二章 夏が動き出した時
母親とは
桐谷家に来てから、数日が経った。
もともとは現実逃避と自分探しでこの町にきたはずだった。しかし、そこで昔遊んでやっていた子供と同居する事になり、更には世話を任される事になった。
それだけなら良いのだが、五年の月日が経ち、その子は今や女子高生。更には銀髪に浅葱色の瞳に真っ白な肌と、浮世離れした容姿を持つ少女でもある。
一体どんな生活になるのか、最初は結構不安だった。何か期待しなかったといえば嘘になるが、実際は変わった事など起きなかった。
隣の部屋に
というか、彼女も家の中だと緊張してしまうのか、あまり話してくれなかった。お風呂上りに声を掛けようものなら一言二言話しただけでぴゅ~っと逃げられてしまう。そんな様子を
俺の生活もルーティン化しつつあった。
朝起きて、絃羽の作った朝食を食べ、彼女を送っていく。そのまま町をぶらぶらする時もあるし、美紀子さんの畑仕事を手伝う時もある。お昼になると、
他の誰か、というのがポイントだ。ここ桐谷家は、夕食時は誰が来るかわからないランダム形式なのである。美紀子さんはある程度わかっているようだが、俺はさっぱりわからない。
帆夏と武史二人ともが来る時もあるし、どちらかの両親が来る時もある。美紀子さんにほの字の近所のおっさん達もよく来るし、近所のじいさんばあさんも来るので、結構予測不可能だ。
昔遊びに来ていた時も夕飯の時は賑やかだった。それは祖父母がいなくなっても変わらないらしく、美紀子さんがご近所から愛されているのがよくわかった。
だが──その賑やかな場所に、絃羽の姿はなかった。
帆夏がご飯を作りに来る時は彼女が帰るまで絃羽は絶対に部屋から出てこないし、他の誰かが来ている時も下には降りてこない。そこで何かしようものなら問題が起こるのは初日の経験則からも明らかなので、俺は黙って見ている他なかった。
少しだけ進展があるとしたら、そうして誰かが来ない時、即ち来客がない時なら、絃羽は俺達と一緒にご飯を食べるようになった事だった。美紀子さんからすれば、それだけでも大きな進歩だと言う。
「
絃羽が台所で夕飯の食器を洗っている音に耳を傾けながら、美紀子さんが小さな声で言った。
この家は田舎ならではの大きな家なので、台所と居間まで距離があって、絃羽の姿は見えない。ただ、こうして夕食を食べて、その後に絃羽が食器を洗ってくれて……それだけで、家族という感じがして、美紀子さんは嬉しいらしい。
「俺は何もしてないですよ」
そう言っても、彼女は「ううん」と首を横に振る。
「三人の時だけでもご飯食べてくれるようになって、それだけでも進歩よ。あの子は……自分がこの家のお荷物だと思ってるから」
「それが、部屋に閉じ籠って、日中は出来るだけ家を空けてようっていう理由ですか?」
俺の問いに、多分ね、と美紀子さんは頷いた。
「そんな事、ないんだけどな……」
「ちゃんと伝えました?」
「伝えても、伝わらないのよ。気を遣ってるだけだって思われちゃってね」
美紀子さんは嘆息して、本日何杯目かの焼酎を口に含んだ。
何日か飲んでわかったが、彼女は恐ろしいまでに酒が強く、全然酔わない。毎回俺の方が先に限界に達してしまうのだ。この人に付き合っていると肝臓が壊れる事を察知して、以降酒は最初の一杯だけにしてある。
ちなみに、ほの字のおっさん共の酒の相手をして、毎回おっさん共を潰して帰している。昼間は元気溌剌としていて、夜はおっさん共を手玉に取っている姐さんみたいな人だ。
だが、そんな美紀子さんが今はやけに弱々しい。
「母親って、どうやってなるのかなぁ……」
焼酎に溶ける氷を見て、美紀子さんが呟いた。
それに対して、俺が答えを持っているはずもない。フリーター秒読みの大学生で、尚且つ付き合っている女を寝取られる様な男ならば尚更だ。
「ごめん。ちょっと今日は良くない酔い方ね。この一杯で最後にするわ」
反応に困った俺を見て、彼女は苦笑を浮かべた。
俺は「いえ」としか言えなくて、何ともいえない気持ちになる。彼女は彼女で、きっと絃羽とどう接すればいいのか、わかっていないのだ。
美紀子さんも美紀子さんで遠慮をしている。きっと、絃羽との距離の詰め方がわからなくて、詰め過ぎれば負担になるのではないかと不安に思っているのだ。
この二人は、本当に見ていてやきもきする。どちらかが我儘になれば、簡単に解決する問題なのではないかと思うのだけれど、決してそうしようとはしない。
美紀子さんは、本当の親ではないという引け目がある。そして、絃羽は皆の美紀子さんを独り占めするわけにはいかないと思っている。
自分で自分を苦しめている様にしか見えなかった。
「美紀子さん、洗い物終わったよ」
台所から絃羽が戻ってきた。白銀の髪がヘアゴムで緩く束ねられていたのだが、俺と目が合うや否や、慌ててヘアゴムを外していた。手櫛で髪を整えている。
「ありがとう。お風呂はどうする?」
「もうちょっとしてからにしようかな。美紀子さんも、酔い冷めるまでお風呂入らないようにね」
「はーい」
二人がそんな会話を交わしている。こういったやり取りだけ見ていれば、普通に親子なのにな、と思うのだけれど、そうではないらしい。
本当に、見ていてやきもきする。
「絃羽」
そのまま絃羽が階段の方へ歩を進めて上がろうとするので、俺はおもいきって彼女を呼び止めた。
「え、なに?」
思わず呼び止めてしまった。呼び止められると思っていなかったらしい彼女は、少し驚いている。
「なんかして遊ぼっか。前約束したろ?」
時計を見て言う。まだ九時前だ。高校生が寝るにしては少し早い。
それに、前に約束したものの、そのまま特に遊ぶ事もないまま数日が過ぎ去ってしまっていた。これは良くない気がする。
「でも、私遊ぶものなんて持ってないし……」
「あら、絃羽の漫画コレクション見せてあげればいいじゃない」
美紀子さんが口を挟んできた。少しからかうような笑みを浮かべている。
どうしてニヤニヤしているのだろうか。
「えっ。いいけど……見たい?」
絃羽が上目遣いでおずおずと訊いてくる。
「嫌じゃないなら見せてくれよ。絃羽がどんな漫画読んでるのか気になるし」
「うん……わかった。じゃあ、部屋で待ってるね」
恥ずかしそうに顔を伏せて、そのままさっさと上に上がってしまった。
「あっ」
そこで気付いてしまった。
漫画コレクションは絃羽の部屋にあるわけで。それを見せてもらうという事は、今から絃羽の部屋に入る事になるではないか。美紀子さんがニヤニヤしていた理由がわかった。
「やるわねえ、悠真くん。いきなり女子高生の部屋に入っちゃうなんて。さすが都会の大学生。そうやって一人暮らしの女の子の家に上がり込んだのかしら?」
「いや、美紀子さんがそう仕向けたんじゃないですか!」
「この辺り静かだから、あんまり大きな声出させちゃダメよ?」
「あなた、さっき母親になる為にはとか悩んでませんでしたか⁉」
どう考えても母親失格だ。そもそも大前提で女子高生の部屋の隣に俺を泊まらせているのも問題があるのだけど。
「大丈夫よ。悠真くんそういう事しないと思うし……まあ、あの子が望んでるんだったら、別にいいと思うけどね?」
「全然良くないですから! ていうかしませんから!」
「え、何を? 漫画読むだけでしょ?」
美紀子さんがくすくす笑っている。
ダメだ。絃羽諸共俺もからかわれている。不服さを隠さず黙り込んで、そのまま二階に向かった。背中から「優しくねー」とかいう言葉が聞こえたが、完全に無視だ。
──よくよく考えれば、女子高生の部屋に入るのって背徳感凄くないか? 俺、捕まらないだろうか。
そんな不安を抱きながら、絃羽の部屋の前に立った。
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