第1章 Sonntag - Vormittag

 空から降ってきた少女を抱えて、エアデは自分の家に戻った。ずっと運動という運動をしてこなかったから、人一人抱えて歩くのは、彼にとって苦痛でしかなかった。帰り道が下り坂というのが唯一の救いだったが、それでも、女性といえど四肢を持つ物体を運搬するというのは、明確な形が定まっていないがために、困難を極めた。


 マンションの入り口まで戻ってきて、エントランスを抜け、エレベータに乗って上階へ向かう。こんな些細な動作のためにも、今もどこかで、エネルギーの生産を行っている者がいる。そう思うと、こんなことをしている自分が酷く情けなく思えたが、今はそんなことは気にせずに、エアデは自分の部屋に戻ることに専念した。


 玄関のドアを開け、鍵を閉めて室内に入る。


 彼の家の間取りは、酷くシンプルな作りになっている。玄関を抜けた先に廊下が真っ直ぐ続いていて、その左右にそれぞれ一つずつ部屋があり、廊下の一番先にリビングがある。彼の自室は右手にあった。その中に入り、少女をベッドの上に横たわらせた。


 少女はまだ息をしている。しかし、服は部分的に裂け、該当する箇所の肌には傷がつき、身体は全体的に砂や土が付着して汚れている。


 そして、彼の目を最も引くのは、やはり彼女の背中に生えた翼だった。翼……。考えなくても分かることだが、彼女は人間ではない。人間には、翼など生えていない。彼女の翼はそれなりに厚みがあって、白くて薄い羽が何層にも重なって形成されていた。本来二つでシンメトリーになっていたはずのそれは、しかし、今は片方、正面から見て右側の翼が、半分ほど抉られて、不完全な状態になっている。見てみると、表面には焼け焦げたような跡があった。焼け焦げたというよりも、何かに擦られたような感じだ。


 エアデは、酷く混乱していた。


 少女が空から降ってくるというだけでも、天変地異と呼んでも差し支えないような異常事態なのに、その少女には翼が生えていて、しかも、その内の一方が破損しているとなると、もう何が何だか分からない。普段から勉強をしていないから、自分だけが知らない何かなのかもしれないとも考えたが、もちろんそんなはずはなく、彼女はやはり異質な存在として彼の目に映った。


「何なんだよ、これ……」


 エアデは思わず呟く。


 暫くの間、少女の傍に座ってぼうっとしていたが、何かしてやれることはないかと思って、エアデは席を立ち、傍にある箪笥からタオルを取り出して、洗面所に行ってそれを濡らしてくると、彼女の身体を軽く拭いた。自らの意思で女性の身体に触れたのは初めてだったが、今の彼にとってそんなことはどうでも良かった。というよりも、そんな感慨を抱いている余裕はないし、そもそもそれは感慨と呼べるようなものではなかった。彼が抱く感情は、不思議と、恐怖だけだ。自分の知らないものを見ると、人間は自然と恐怖を覚える。


 一通り汚れを落としきって、エアデは再び椅子に座る。壁にかけられた時計を見ると、時刻は午前九時三十分だった。


 少女が落ちてきた様子を、誰かに見られていないだろうか、とふいに思い至ったが、たぶんそんなことはないだろうと思い直した。あの時間に、あんな場所にいる人間は誰もいない。遠くから観測されたかもしれないが、その少女を彼がここまで連れてきたことを察知する者は、そういないに違いない。


 この星で生きる人間は、例外なく、エネルギーを生み出すために活動をしている。エネルギーとは、その名の通りのものだ。かつて、この星は太陽と呼ばれる恒星に照らされていた。それが、この星のエネルギーのすべてだった。けれど、いつからか、その太陽の光が弱まった。だから、人間は自らエネルギーを生み出さなくてはならなくなった。


 太陽と呼ばれていた星は、いまもこの空のどこかにある。でも、それはここからでは見えない。代わりに見えるのは、企業や学校の窓から漏れる微かな明かりだけだ。エネルギーの無駄遣いは、人類の存続を妨げる冒涜に当たる。


 学校に通う子どもたちは、すべて、将来的にエネルギーを生み出す企業へと入るための教育を受ける。そういうことしか学ばない。生きることで精一杯だからだ。本を読んだり、計算をすることは、二の次だ。それは、生きるための必要条件ではない。


 エアデは、そんなことのために学校に通うのに嫌気が差して、早々と退散した身だった。退学をする者は普通はいない。それは生きるのを放棄するのと等しいからだ。学校の卒業は、企業の就職へと繋がっている。学校で学ばなければ、生きることはできない。エネルギーがなければ、生き物は生きていけないからだ。


 では、彼は、どうして生きているのだろう?


 自分でもよく分からなかった。自ら生を断つこともできる。けれど、彼がそうしようと思ったことはない。将来が約束されていないのに、生きる意味は本来はない。そもそも、生きられない。今は良いが、後々必ず窮地に追い詰められる。今死んでも、未来に死んでも、数年の違いしかない。それなのに……。


 ベッドの上で動く気配があった。エアデは意識を現実に向け、そちらを見る。


 眠っていた少女が、唸りながらゆっくりと目を開けた。


 エアデは、彼女と視線を合わせる。


 沈黙。


 身体はすぐには動かなかった。


 座ったまま、彼は彼女と暫くの間目を合わせていた。


 少女は綺麗な目をしていた。縁は青く、瞳は緑に染まっている。力が入らないのか、瞼はどこか弱々しく、すぐにまた閉じてしまいそうな感じがした。


「……えっと……」


 何を言ったら良いのか分からなくて、エアデは呟く。


「……助けてくれて、ありがとう」


 彼の言葉を受けたからなのかは分からないが、少女は掠れた声で言った。


 そう言うと、少女はまた目を閉じてしまう。しかし、再び眠り始めたわけではないらしく、ただ瞼を下ろしただけみたいだった。どこか苦しいのかもしれない。


「……君は……」


 エアデの呼びかけに応じて、少女はまた目を開ける。首を少しだけこちらに向けて、彼の姿を捉えた。


「……私は、ディ・ゾネといいます」口を動かして、少女は名乗った。「助けてくれたこと、感謝します」


「……えっと、僕は……」


「……何か、かけてもらっても、いいですか?」


 少女に言われ、エアデは椅子から立ち上がる。


「ああ、えっと……」彼はクローゼットを開けて、そこから毛布を取り出すと、それを少女の上にかけた。


「どうも、ありがとう」


 少女は再び目を閉じ、沈黙する。何を言ったら良いのか、何をしたら良いのか分からなくて、エアデも黙ってしまった。


「……君は、どこから来たんだ?」


 エアデがそう尋ねると、少女は目を閉じたまま、声を発した。


「……ずっと、遠いところです。……こちらに、勝ち目はありませんでした。私の力不足です。でも……」


「……勝ち目?」


 少女は目を開け、エアデを見つめる。


 それから彼女は、自分は太陽の精霊なのだと言った。


「……太陽の、精霊?」


 少女は頷く。


「いや、精霊って……。……精霊って、何だ?」


「ごめんなさい。少し、話が飛びましたね」


 少女は目を閉じて顔を上に向け、口だけを開く。


 自分は、月の精霊と戦っているのだと、彼女は話した。


 太陽とは、この星をかつて照らしていた恒星の名前だ。そして、彼女はその星の精霊として、この世に生を受けたらしい。いや、正確にはそれは生ではない。この星に生きる動植物と同じように、生命と呼べるものではなかった。エネルギーの凝縮体のようなもので、この形は借りの姿にすぎない。太陽は自分であり、自分は太陽だと、ゾネはエアデに説明した。


「えっと……」


 彼女の説明を聞いても、エアデはその意味を理解することができなかった。


「……精霊って、普通に、存在するものなのか?」


 エアデがそう問うと、少女は少し微笑んだ。


「いえ……。……何と言ったらいいのか……。……あなた方の前に姿を現すのは、これが初めてです」


「……月の精霊は?」


「彼は、私の敵です」ゾネは言った。「彼に勝たなければ、この星の未来はありません」

「……未来? どういうことだ?」


 この星に光が届かなくなった原因は、二つあると言われている。一つは、太陽の勢力が小さくなったこと。そしてもう一つは、月と呼ばれる星の勢力が大きくなったことだ。ゾネは太陽の精霊であり、月の精霊を打破して、自らの勢力を取り戻そうとしていると説明した。そのための戦いでダメージを受け、この大地に落ちてきたらしい。


「……いや、でも……」エアデは呟く。


「……混乱させてしまったかもしれません」ゾネは言った。「……ごめんなさい」


「いや、別に……」


「……もう少しだけ、眠らせてもらえませんか?」ゾネはエアデを見て、少し首を傾げる。「少し、疲れてしまいました」


 エアデが了承すると、ゾネはすぐに寝息を立て始めた。


 ゾネの寝顔を見つめながら、エアデは考える。


 ……太陽?


 ……月?


 そして、精霊?


 目の前の少女が言っていたことが、彼にはまだ理解できなかった。というよりも、そもそも理解できることなのかも怪しい。


 太陽の勢力が衰えたことは、彼も知っていた。それは、この星に残る一種の伝承のようなものだ。知らない者はいないし、その前提のもとに彼らは暮らしている。


 ……その太陽に、精霊が宿っていることなど、知らなかった。


 そもそも、精霊とは何だろうというのが、彼が最も疑問に思ったことだった。ゾネの話から察するに、太陽の性質を反映した形あるものみたいな感じだが……。


「……いや、分からない」


 首を振り、エアデは立ち上がる。


 分からないことがあると、ついつい動き出したくなるのは、彼の癖だった。


 とりあえず、リビングに向かって、隣接するキッチンに入り、戸棚からお茶を取り出して飲んだ。冷たい液体を喉に通すと、幾分意識がはっきりして、頭がすっきりするような感じがした。


 家の中はいつも暗い。ここに照明器具はなかった。自室には昔から使っているスタンドライトが一つだけある。それだけが、この家の中で唯一明かりを灯すものだった。


 エアデはベランダに向かい、なんとなくそこにしゃがみ込む。


 前方には真っ暗な町並みが広がっている。時折、何が出すものか分からない、金属が擦れ合うような音が聞こえた。早朝と夕方になると、毎日必ず聞こえる音だ。誰かが、どこかで、働いている音かもしれない。あるいは、コンピューターによって制御された機構が、何らかの動作をしている音か。


 あの少女について、どうしようかと、エアデはぼんやりと考える。


 彼には知り合いがいないから、彼自身で決めるしかなかった。一番は彼女の言う通りにすることだが、信用して良いのか、彼には分からなかった。少なくとも、彼が助けたことに変わりはないから、彼女からすれば、彼には恩があるはずだ。けれど、エアデにとってそんなことはどうでも良かった。今まで、誰かを助けた経験も、また、自分が誰かに助けられた経験もないから、何をどうしたら良いのか分からないというのが正直なところだった。ただ、彼女が何者であろうと、傷が癒えたら、彼女の好きなようにさせてあげたいというのが、一応の彼の望みではあった。


 でも……。


 彼女と出会ったこと、いや……、彼女に出会ってしまったことを、なかったことにすることはできない。


 自分は何かを知ってしまった、とエアデは思う。


 彼女は、自分は太陽の精霊だと言った。そして、月の精霊と戦っていると。


 ……それは、この星と深い関係があることではないのか?


 彼女は、どうして戦っているのだろう?


 彼女は、何のために戦っているのだろう?


 少しだけ、嫌な予感がした。嫌な予感というよりは、面倒な予感といった方が近い。普段から何も考えずに生きてきた彼にとっては、この事態は突飛で、認めがたいものだった。本当に、何をしたら良いのか、どう反応したら良いのか分からない。彼女が何者であっても、自分がほかの誰かと出会ってしまったこと自体、面倒なことのように思えた。


「……まいったな」


 誰にともなく、彼は呟く。


 ベランダをあとにして、再び自分の部屋へと戻る。窓の向こうにあるシャッターは開いているが、外に光はないから、室内は薄暗い。その中にあるベッドの上に、ゾネと名乗る少女が横になっている。


 部屋の戸締まりをして、彼は出かけることにした。別に、行く宛はなかったが、食材を切らしていたから、近くのスーパーマーケットに向かうことにした。


 移動手段を持っていないから、歩いていくしかない。マンションの外に出て、正面を通る大通りを左に真っ直ぐ進む。ここは、昔は自動車が多く通る主要な交通網だったらしい。今では、自動車を使う人間はほとんどいない。それこそ、企業のトップに就く者くらいだ。彼らには、その権利がある。ほかの人間よりもエネルギーを無駄に使う権利、自身の生体に蓄えられたエネルギーを消費せず、ほかのものに頼る権利を、彼らは持っている。


 生き物は、皆エネルギーを使う。しかし、その向かう先は様々だ。最も単純な目的は、同族の存続、つまりは生殖だ。けれど、人間はそのためだけに自己のエネルギーを使わない。もっと色々なことに使う。でも今では、そんな考えは認められない。誰一人として、未来のことなど考えていない。今いる自分が明日もいれば、それで良いのだ。


 どれほど頭が悪くても、エアデにもそれくらいのことは分かっていた。自分もやはり一人の人間、いや生き物で、だから、死ぬのは怖い。自分が生きていることに意味がないと分かっていても、死を恐れる本能故に、自ら生命を断つことはできない。そう……。すべてを支配しているのは、恐怖だ。すべて、恐怖から逃れるための方策だ。学校に通わず、何もしない自分を諭すように、何もかもくだらないと思い込もうとするのも、すべて……。


 十分ほど歩いてスーパーマーケットに到着すると、彼はさっさと買うべきものを買った。店内には、やはり人の姿はなかった。こんなところで働く人間はいない。それよりも、エネルギーを生み出すことの方が重要だからだ。商いは、エネルギーを消費する行為であって、エネルギーを生み出す行為ではない。


 商品を手に取って、小銭を指定されたボックスに入れ、勝手に釣り銭を取る。この地域では、店舗でのレジに電気は使われていない。すべて、自分で精算する仕組みだ。それでも、この辺りの治安は比較的良い方だった。金を盗む意味も、食料を盗む意味もないからだろう。


 もと来た道を戻って、自宅へと向かう。


 この道は何度か歩いたが、いつもと少しだけ景色が違って見えた。


 今までと違うことは、一つだけ。


 あの少女と出会ってしまったことだ。


 帰っても何もないのと、帰ったらどうしようと考えるのとでは、全然違う。


 そんな当たり前のことに、エアデは初めて気がついた。


 家に戻って自室を覗いてみると、ゾネの姿が見当たらなかった。リビングに向かうと、彼女はそこにいた。窓の傍に立って、その向こうを見つめている。エアデが部屋に入ると、彼女はこちらを振り返った。


「どうも、ありがとう」ゾネは唐突に言った。


「ああ、うん……」リビングの入り口に立ったまま、エアデは曖昧に応える。


 たった今買ってきた食材を、戸棚の中にビニールごと仕舞う。彼の場合、食材は長期間保存できるものしか買わない。生物は、その日の内に食べるしかないからだ。


 なんとなく気になったから、彼は、ゾネに衣服を着てもらうことにした。といっても、エアデは当然女性用の衣服など持っていない。精霊に性別があるのか分からないが、少なくとも彼女は女性の姿をしているのだから、エアデにはそう見える。適当にパーカーとジャージのズボンを用意して、自室で着替えてもらってから、彼は彼女とリビングで対面した。


「……ゾネは、どこから来たんだ?」


 リビングにあるテーブル席に座り、相対するゾネにエアデは訊いた。


「……先ほど、言いませんでしたか?」ゾネは首を傾げて応じる。


「いや、聞いたけど……。……まだ、よく理解できていない」


 エアデがそう言うと、ゾネは困ったような顔をして、さらに首を傾げた。


「……ごめんなさい」


「いや、別に、謝らなくていいけど……」


「貴方の、名前は?」


「僕?」ゾネに問われ、エアデは答える。「エアデ」


「ありがとう、エアデさん」


 どういたしましてという意味を込めて、エアデは軽く頷く。


 ゾネは、エアデを見つめたまま、暫くの間何も言わなかった。彼女に見つめられて、なんとなく気まずい感じがしたから、エアデは目を逸らした。彼にとって、やはりゾネは奇妙な存在だ。外見は人間にそっくりだが、どこか雰囲気が違う。いや、そっくりといっても、彼女には翼が生えているし、髪もクリーム色に緑のメッシュがかかっていて、違うところはいくつもあった。翼は、今はパーカーの下に隠れている。ある程度、自由に開閉ができるみたいだった。


「……怪我、大丈夫なのか?」


 尋ねるべきことを思いついて、エアデはそのまま質問を口にした。


「翼ですか?」ゾネは首を傾げる。「……暫くは、治りそうにありません。時間が経過するにつれて、徐々に回復するから、大丈夫です」


「ああ、そう……」


 再び沈黙が下りる。


「エアデさんは、普段、何をしているのですか?」彼のことを真っ直ぐ見つめて、ゾネは訊いた。「あそこで、何をしていたんですか?」


 彼女に問われ、エアデは少し考える。考えなければ、答えられない質問だった。


「いや、何も……」エアデは下を見ながら答える。「僕は、何もしていない。別に、することなんてない。ただ、毎日、普通に生きているだけ……」


「そうですか」ゾネは頷く。


「……ゾネは、どうして、戦っているんだ?」


 エアデがそう尋ねると、ゾネは少しだけ不思議そうな顔をした。それから、ゆっくりともとの表情に戻って、また微かに笑顔を浮かべた。


「ええ、そうでしたね……。それを説明しなければ……」


 エアデは、一度顔を下に向け、また顔を上げて口を開く。


「この星は、危機に瀕しています」彼女は話した。「数百年前から、私と彼とのバランスは、崩れ始めました。彼とは、私が敵対している、月の精霊のことです。原因は、どちらにあるともいえませんが、直接的なものは、彼の側にあります。彼は、私の力が弱まったことをきっかけに、自らの勢力を拡大させました。それまでは、私と彼との均衡は保たれていたのです。そう……。言うなれば、私と彼は、お互いが存在することで、均衡を保っていたのです。だから私も、彼と敵対することは望んでいませんでした。けれど、彼はそうは考えていなかったみたいです。いつか、この星を自分の手中に収めようと、画策していたのです」


「……どういう意味だ?」エアデは尋ねる。


「簡単にいえば、太陽がなくなり、月の支配を直接受けるようになるということです」ゾネは言った。「……もしそんなことが起これば、この星で暮らす生き物が存続することはできません。もちろん、人間も例外ではありません。光がなければ、彼らは生きていくことができないのですから」


 エアデは額に片手を当てる。


「……よく、分からないけど……。……このままだと、僕たちが危ないってことか?」


「そうです」


 エアデは椅子の背に凭れ、腕を組んで天井を見上げる。


 ゾネの話は、やはりどこか抽象的で、彼には分からない部分もあった。けれど、自分たちの状況が危なくなりつつあることは、なんとなく理解できた。


「……もし、そのまま月の勢力が拡大したら、僕たちはどうなるんだ?」


「先ほど言ったように、現在存在する生き物は、すべて死に絶えます。……その先のことは分かりません。ただし、現在より良い状態になる可能性は、低いと思います。この星は、創生から、太陽と月の両者の影響を受けて存在してきました。月だけでは、そのバランスを再現することができないのは明白だと思われます」


「……月の精霊は、何をしようとしているんだ」


「それは……」ゾネは一度下を向いた。「……おそらく、月の影響だけで存続できる、新たな惑星の創造でしょう」


 ゾネの話が突拍子もなかったから、エアデは途方に暮れてしまった。


 彼女は何を言っているのだろう?


 そして……。


「……君は、傷が癒えたら、また、その……、月の精霊と戦うつもりなのか?」


 エアデの問いを受けて、ゾネは頷いた。


「もちろんです」彼女は答える。「彼を放っておくことはできません。私には、彼を止める義務があります」


「そうしないと、僕たちが危ないからか?」


 少し間を置いて、ゾネはもう一度頷いた。


「そうです」彼女は答える。「それが、最も重要なことです」


 エアデは、彼女の傷が癒えるまで、自分の家にいて良いとゾネに告げた。そうする以外にないからだ。ゾネは申し訳なさそうにしていたが、エアデの提案を受け入れた。それは、もちろん、そうするしかないと彼女も判断したからだろう。


 精霊というのはよく分からない存在だが、ゾネの話によると、彼女は食べ物を食べなくても大丈夫だとのことだった。自分自身でエネルギーを生み出せるかららしい。彼女は恒星だから、その理屈は正しいのかもしれないと、エアデは思った。


「月の精霊は、どうやってエネルギーを生み出しているんだ?」


 気になって、彼は質問した。


「彼は、自身の存在そのものを消費することで、活動しています」ゾネは説明した。「エネルギーを生み出すためには、何らかの物質が必要です。私も、化学反応を起こすことでエネルギーを生み出していることに変わりはありません。その操作は非常に効率の良いもので、実質的には身を削るほどのものではありません。ですが、彼は違います。彼には効率的にエネルギーを生み出す能力がありません。だから、自分の存在、つまり月を構成する質量を消費して、エネルギーを生み出しているのです」


「……でも、月は、勢力を拡大させているんじゃないのか?」


「そうです」エアデの問いを受けて、ゾネは深刻そうな顔になる。「……おそらく、ほかの星の質量を横取りしているのでしょう」


「……ほかの、星の?」


「自分の目的を果たすためなら、彼は手段を問いません」


 そう言って、ゾネは黙り込んでしまう。


 彼女の話のスケールが大きすぎたから、エアデはついていけなくなった。


「……よく分からないけど、とにかく、大変なことになっているんだな」


「……ええ、そうです」エアデの言葉を受け、ゾネは頷く。


「勝機は、あるのか?」


 ゾネはエアデを見て答える。


「分かりません。今のところ、押されています。何か方策を立てないと、かなり危うい状況です」


「……本当か?」


 ゾネはもう一度頷く。


 もともと未来に絶望しかなくても、自分の身に危険が迫れば、抵抗したくなる。それが生き物の本能だ。それはエアデも同じだった。自分が危険に晒されているとなれば、黙って見ているわけにはいかない。


 しかし、やはり彼には何をしたら良いのか分からなかった。あまりにもスケールが大きすぎるのだ。日常とはかけ離れた、宇宙規模の話だ。いや、宇宙規模というのも違うかもしれない。目の前にいるのは精霊なのだ。物理とか、生物とか、そういう範疇を超えている。いったい、どうしてこんなものが存在しているのか……。


「エアデさん、お願いがあります」


 一人で考え事をしていると、ゾネが彼に声をかけてきた。


 彼女の呼びかけに応じて、エアデは顔を上げる。


「貴方の力を、貸してもらえませんか?」


「僕の、力?」エアデは首を傾げる。「……僕に、何ができるっていうんだ?」


「特別なことを頼むつもりはありません」少し笑って、ゾネは言った。「このままでは、この星は危険です。何も抵抗しなければ、彼の思惑通りの結果が訪れます」


「それは、そうだけど……」エアデは眉を寄せる。「……僕が何をすればいいんだ? 僕にできることがあるのか?」


 彼を真っ直ぐ見つめて、ゾネは言った。


「人間は、明かりを灯すことができるのではありませんか?」


「……明かり?」


「学校で、教わったでしょう?」


 そう言って、ゾネは彼の答えを待つ。


 エアデは沈黙する。


 やがて彼は、正面に座る精霊の少女から目を背けた。


「……僕は、学校には通っていない」彼には、そう答えることしかできなかった。「僕には、未来を照らす明かりなんて、ないんだ」

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