新しい時間

〝旅立ちの岬〟でひとしきり泣いた絃羽いとはの手を握って、俺達は家路に着く。

 彼女と手を繋いだのは、ここに来た初日に飛び込んだ彼女を浜まで連れて戻った時以来だった。泣き止んだ頃合いを見計らって、帰ろうか、と訊いたところ、彼女はこくりと頷いた。そして、どちらともなく手を繋いでいたように思う。

 俺達の関係は、正直なところわからない。絃羽の気持ちは聞いたし、俺の気持ちも伝えた。でも、まだ付き合うだとか、そういう話はしていない。あの状況でそういった下世話な話が必要だったかと言うと、そうでもなかった気がするし……なかなか難しかった。それはまたおいおいで構わないだろう。

 帆夏ほのかと口論になった場所まで戻ったが、そこには誰の姿もなかった。武史たけしが連れて帰ってくれたのだろう。

 武史が帆夏を引っ叩く程怒ったのは少し意外だった。ただ、彼女が言った事は許されるべきものではなかった。彼がああして怒ってくれたからこそ、俺も冷静になれた部分が多い。


 ──それにしても、武史の野郎、大人になったなぁ。


 思わず感心してしまった。ほんの五年前までただの悪ガキだと思っていたが、あれほどまともな事を言うとは思っていなかった。

 彼が先ほど帆夏に言った言葉は、俺が帆夏に対して言おうと思っていた言葉だった。きっと俺が言うと、もっと帆夏を傷つけていたと思う。武史は薄々それを察知していたからこそ、敢えて自分が悪者になったのだろう。なんだかんだ、武史は幼馴染として、帆夏を一番大切にしているのだ。


「武史がさ、帆夏に怒ってくれてたよ。万が一があったら、どう責任取るんだって」

「……そうなんだ」


 俺がそう言うと、絃羽は柔らかく微笑んだ。それ以上は何も会話は交わさなかった。

 家に入る前に手を離して、引き戸に手を掛ける。奥からパタパタとスリッパの音が響いてきたかと思うと、美紀子さんが姿を現した。


「あら……お帰りなさい。遅かったわね。もう夕飯皆で先に頂いてるわよ?」

「すみません、遅くなりました」

「何もないなら良いんだけどね。また飛び込んだのかと思って、心配しちゃったわ」


 そう言ってから美紀子さんは俺と絃羽を交互に見てから、もう一度絃羽をじっと見た。絃羽が気まずそうに目を逸らすと、そこで何かを察したように、口角を上げて俺をじろりと見てくる。


「何もなかったわけじゃなさそうね?」


 毎日見ているからか、絃羽の何らかの変化に気付いたらしい。彼女も勘づかれた事を察知したのか、顔を赤くしている。


「わ、私、今日はご飯要らない!」


 美紀子さんに何か追及されると予感したのだろう。絃羽はそうとだけ言って慌ただしく靴を脱いで、そのままパタパタと二階に上がって行ってしまった。


「……ふーん? なるほど、ねえ?」


 そんな絃羽の背中を眺めてから、悪戯げにこちらを見てくる美紀子さん。俺は乾いた笑みを浮かべるのが精一杯だった。


「今日は吐くまで飲ませてやろうかしら?」

「その前に潰れるんで勘弁して下さい……」

「まあ、別にいいんだけどね。あの子が幸せなら、それで」


 くすっと美紀子さんは笑って居間に戻って行った。丁度彼女を呼ぶ声が居間から聞こえたのだ。今日もご近所さんが集まっているらしい。賑やかな事だ。


「参ったな……」


 どうにも言い逃れできそうな雰囲気でもなく、苦い笑みを浮かべるのだった。

 絃羽はご飯は要らないと言っていたし、そうなると俺も居間で宴会じみた夕食会に参加せざるを得ない。

 近所のおっさん達とも随分見知った仲になってしまったので、そのまま酒盛りに付き合わされた。その御蔭で美紀子さんからの追及は逃れられたので、今日だけはそれに感謝した。

 今日の夕食でわかった事なのだが、このおっさん達がこうして頻繁に桐谷家に顔を出すのは、美紀子さんに寂しい想いをさせない為だそうだ。ただ、そういう口実の元、美紀子さんと話をしに来ているだけなような気がする。酒や食べ物を皆持ち寄ってくるので、もう半分スナックのママ状態だ。

 これも初耳だったのだが、うちの母親と美紀子さんは近所では有名な美人姉妹だったらしく、この町ではマドンナ的な立ち位置だったそうだ。美紀子さんは「姉さんには勝てないわよ」と言っているが、自分の母親を思い浮かべる限り、そうとは思えない。ただ、母さんが父さんに嫁いだ際は町の男連中は涙したものらしい。


 ──でも、まぁ。絃羽がいなくなったら、美紀子さんも寂しいよな。


 おっさん達に囲まれて酒を飲む叔母を見て、ふとそう思うのだった。

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