僕と彼女の家取り合戦

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僕と彼女の家取り合戦

 いやあ、今日も暴れていらっしゃる。


 眠りから覚めて、僕は苦笑いした。今日も今日とてひどい有様だ。布団の上に点々と赤い斑点が飛び散っているし、窓ガラスは手形で一杯、消して寝たはずのテレビは砂嵐を放映中だし、おっと、足を置こうとしたベッド下には長い黒髪が盛り塩よろしく山を作っている。


 うん、ここまで自己主張の激しい幽霊も珍しいんじゃないか?


「あのさあ、これ誰が片づけると思ってんの?」


 あいにくと、僕には霊感というものがまるで備わっていない。だからここに住むらしい幽霊も、こういうあからさまなやり方をするしかないのだろう。一応呼びかけてはみるものの、返事は当然のごとく聞こえてこない。代わりにコップが食器棚から身投げした。ふむふむなるほど。きっと答えは「そんなの知るか」といったところか。


「そろそろ諦めない? 君にいくら暴れられても、ここを出て行く気、ないんだよね」


 コップがもう一つ落下した。諦める気はないらしい。まったく、困った幽霊と同居することになったものだ。


 □


 家賃相場の半額以下で住めるその物件の案内には、備考欄にしっかり「心理的瑕疵かしあり」と記載されてあった。不動産屋さんも丁寧に「前の方が自死されていて」と教えてくれた。それでも住んだ理由? さっきも言ったように僕には霊感がないから、そんなこと関係ないと思ったんだ。どうせ家なんて寝に帰るだけだろうし。内見しに行ってみても全然違和感なんてなかったし、むしろ洒落た内装を好ましく思ったほどだ。入居はすぐに決めた。


 実際、最初の一年は何ら問題なかった。講義もぎっしり詰まっていた上、サークルとバイトもやっていたから、家になんて本当に寝るときに帰るくらいなものだった。半年も経った頃には、この家が事故物件だなんてこと、とうに忘れていた。何不自由ない、快適な暮らしを送っていたから。


 しかし、だ。問題は一年後発生したのである。コロナウイルス流行。緊急事態宣言。ステイホーム。大学はリモート授業になった。サークルは活動休止になった。バイト先からは来るなと言われた。来る日も来る日も、僕は家で過ごすようになった。


 多分、ここに住む幽霊はそう悪くないやつなんだとは思う。最初の一年は大人しくしていたからだ。きっと、あんまり帰ってこないということで、我慢してくれていたのだろう。それが、コロナ禍で一日中しっかり家にいるようになってしまった。幽霊の我慢の限界が来たらしく、緊急事態宣言後二週間して、僕は彼女と——手形の大きさとか、髪の長さからしてたぶん女の人だ——連日家取り合戦を繰り広げることになったのである。


 出て行ってあげればいい? いやいや、簡単に言わないで欲しい。引っ越しにいくらかかるとお思いか。それに、こんなに安く住めるところなんて、ここくらいなものだ。コロナ禍でバイトもできない今、僕はこの家を死守しなければならない。


 □


 合戦なんだから、僕だってやられっぱなしというわけにはいかないさ。起きてすぐに、僕は盛り塩を用意して結界を作る。自分とリモート授業用のパソコンを置いたテーブルを囲うように、四隅に盛り塩の小皿を置くのだ。こうしておけば、とりあえず授業の邪魔をされることはない。対処法を思いつく前までは、パソコンまで砂嵐化して大変だった。


 昼間は幽霊力? 的なものも少々衰えるらしく、幽霊ができることといえば、ちょっと物を落としたり動かしたり、電子機器を不調にさせたりするくらいなもので、しかも盛り塩で無効化できるから、それほど害はない。問題は夜で、日が落ちてから彼女は本領を発揮し始める。壁を赤く汚してきたり髪束を落として来たり、電灯を激しく点滅させてきたり、人の足を引っかけたり肩にのしかかって来たり、とにかくあらゆる物理的嫌がらせをしてくるのだ。霊感の有無なんて彼女には関係ないらしい。こうなると盛り塩も効かないので困ったものである。


 とりあえず綺麗好きの僕は、授業開始まで掃除をすることにした。ときどき彼女に軽い邪魔をされながらも、シーツの洗濯と髪の山の片づけを終え、落ちたコップのうち、一つだけ割れてしまっていたものの後始末に取りかかる。そこで、とあることに気がついた。


 この陶器のコップは、この間皿洗いの途中にぶつけて欠けたんじゃなかったか。ちょうど飲み口のところで、危ないと思っていたのに、何でか忘れて洗い終え、しまいこんでいた。そういえば電話がかかってきて洗いものを中断したんだっけ? それで忘れてしまったか。ああほら、やっぱりだ。破片の中に一つ、飲み口の部分が欠けた箇所がある。


「もしもし、幽霊さん? これ、もしかして危ないと思ったから落としたの?」


 このコップは、割と奥の方にあったような気がしたものだから、言ってみた。すると、棚の中の皿を無造作に移動させるという地味に嫌な悪戯が、その瞬間、ぴたりと止まった。おお、これは図星かな?


「幽霊さんって、実は結構優しかったりして?」


 ふわっと、視界の隅で何かが浮かび上がった。目で追いかけて、ぎょっとする。スマホ、まだ機種代を払い終えていないスマホだ! しまった、ベッドの上に置き去りにして結界の中に入れるのを忘れていた。ああ、ああ、スマホが、窓に、窓に、窓に向かって——!


「あああああ————っ!」


 思わず絶叫しながら飛び出した。ああでも駄目だ、このままでは断然スマホの玉砕の方が速い。あの勢いでぶつかったら、窓を突き破って外に! ああ!


「あでっ」


 間に合わないのは分かっていたが、諦められはしない。ずさりと無様に滑り込むと、上から硬いものが降ってきて頭部に直撃した。若干ひよこを飛ばしながら、なんだと思って拾い上げれば、スマホだ。ああ、よくぞご無事で!


「スマホはひどいと思う!」


 見えないので、彼女がどこにいるのかは分からない。適当にそこら辺を見上げて言ってやる。反省したのか、してやったり顔でいるのか、幽霊からの反応は全くない。いったい何を考えているのやら。


 ふと、スマホの画面を見て気づく。なんと授業開始二分前だ。片づけに夢中になって、いつの間にかこんな時間になっていた。まさかこれを伝えるためにスマホを? いや、そんな、まさか。


 わたわたと結界内に戻る。開始時刻には間に合った。まだ暗いままの画面に、僕の顔が写りこんでいる。幽霊との戦いの後なのに、しかも朝から散々振り回された後なのに、僕はなんでこんなににこにこしているんだろう。


 何はともあれ、今晩も明日も明後日も、今日みたいに僕は幽霊と家を奪い合うことになるだろう。何が何でもここから追い出したい幽霊と、何が何でもここを死守したい僕と。仁義なき家取り合戦は続いていく。僕のおうち時間は、忙しいのだ。

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