっと愛しい人は、身代金交渉の使者なのだ。そうに違いない。

 陽射しにあぶられながらも、女王アリは希望にすがりつきます。

 眼下に動きがあります。巣穴からヒアリの行列がでてきて、行儀よく二列になりました。列と列の間は空いています。

「女王陛下のおなーりー」

 ヒアリの侍従長が、触角を天につきあげ、声を張り上げます。

 入口から、大きな大きな体、それでいてまだハリもツヤもある若いヒアリ女王が現れます。

「また会えて嬉しい?」

「僕もだよ」

 女王ヒアリとキリギリスは仲睦まじげです。

 磔にされた女王も、ようやく真実を悟りました。

 自分は利用されたのだと。

 キリギリスは巣穴の秘密目当てで、自分に近づいたに過ぎないのだと。

「もっと磔が見たい」

 ヒアリ女王は、磔にされた女王へにたりと笑ってみせると、緑の楽師に身を擦り寄せました。

「次のカモを捕まえてくるよ」

 緑色の風になって飛び立ったキリギリスを、カケスの鉤爪がひっさらっていきました。

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