第2章 Sonnatag - Nachmittag

 太陽の光が失われたこの星では、人間は、自ら明かりを灯すことを求められる。そのための術は、学校で習うのが一般的だった。というよりも、それ以外の方法でその術を身につけることはできない。就職するため、将来のためというのも学校に通う目的の一つだが、その前段階として、自分で明かりを灯す術を身につけるためというのが、第一の目的だった。


「それが、できないというのは……」


 正面に座るゾネの呟きを聞き、エアデは少し渋い顔をする。


「だから、できないんだよ。……学校に、通っていないから……」


 エアデの返答を聞き、ゾネは真顔で首を傾げる。


「……では、どうやって生きてきたのですか?」


 エアデはどう答えようかと考える。しかし、考えても仕方がなかったから、ありのままを伝えることにした。


「……別に、どうも……」彼は呟く。「……明かりが必要になる場面は、避けて生きてきただけだ」


 エアデの返答を聞いて、ゾネは不思議そうな顔をした。事実として、彼の言っていることは不思議だ。不思議というか、一般的ではない。つまり、社会で定められたルールから外れている。


 学校で習う、自ら明かりを灯す術とは、自身の生命を削って、その分のエネルギーを明かりを灯すことに使う方法のことだ。普通、人間はそのためにおよそ二年分の寿命を消費するといわれている。明かりを灯すためには、そのための言葉が必要になる。”Komm, mein Lihit《コム マイン リヒト》”というのがそれだが、この言葉を呟いただけでは明かりは灯らない。その言葉は、単なるキーワードにすぎない。言ってみれば、魔法使いが口にする呪文みたいなものだ。明かりを灯すためには、その感覚を自身の中に宿らせなくてはならない。その言葉を口にしたとき、自然とその感覚が起こるように訓練する必要があるのだ。


「僕には、できない」エアデは言った。「君の手助けをするには、それが必要なんだろう?」


 エアデの言葉を聞き、ゾネは頷く。


「残念だけど……。僕には無理だ。だから……、傷が治ったら、ほかを当たってほしい」


 エアデの提案を聞いているのか、それとも別のことを考えているのか分からないが、ゾネは暫くの間黙っていた。視線を天井に向けて瞬きをしている。


 エアデは椅子から立ち上がり、先ほど買ってきたビニール袋から、保存食が入った缶を取って戻ってきた。それは乾パンみたいなもので、ぱさぱさしていてまったく美味しくない。けれど、彼にはもともと味の良し悪しなど分からなかったから、腹が満たされるのなら何でも良かった。


「では、練習しましょう」唐突にゾネが言った。


「練習? 何の?」保存食を口に入れようとしていた手を止めて、エアデは顔を上げる。


「ですから、明かりを灯す練習です」


 口に入れた保存食を咀嚼しながら、エアデはゾネをじっと見つめる。口の中のものを飲み込んでから、彼は否定の言葉を口にした。


「無理だよ、そんなの」


「無理ではありません」ゾネは即座に否定し返した。「理論上は可能です。……その手段を考案したのは、私なのですから」


 エアデは再び手を止める。


「……君が、考案?」


 エアデが尋ねると、ゾネは人差し指をぴんと立てた。その指にも、所々傷があって、傍から見ていると痛々しかった。


「おそらく、人間は自ら発想したものだと思っているのでしょうが……。……その発想に至るまでのプロセスを用意した、つまり、ある考えと考えの影響を操作して、その発想に至るようにプログラムしたのは、私です」


「……どういうことだ?」エアデは首を傾げる。


「……この星は、古来から太陽の影響を受けてきました」ゾネは説明した。「私は太陽の精霊であり、太陽は私です。ですから、この星に住む生き物を作り出したのは、私だということもできます。もちろん、私だけの力ではありません。そう……。……その中には、彼……、月の精霊も含まれています。ですが、その第一の地位についているのは、私です。いえ、私でした、と言った方が正しいでしょうか。……いずれにせよ、私はこの星のことをよく知っています。生まれたときから、私はずっとこの星を見てきました。そして、その明かりを灯す方法も、私が生み出したものの一つです。だから、それを習得することが現段階の貴方でも可能であると、断言できます」


 エアデは、手に持っていた保存食を落としそうになった。


 半開きのまま固まっていた口を動かして、彼は声を発した。


「……君が、この星を作った?」


 エアデを見つめたまま、ゾネは首を上下に動かす。


「ええ、そうです」


 ゾネの反応を見て、エアデは笑いながら目を逸らした。


「そんなわけ……」


 残りの保存食を食べようとしたが、暫く待ってもゾネが何の反応もしないので、エアデは手を止めて、もう一度顔を上げて彼女を見た。


 ゾネはじっと彼を見つめている。


 表情はまったく変わっていなかった。


「……本気?」エアデは尋ねる。


 もう一度深く頷いて、ゾネは答える。


「もちろん」


 エアデは椅子の背に凭れ、腕を組んだ。保存食を食べている途中だったが、もう満腹になったような気分だった。


 自分は今日、とんでもないものと遭遇してしまったのかもしれないとエアデは思った。空から降ってきたのは太陽の精霊を名乗る少女で、彼女はこの地球の創造主だ。そして、月の精霊を倒すために、自分に協力してほしいと言っている。エアデは十七年間生きてきたが、これほどまで突拍子もない経験をしたことはなかった。


「練習しましよう」ゾネは言った。「練習すれば、できるようになります」


 彼女の提案を聞いて、エアデは我に返る。


「いや、でも……。……だから、僕じゃなくてもいいじゃないか」


「私は、今日貴方と出会ったのです」ゾネは彼を見て話す。「貴方に頼る以外にありません」


「……どうしてだ?」


「理由はありません。でも……」ゾネは一瞬顔を逸らし、それからもう一度彼を見た。「……本音を言えば、貴方を救いたい気持ちがあります」


「救う? 救うって、何からだ?」


「貴方の、日常からです」


「……日常?」


「本当は、貴方は何かを求めているのではありませんか?」エアデを見つめたまま、ゾネは話した。「貴方が今の生活に満足しているとは思えません。何を根拠にと思うかもしれませんが、私には分かります。それは、私が創造主だからではありません。……あの丘に落ちてくるとき、貴方の顔が見えました。貴方は、とても、不満そうな目で空を見上げていました。それは、太陽の光を求める者の目でもありませんでした。もっと単純な、もっと個人的な何かを求めて、あの場所にいたのではありませんか? そんな何かが訪れるのを期待して、毎日あそこまで足を運んでいたのではありませんか?」


 ゾネが言ったことを、エアデは頭の中で反芻する。


 否定の言葉は出てこなかった。エアデは、他人の指摘に対して簡単に納得できる人間ではない。けれど、今日知り合ったばかりの少女を前にして、首を振ることができなかった。


「……それが、どうしたっていうんだ」


 ゾネは少しだけ腰を浮かせて、エアデに顔を近づける。


「私が、貴方の日常を変えると約束します」


 エアデは顔を逸らす。


「……どうしてだ?」


「先ほど言ったように、明確な理由はありません。出会ったのが、貴方だったからです」


「……それで、君に何か利益があるのか?」


「精霊の私に、利益は必要ありません」ゾネは笑った。「利益を求めるのは、人間だけです」


「僕に明かりが灯せられるようになれば、君を助けられるんじゃないのか?」


「それもそうですが、それだけではありません」


 暫くゾネの顔を横目で見ていたが、やがてエアデは息を吐き出した。


「……できるようになる自信なんて、ない」


 ゾネは笑顔のまま首を傾げる。


「まずは、学校に通うことから始めてみませんか?」


 エアデは身を後ろに引く。


「いや、それは……」彼は呟くように話す。「今さら、そんなことできるわけないだろう?」


「私だけでは、教えられることに限度があります」ゾネは引き下がらなかった。「人間の知識は、人間によって教えられるべきです。たとえそれが、私が生み出したものでも……。人間は今までずっとそうしてきました。それに、明かりは、そのための知識だけで灯せられるようになるものではありません。直接でも、間接でも、それと関わる多種多様な事物と呼応し合って、初めて灯すことができるものです。そのためには刺激が必要です。……始めるのに遅いということはありません。明日から、また通ってみませんか?」


「親みたいなこと、言うなよ」


「教える立場に立つのだから、親ではなく、教師です」


 ゾネの言葉を聞いて、エアデは彼女が少し嫌いになった。


 でも、それと同時に、彼女がわざとそんな素振りをしているのではないかとも思った。


 そう……。


 彼女からは、別の何かが感じられる。


 言っていることとは違う、けれどまったく異なるわけではない、何かが。


 ……彼女は、自分が創造主だと言った。


 創造主が、自分が生み出した星で暮らす生き物を見て、彼らと接することがあったら、そんな気持ちになるのかもしれない。


「……毎日行くとは、言えない」エアデは小さな声で言った。


「まずは、明日一日、行ってみましょう」


 声を出すことはできなかったが、エアデは小さく頷いた。


 時間は午後に向かって進んでいる。暫くの間ゾネが傍にいることを考えて、彼女との生活をどうするか、エアデは考えた。その第一段階として、彼女のために服を用意しなくてはならないことに気がついた。彼女は精霊だが、精霊にも服は必要なようだ。自分に似せて人間を作ったのか、それとも、人間の前に姿を現すために、わざと自分を人間に似せているのか分からないが、人間と同じ見た目をしている以上、きちんとした格好をしてもらわないと、エアデにとっては不都合だった。


「……とりあえず、もう一度買い物に行ってくる」立ち上がりながら、エアデは言った。「服、ないと困るだろ?」


 ゾネは自分の身体を見下ろしてから、申し訳なさそうに頷いた。


「……一つ、訊いておきたいんだけど……」


「何ですか?」ゾネは首を傾げる。


「……こんなにのんびりしていて、いいのか?」


 エアデが尋ねると、そうですねと言って、ゾネは答えた。


「暫くの間は、大丈夫そうです。彼は、私との戦いを経て、大分衰弱しています。ですが、活力を取り戻すのは時間の問題です。彼が完全に復活する前に、こちらから先手を打とうと思います。……一週間後には奇襲を仕かけるつもりです」


 一週間、とエアデは呟く。


「それまでに、貴方には、明かりを灯す術を身につけてもらいたいのです」


「……それができるようになれば、君は戦いに勝てるのか?」


 エアデがそう尋ねると、少しの間をおいてゾネは頷いた。


「お約束します」


 ゾネを家に残して、エアデは今日三度目の外出をした。一人にしていて大丈夫かと思ったが、このマンションに住むほとんどの者は、この時間帯は別の場所で活動しているので、気にしないことにした。


 一度で買い物を済ませられなかった自分に嫌気が差して、エアデは少し落ち込む。何度失敗しても、失敗に慣れることはない。いや、失敗に慣れるようになったら、それこそ終わりだろう。そういう意味では、まだ彼には挽回のチャンスがあるのかもしれない。


 マンションの外に出たら、先ほどとは反対方向に大通りを進んだ。右手に進み、その先にある坂道を上って、橋の上に出る。ここからだと、自分が住むマンションも含めて、街全体を一望することができた。


 暗くて遠くの方はよく見えないが、都市と呼ぶには小規模な、しかし町と呼ぶには大規模な街が、眼下に広がっている。この箱庭のような場所が、エアデが住む世界であり、彼の知るすべてだった。彼は、この街から出たことがない。ずっとここで暮らしてきた。学校もこの街の中にあるし、そもそも移動手段がないから、遠くまで出かけることはできない。移動といえば、あの丘の上の公園に行くくらいだ。


 ゾネは、毎日自分のことを見ていたのかもしれないと、歩きながらなんとなくエアデは思った。彼女は創造主だから、ありえなくはないような気がした。彼には、創造主というのがどういう存在なのか、いまいち分かっていなかった。彼女は、創造したのは自分だけではないと言っていたが、そうだとしても、彼女によって星の一部が作られたことに違いはない。そんな突拍子もないスケールを伴った存在と、彼は今一緒にいる。


 前方に店舗が見えて、彼は道路を渡った。自動車は走っていないから、好きなタイミングで渡ることができた。


 いくつか軒を連ねた店舗の内、洋服を専門に販売する少し大きめの店に彼は入った。彼も普段、衣服を買うときはここを利用している。先ほど行ったスーパーマーケットと同じく、ここにも店員の姿はなかった。衣服となると、食料品以上に盗む意味がないから、最早窃盗など起こらない。金銭も、購入する側が自分で精算するが、この店舗を経営する企業が、ここからの収入を当てにしているのかは疑わしかった。


「女の子の服って、どんなものにしたらいいんだ……」


 誰もいないフロアを歩きながら、エアデは独り言を呟く。


 彼はファッションには自信がない。自分の衣服も使い回しだ。だから、一週間の内で何度か同じ格好をした自分を目にすることになる。


 女性用の衣服売り場に入るのに抵抗があったが、誰もいないし、監視されているわけでもないから、気を落ち着けて選ぶことにした。焦ってろくでもない選択をするよりも、きちんと考えてリスクを低くした方が良いと考えたのだ。頭の回らない彼にしては、充分気の利いた判断だった。わけの分からない高揚感が、彼にそうさせたのかもしれない。


 壮大に迷ったわけではなかったが、とりあえず、色違いのワンピースを二着と、シャツとロングのスカートを二セットずつ買った。合計で四日分だが、それだけあれば一先ず事足りるだろうと思った。


 購入手続きを済ませて、店の外に出る。


 もと来た道を引き返して、橋の下まで戻ってきた。


 大通りを歩いているとき、上空から何やら音が聞こえた。立ち止まってそちらを見てみると、遥か遠くの方で何かが明滅しているのが分かった。それは音を伴っているが、光速と音速に分かれて、それぞれがばらばらに知覚される。音は爆発音に近く、物理的な衝撃を持っているように思えた。何だろうと思ったが、思い当たる節はなかったから、家に戻ってゾネに聞いてみようと思った。


 そして、家に戻ると、ゾネの姿がなかった。


 トイレに行っているのかもしれないと思って確認してみたが、そんなはずはなく、家の中のどこを探しても、彼女の姿は見当たらなかった。


 そのとき、エアデは思い立って、ベランダに出ると、先ほど明滅が見えた方角を見た。


 橙色の光と、紫色の光が見える。


 音は途切れ途切れだが、絶えず響いていた。


 暫くその様子を眺めていたエアデは、輝く二つの光の内の一つを、数時間前に目にしたことを思い出した。


 その直後の衝撃で、忘れていたのだ。


 間違いない。


 それがゾネであると、エアデは確信した。


 暫くの間上空を滑空していたが、やがて橙色の光が地上へと目がけて飛来してきた。それは地面に接する直前で方向転換し、エアデが立つベランダの前で停止してホバリングした。


「……さっきのは?」


 エアデが尋ねると、ゾネは一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を空へと戻した。


「彼の一部です」彼女は答えた。「おそらく、こちらの状況を探るために放ったのでしょう。大方殲滅しましたが、まだいくつか残っています」


 エアデも空を見る。紫色の光が明滅し、羽虫のように不規則に巡回している。


 ゾネの身体は、今は橙色の光を帯びていた。そして、彼女が熱を纏っているのが視覚からでも分かった。翼はパーカーの生地を破って姿を現し、今は撫でる程度にゆっくりと動いている。


「……大丈夫なのか?」エアデは尋ねる。


「ええ」ゾネは頷いた。「すぐに、戻ります」


 それだけ言うと、ゾネは再び上空へ向かって飛翔した。隼を身に宿らせたように、もの凄い速度で高度を上げていく。彼女によって風が生み出され、彼女によって空気の流れが決定づけられる。翼を羽ばたかせる音は聞こえなかった。暫くして、紫色の光が今まで以上に強い光を放ったかと思うと、何もなかったかのように、またいつも通り真っ暗な空が広がるだけになった。


 先ほどと同様のプロセスを経て、ゾネはエアデの家に戻ってくる。ベランダに着地し、翼を畳んで静かに顔を上げた。


「ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 たった今戦いを繰り広げてきたとは思えないような涼しい顔で、ゾネは彼に言った。


「いや、僕は、別に……」


 二人揃ってリビングに入り、エアデはベランダに繋がる硝子扉に鍵をかけた。何となく、開けっ放しにしておくことに恐怖を覚えた。


 洋服店で買ってきた衣服を、エアデはゾネに渡した。彼女が着ていたパーカーは、背面部の生地が完全に断裂していて、もう着られそうになかった。今後また同じように襲撃を受けるかもしれないから、何とか処置ができないものかと考えたが、何も思いつくことができなかったので、とりあえず、エアデは買ってきた衣服をそのままゾネに着てもらうことにした。


 自室で着替えを済ませたゾネを見て、エアデは少しだけほっとした。女性の服、いや、他人のために服を買ったことなど今まで一度もなかったから、サイズが合うか、容姿に似合うか心配していたのだ。衣服を身につけたゾネに違和感はなく、ちょうど良い範囲に収まっている感じがした。


「少し、動きにくいかもしれないけど……」エアデは呟く。


「いえ、充分です」ゾネは笑った。「どうもありがとう」


 その後、エアデはゾネといくつか会話を交わしたが、三十分くらい経った頃、彼女はもう一度眠りたいと言って、自室のベッドに向かってしまった。やはり、傷が彼女を鈍らせているようだ。先ほどのような兆候があったら、迷わず起こしてほしいとだけ言って、彼女はベッドに入ると、すぐに寝息を立て始めた。


 エアデは自室のドアを閉め、リビングに戻る。テーブルの椅子に座り、一度息を吐き出してリラックスした。


 何もかもが新鮮だった。見知らぬ誰かと出会ったことも、その人物が自分の家にいることも、会話を交わすことも、服のサイズを心配することも……。


 今までに、そんな経験をしたことはなかった。もう少し幼い頃には、そうした生活を夢見ていた時期もあった。夢見ていたというと、心の底から求めていたように聞こえるかもしれないが、そこまで強い願望ではない。ただ、自分以外の誰かを求めていただけだ。誰でも良かった。そうした経験を一度くらいしてみたいと、そう思っていたのだ。


「……その相手が、精霊か……」


 ゾネは戦いの渦中にいるのに、不思議と、エアデには危機感がなかった。それは、彼女の戦いを目の当たりにして、こちら側に歩があると思えたからではない。もっと根本的な、けれど合理的ではない、なんとなく内に起こった安堵感だった。ゾネと一緒にいればすんなり事を進められるような、そんな無責任な安堵だ。


 ……明日から、学校に通うことになる。そう約束してしまったし、何よりそれで彼女を助けることができるのだから、仕方がないといえば仕方がない。けれど、長い間顔を出していなかった自分を見て、彼らがどのような反応をするのか想像するのは難しくなかった。そのときの空気感も手に取るように分かる。考えただけで憂鬱だった。自分が憂鬱の固まりみたいなものだから、それもまた、仕方がないといえば仕方がない。


「……勉強なんて、できる気がしないな」


 呟いても、誰も答えてくれない。


 答えてくれないと感じたことに、彼は違和感を覚える。


 今までは、それが当たり前だった。


 ……ゾネと出会ったことで、何かが決定的に変わり始めているような気がした。


 それは、良いことなのか?


 ……分からない。


 一度大きく溜め息を吐いてから、彼は現状から目を逸らすように立ち上がった。


 やることがないから、とりあえず家の外に出た。といっても、もう出かける気にはなれなかったから、廊下に立って眼下の町並みを見下ろすだけにした。


 やることがないのは、いつもと同じだ。でも、ゾネが傍にいるだけで、その差は大きく感じられた。さっきまで、誰かと話していた。そして、今は誰とも話していない。そのギャップがあまりにも大きなものに思えて、エアデは途端に不安になった。


 今まで感じたことのない不安だった。


 ……何もかも、初めての感情だ。


 正面には、朝行った丘へと続く坂道がある。そして、その丘の隣に学校があった。建物はここからではよく見えないが、この時間は明かりが灯っているから、その残滓が滲み出て、遠くの方がぼんやりと明るくなっているのが分かった。


 大通りは左右に続いている。左に進めばスーパーマーケットが、右に進んで、橋を渡れば、洋服店を含む様々な店舗が並ぶ一帯に至る。目ぼしいものは、この辺りにはそれくらいしかない。人口は少ないが、エネルギーを生み出すために張り巡らされた建造物の影響で、街の密度はそれなりに大きい。


 風の吹く音。


 髪が、持ち上げられ、またもとの位置に戻る。


 生暖かい風。


 次に、少し冷たい空気。


 この星は、まだ微かに生きている。でも、それも時間の問題だ。この星を生み出した創造主が、そう言っていた。


 生まれたときからこんな状態だから、エアデはこの星のこれ以外の姿を想像することができなかった。書物を読んで過去の様子を知ったことはあるが、それもどこか遠い世界の話のようで、実感が湧かなかった。空が青いというのも、そこに白い何かが浮かんでいるというのも、そして、大地を照らす巨大な星があったというのも、すべて空想のように思える。まったくの机上の空論で、言葉だけが一人歩きしているように思えるのだ。


 空を見上げる。


 この広大な空間を駆け回り、戦いを繰り広げて、この星へと落ちてきたあの少女は、自分に会ったとき何を思っただろう、とエアデは想像する。


「……何で、そんなこと、考えているんだ」


 いつもの癖で、エアデは独り言を呟く。


 ゾネに会ったとき、エアデは何も感じなかったし、何も思わなかった。それは、感慨を抱くよりも驚きが先走ってしまって、そんな余裕がなかったからだ。


 まだ、出会って一日も経っていない。


 でも……。


 背後でドアの開く音が聞こえて振り返ると、そこにゾネが立っていた。


「どうかされましたか?」エアデの傍に近づいて、ゾネは尋ねる。


 エアデは正面に顔を戻して、黙って首を振った。


「……私のことが、怖いんですね」


 唐突に言われて、エアデは彼女を見る。


「誤解しないで下さい。貴方にそう思われるのが、嫌なのではありません」


 ゾネに言われて、エアデは首を振ろうとした。


「いや、僕は、そんなこと……」


 笑顔のまま少しだけ首を傾げて、ゾネは話した。


「自分と似ていて、でも少し違うものを見たとき、恐怖を抱くのは、生き物の本能です」


「……君が、そういうふうに作ったからか?」


 エアデの言葉を聞いて、ゾネは笑った。


「何でもかんでも、私が手を加えたわけではありません。最初のルールを作って、それに任せている部分も沢山あります。一人一人の感情まで操作する力は、私にはありません」


 彼女の言っている意味は曖昧だったが、エアデはとりあえず頷いた。


「……私には、彼がいました」ゾネは唐突に話題を変える。「でも、今彼は私の敵です。そうなってから、ずっと一人でした。ずっと一人で、戦ってきました」


「……同類を相手にするのは、辛くないのか?」


「もちろん、辛いです」ゾネは答えた。「けれど、仕方のないことです」


「……僕たちを、見捨てることはできないのか?」


 エアデを見て、ゾネは首を振る。


「私が、そうしたくないのです」


 ゾネはエアデの目をじっと見つめる。


 それから彼女は、そっと彼の手を握った。


 視線を下に向けて、エアデはその様を見る。


 それからまた顔を上げて、彼はゾネの目を見つめ返した。


 不思議と、緊張も、高揚も、抱かなかった。


 ただ、彼女の手は冷たくて、とても太陽の精霊を名乗る者のものとは思えなかった。


「一緒に、世界を救いませんか?」


 エアデは目を逸らして、答えた。


「……もう、そう約束したよ」

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