想いを重ねて

 風呂から上がって髪を乾かし、布団にごろりと寝転がる。


 ──案外、すんなり終わったよな。


 歌耶かやとの別れ話は、問題なく終わった。

 俺が浮気の事について知っていると解れば、彼女も言い訳できなかったのだろう。ただ、浮気についてバレていなければ、そのまま関係を継続しようとしていた節があるので、女は恐いなと思った。


 ──もっと傷付くかと思っていた。


 何故、歌耶の電話から逃げ回っていたのか。

 それは、俺自身がもっと傷付くと思っていたからだ。裏切られた絶望感と、雄としての弱さをまた自覚させられると思っていた。

 だから一方的に別れを告げて、逃げ回るしかなかった。俺自身、その現実をどこかで信じたくなかったからかもしれない。

 でも、実際に彼女と話してみても、何も思わなかった。ただ、浮気があった事実を知っていると言い、彼女の幸せを祈って電話を切る。ただそれだけだった。

 それはきっと……絃羽いとはがいるからだ。

 隣の部屋から物音はしない。もう寝たのかもしれない。何にせよ家に帰ってから全く顔を合わせていないから、彼女の状態がわからない。


 ──俺達、どうなるんだろう?


 今日あった出来事を思い返す。

 絃羽の長年抱いていた気持ちの重さを知り、胸が痛んだ。あそこまで想われていたのに、全く気付かずにのうのうと過ごしていた自分にも嫌気が指した。そんな彼女を守ってやりたいとも思った。

 でも、俺と絃羽は互いの気持ちを打ち明けただけで、実際に付き合っているわけではない……はずである。美紀子さんの手前もあるし、このまま〝なあなあ〟で済ませるのは良くないのもわかっている。

 ただ、一体どうしたものか、という気持ちもある。俺は二十二で、絃羽は十六なわけで。それに、その辺りは互いの合意でクリアできたとしても、今の俺の状態では美紀子さんも安心して任せられないだろう。

 今の俺は、プー太郎を目前に控えた大学生だ。自分の人生ともう一度向き合う必要があった。もともとはその為の逃避旅行でもあるのだから……これも良い機会なのかもしれない。


 ──ここで暮らすには、どうすればいいだろう?


 何となくそう考え始めている自分がいた。俺はこの場所が気に入り始めていたのだ。


 ──とは言ったものの、どうするかなぁ。


 美紀子さんに弟子入りして畑の仕事でも教わろうか、と考えていた時だ。

 隣の部屋からごそごそと物音がして、扉が開く音がした。そして、そのまま足音が俺の部屋の前で止まり、こんこん、とこちらの部屋の扉がノックされた。


「ゆ、悠真さん……? 起きてる?」


 絃羽だ。彼女が夜に俺の部屋を訪れるのは珍しい。というか初めてだ。


「ああ、起きてる。どうした?」

「その……入って、いい?」


 思わず言葉を詰まらせた。どういう意図なのか、全く想像がつかない。


「あ、ああ。どうぞ」


 緊張のあまり、少し声が上ずってしまった。恥ずかしい。

 絃羽は「お邪魔します」と小さく言ってから、扉を開いた。扉の先には、パジャマ姿の彼女がいる。枕を抱えるようにして持っていた。


「あ、待った。電気付けるから」

「つ、付けなくていい」

「いや、でもお前……」

「付けなくていいから! 顔、見られたくない」


 枕で顔を隠して、そのまま部屋の中に入って扉を閉める。

 真っ暗な──しかも布団も敷かれた──部屋の中に、ほんの数時間前に想いを告白し合った男女がいる。それを考えるだけで胸が高鳴った。

 絃羽はそのままとてとてと畳を歩いてきて、俺の布団の横にぽてんと座る。

 そのまま枕から少しだけその浅葱色の瞳を覗かせて、こちらをちらりと見た。


「一緒に寝て……いい?」

「え、ええ⁉ いや、いいけど……」


 慌てて体をずらして布団を半分ほど空けると、絃羽が遠慮がちに横になる。ふわりとお風呂上りの女の子の良い匂いが鼻腔を擽った。


 ──いやいやいや、待って! これどういう状況⁉ 良くないんじゃないか⁉


 はっきり言って、大混乱だ。

 銀髪の美少女が今、同じ布団で横になっている。彼女は月宮絃羽みきみやいとは。叔母の美紀子さんの娘みたいな存在で、昔遊んでやっていた田舎の子……で、今は好きな人。そんな子が同じ布団の中にいる。


 ──こいつ、自分のやっている事の意味がわかっているのか?


 思わず頭を抱えたくなった。こんな状況下で男と女が一緒になったら、どうなるかなんて中学生でもわかりそうなものだけれど……いや、絃羽に限った場合は本当にわかっていなさそうなところがある。顔を枕で隠してるので、表情もわからない。ただ、冗談やからかいでこんな事をやる子ではないのも事実だ。


「えっと……どうした?」


 枕で顔を隠したまま動かないので、訊いてみた。俺もどうしていいのかわからない。


「これって……ほのちゃんの言ってた、逆夜這い、になるの?」


 少しだけ瞳を覗かせて訊いてくる。

 暗いけれど、彼女の顔が赤いのは何となくわかった。なんで逆夜這いがここで出てくるのだ。


「いや、俺起きてるし、何もされてないから、逆夜這いにはならないと思うけど」

「そ、そうなんだ……」


 何がやりたいんだろう、この子は。この様子では、おそらく逆夜這いの意味もわかっていない。


「……ごめん。どうすればいいか、わからない」


 絃羽が枕から片目を覗かせたまま、呟くようにして言った。


「え?」

「その……私、す、好きな人とどう過ごしていいのか、わかんなくて。漫画も色々見てみたんだけど、よくわからないし」


 曰く、恋愛関係になってからの男女が何をすればいいのかわからないのだと言う。しかも、同じ家で暮らしているのなら尚更だ。それで、本棚の少女漫画をひっくり返して色々見てみたけれど、とりあえず同じようなシチュエーションだと相手の部屋で一緒に寝る、というものしかなかったのだと言う。


「それで、恥ずかしいのを我慢してこうして部屋に来た、と」


 俺の問いに、こくこく、と頷く絃羽に大きな溜め息が漏れた。

 どうすればいいかわからないから部屋に籠って少女漫画を読み漁っていた、という事らしい。それで該当箇所っぽいものを見つけて即実践しているのは何とも健気で可愛らしいのだけれど、もうちょっと警戒して欲しい。俺も男なわけで、こう……色々耐えるのも、先に進むのも、何れにせよ心の準備が必要なのである。こうも無警戒だと我慢できる自信がない。


「お前なぁ……それ、意味わかってるのか?」

「え?」

「その、一緒に寝るっていうのは……男女が肉体関係を結ぶって事だぞ。その漫画も描写省いてるだけで」

「え、え、え、ええええええ⁉」


 途端に困惑の声を上げて、目を白黒させる。やっぱりわかってなかった。


「次のページで朝になってただろ。裸で」


 そう訊くと、「あっ……」と呟いた。


「布団の中だったから裸かわからないけど、上の服は着てなかった……と、思う」

「やっぱり。そういう事だと思うぞ」


 あるあるな描写だった。性交渉の描写をすっ飛ばして、事後を描いている。全年齢で作品を売る為の常とう手段だ。


「え、ええ⁉ えっと、私、そういうつもりじゃ……ッ」


 ぎゅっと枕を抱き締めて体を守るように固めた。


「それもわかってるよ」


 何だかそんな様子を見て、安心してしまった。もしそのつもりで絃羽がここに来ていたら、それこそどうしていいかわからなかった。

 下への音とか、美紀子さんにバレないか、とか、そもそもしてしまっていいのか、とか……悩むポイントが多すぎるのだ。


「悠真さんは……」


 また浅葱色の瞳を片目だけ枕から覗かせた。


「私と、そういう事、したい……?」


 顔を真っ赤にして訊いてくる。

 なんて事を言い出すんだ、この子は。しかもその恥ずかしがっている仕草と表情が可愛すぎて色々爆発してしまいそうになる。


「それなら、私……頑張る、けど」

「いやいやいや、待て待て待て! そんな無理しなくていいから!」


 どうしてこうなった。全く意味がわからない展開に頭を抱えざるを得ない。こっちだって心の準備ができていないのだ。そんな勢いで来られても困る。


「付き合ったからって、そんないきなり何でもかんでもするわけじゃないから。無理してするものでもないし」

「あっ……うん。そう、だよね。ごめん」


 枕の中でほっと安堵の息を吐く絃羽。

 というか、今さらっと『付き合う』と言ってしまったけれど、絃羽の中でも付き合う事には異論がないと言う事だろうか。一応、その確認だけしておこう。


「なあ、絃羽」

「……なに?」

「その……俺と、付き合いたい?」


 絃羽がおそるおそる枕を除けて、こちらを見てくる。そして、浅葱色の瞳を震わせながら、こくりと遠慮がちに頷いた。

 月光に照らされた彼女の瞳はとても綺麗で、まるで宝石のようだった。


「悠真さんは? 本当に私で、いいの?」

「何でそんな事言うんだよ」

「だって私、全然ダメな子だから」


 相変わらず自分を卑下する癖は抜けないらしい。

 俺は小さく溜め息を吐いてから、絃羽の方に身を寄せて、枕を取り除くと、優しく抱き寄せた。彼女は小さく「あっ」と声を漏らしたが、抵抗しなかった。

 絃羽の甘く優しい香りが鼻腔を満たして、その柔らかい感触をパジャマ越しに感じられた。


「絃羽はダメな子じゃない。俺よりもずっと強いよ」

「悠真さん……?」

「俺の方こそさ、本当は絃羽と付き合える人間なのか、怪しいくらいダメダメで。武史とか帆夏には偉そうな事言ってるけど、本当は……てんで、ダメな奴なんだ」


 絃羽は顔を上げて、その浅葱色の瞳でこちらをじっと見つめていた。


「悠真さんの事、話して欲しい」

「絃羽……」

「私、全然悠真さんの事知らないから……もっと悠真さんの事知りたい」

「わかったよ。じゃあ……この五年間の事、話そうか」


 そう言ってやると、銀髪の少女は嬉しそうに頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る