前へ進む為に必要なもの
今日の宴会は、九時を過ぎた段階でお開きとなって、客人達が帰って行った。今は台所で
何となく美紀子さんからの追及が怖かったのと、酔いを醒ます意味もあって、庭に出て池の鯉を眺めていた。
風呂場の窓からは湯気が出ていて、シャワーの音が漏れている。絃羽が風呂に入るなど毎日の事で、別に特別な事ではない。
だが、先ほどの告白を得てからだと、そのシャワーの音だけで絃羽のあられもない姿を想像してしまい、思わず顔が熱くなる。
──ダメだ、酔ってる、酔ってるぞ俺!
本当のところを言うと、酒の量は控めなのでそれほど酔っているわけではない。ただ、顔が火照る理由を酒の所為にしたかっただけだ。
池の中の鯉を眺めて深呼吸していると──スマートフォンが震えた。この震え方は、電話だ。誰だろうと思って見てみると、ディスプレイには
慌てて通話コマンドをタップし、電話に出る。
『ユウ兄。絃羽、大丈夫だったか?』
「ああ、まあ。色々大変だったけど、大丈夫だよ」
絃羽との関係について話そうか迷ったが、やめておいた。まだ俺達がどうなるのか、俺達自身もわかっていなかったからだ。
『そっか。今、一人か?』
「今皆帰って、中庭で酔い醒ましてるとこ」
『じゃあ丁度良いや』
武史は電話口の向こうでどこかに移動している様だった。階段を上る音がしてから、扉の開閉音が聞こえた。おそらく自室に入ったのだろう。
『あのさ、ユウ兄。悪かった』
「え? 何がだよ」
『その……
「……どういう事だよ?」
予想もしていなかった言葉に、驚いた。
武史は順序立てて、理由を説明してくれた。桐谷家に絃羽が引き取られて以降、帆夏は絃羽を無視する様になった。帆夏が無視する事で、他の連中もそれに続いたのは前にも説明された通りだった。
だが、帆夏も自分がやり過ぎている、という自覚はあったそうだ。本当は自分だけが無視するだけで終わるはずだった、それがクラスの連中まで追随するとは思っていなかったのだと言う。自らの影響力を考慮していなかったのだろう。
しかし、自分が始めてしまった事で、悪いと思う反面、自分が絃羽を妬ましく思っている気持ちも変わらなかった。そういった事情もあって、帆夏自身ではもう状態を変える事ができなかったのだと言う。
『ユウ兄が来た時、チャンスだって思った。あの二人にとって、ユウ兄は特別だったからさ』
絃羽はもちろん、帆夏もずっと初恋を引きずっていた。それは武史から見ても明らかだったそうだ。そしてその初恋が原因で、二人の関係は崩れ、結果的に絃羽が孤立する形となった。
新しい恋をすれば変わるのではないか、と武史は帆夏に男友達を紹介したが、何も進展しないまますぐに別れてしまった。それ以降は告白されても断っているらしい。
そして、絃羽も絃羽で海に飛び込む等の奇行が目立つ様になってきていた。きっと彼女も限界なのだろう、と武史は悟っていたのである。
ただ、武史にはどうもできなかった。
帆夏と武史は距離が近過ぎて、何かを言ってもすぐに口喧嘩になってしまうのだと言う。口喧嘩となれば、口達者な帆夏に武史では勝てない。実際に、帆夏のあの論法というか、手法は高校生男児では対処が難しいだろう。
絃羽に何か働きかけようにも避けられているし、何より自分は絃羽の中に踏み込める人間でもない事も、彼はわかっていた。
ただ、武史は幼馴染の帆夏がこれ以上醜くなっていくのを見ていられなかったし、絃羽にもまた傷付いて欲しくなかった。出来れば、また三人で遊んだり話したりしたい、そうとまでは行かなくても、せめて夕飯時に一緒に美紀子さんを囲んでご飯を食べるくらいにはなりたいと思っていたそうだ。
「お前、二人の間でずっと悩んでたんだな……」
『ちげーよ』
武史は俺の言葉を否定した。
『前にも言っただろ。俺はさ……絃羽に罪悪感抱えてんだよ。自分自身がそれに苛まれてんのが嫌で、何とかしたかっただけ。ずりぃんだよ、俺』
電話口の向こうで、武史が溜め息を吐いた。
幼馴染達が醜くなっていく様や傷付いている様を見たくないという気持ちのどこに狡さがあるのか、甚だ疑問だった。やっぱりこいつは良い奴だ。
『でも、俺は野球部で忙しいし、絃羽も帆夏も変わる気配がないわけで、どうしようかと思ってた時に、ユウ兄が来たってわけ。これしかないって思ったわけよ』
俺が実際にこの町に来て、そして絃羽と一緒に海に飛び込んだという話を聞いて、武史は俺ならこの状況を打破できると確信したそうだ。
野球部の活動休止は予想外だったが、この事だけで考えるならそう悪い偶然でもなかった、と武史は言っていた。
『帆夏はさ、失恋する必要があったんだ。自分はユウ兄に相手にされてないって、はっきりわかる必要があった。そうしないと、あいつはずっと前に進めなかったと思うしな』
「にしても、危うい賭けだな。俺が絃羽の為に動く確証なんてないだろ。それに、俺が帆夏側に付く可能性だってないわけじゃないし」
『いや、ユウ兄が絃羽の為に動く確証はあったし、帆夏側に付く可能性がない事もわかってたよ』
「なんでだよ」
なんだか、たかがか十六のガキんちょに自分が見透かされている様で少し腹が立つ。
すると、電話口の向こうで武史は少し笑った。
『だってユウ兄、昔から絃羽の事大好きだったじゃん。ここだけの話、俺はてっきりロリコンかと思ってたよ』
「は⁉ てめ、ぶっ殺すぞ!」
電話の向こうでゲラゲラ笑いやがる。
くそ、本当に腹が立ってきた。明日絶対ぶん殴ってやろう。
『でもまぁ、実際俺の目論見通りだったわけじゃん? 仮にユウ兄に彼女がいてもさ、絶対に今の絃羽見たら乗り換えると思ったもん』
それも否定しきれないところが痛いところだった。
別れた状態で出会っていたからよかったものの……もし、歌那の浮気がなかった状態でここに来ていたら、俺は絃羽に抱いていた衝動を抑えられただろうか?
その自信はなかった。
『まあ、ユウ兄と絃羽がどうなったかは今度聞くとして……とりあえず帆夏も次に歩かせなきゃいけないわけで。明日、絃羽と会わせたいんだけど、どうかな?』
「大丈夫か? さっきみたいになるのはもう嫌だぞ」
『それは大丈夫。俺ががっつり叱ったし、あいつも自分が悪いのは嫌ってほど自覚してるからさ。あそこでユウ兄が絃羽を追いかけた事で、もう自分の初恋が終わったのも自覚してる。後は……あいつが絃羽に謝るだけなんだよ』
絃羽への罪悪感だなんだと言いながら、こいつは帆夏の事を一番に考えている。それは幼馴染だからこそなのかもしれないし、自分でも気付いてないだけで、それ以上の感情を抱いているからかもしれない。
『確かに面倒臭い女ではあるけど、根は悪くないんだよ、あいつ』
「それは知ってる。良い子だと思うよ。武史によく似合ってる」
『うへぇ、勘弁してくれ。俺はあんな面倒臭い女御免だぜ』
そう言って、互いに笑い合う。
その面倒臭い女の面倒臭さにしっかりと付き合い、前を向かせようとしているあたり、武史以上の適任はいないと思うのだけれど。まあ、それは俺が言うものでもないだろう。
それから明日、防波堤で会う約束だけして、武史との電話を終わらせた。
──彼女がいても絃羽に乗り換える、か。
否定できなかった。
俺はここにきてから、絃羽の事ばかり考えているように思う。自分が失恋していた事も忘れて、ただ彼女の笑顔を見る事ばかり考えていた。
──前に進みたいなら、逃げ回ってないでちゃんとケリつけとかなきゃいけないよな、俺も。
深い溜め息を吐いて、俺はスマホの不在着信の履歴を開いた。そして、『
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