物語から消える時、2016

 ここ数年、睡魔の訪れが以前に比べて、とても早くなった。


 いまでは原稿に手を付けはじめる時にはすでにあくびが出ていて、ほとんど進まないまま眠りに落ち、気付けば翌朝を迎えていることも、めずらしくない。月の三割くらいはほぼ徹夜で、その執筆ペースに驚かれていた頃が懐かしい。焦りはあるのに、肉体は自分の思うように動いてはくれず、ただ時だけが淡々と過ぎ去っていく。時間さえあれば、なんていうのは言い訳だ。たぶんもうすこし時間があったところで、俺はこの物語を完結させられないだろう。


 こんこん、とドアをノックする音はいつもの妻らしくないすこし強めな音で、俺が背後を振り返りながら、


「どうした?」


 とドア越しに声を掛けると、失礼します、と妻のものではない男性の声が聞こえてきた。


 まだドア越しにある久し振りの顔が、見るよりも先に頭に浮かぶ。あぁ……、本当に、めずらしい客人だ。部屋に入ってきた、十年以上も古い付き合いのある友人の姿に、俺はすこしのあいだ、それまでの眠気を忘れてしまった。


「久し振りだね」


「すみません勝手に。奥様から、会っても問題ない、と聞いたので……」


「もちろん、きみならいつでも大歓迎だよ」


「でも執筆作業中だったんですね」彼が、俺の机の上を見ながら言う。「すみません。先生の邪魔をするつもりはなかったんです」


「誰からも、先生、と言われるのは気恥ずかしくて仕方ないが、きみから先生と言われると、特に違和感しか覚えないね。きみの先生は、あのひとだけ、だろ。きみに会うのは何年振りだろうか。何か用事があって来たんだろう、コウくん?」


「そうですね……。では以前のように志賀さんと呼ばせていただきます。えぇ、確かに話したいことはありました。ただ……、それもそうなんですが早めに会っておかないと、もう会えなくなる……、そんな気持ちもあって。……理由は僕にも、はっきりとは分からなくて、ただの嫌な予感と言いますか、虫の知らせ、みたいなものなんですけど……」


 さすが俺とは違って本当に、先生、と呼ばれるべき人間の助手だ。一緒にいるだけで、勘も鋭くなってくるのかもしれない。


「先生は元気にしてるのかい?」


「志賀さんが最後に会った時と、何も変わらないですよ」


「そうか……」


「それで、きょう来たのは、先生のことで、なんです」


「まぁ俺のところに、久し振りにきみが訪ねてくる理由なんて、それくらいしかないだろうからな」


「僕は、先生から離れたい、と思っています」


「……驚いた。きみと先生は一蓮托生だと思っていたが」


「僕もそうなると思っていましたが、すこしずつ先生のことが分からなく……いえ、最初から分かっていなかったんですが、特に最近、先生のいままでの行動や言動に違和感を覚えるようになってきたんです。……あの、志賀さんは先生の息子さんの顔を見たことがありますか?」


「ないよ。そもそも子どもがいることも知らなかったよ。でも、それがどうしたんだい?」


「――似てるんです」


「きみに?」


 彼は肯定も否定もせず、ほほ笑みだけを俺に向け、その表情は先生の表情によく似て、彼こそが本当の息子のようにさえ思えてくる。


「ここが解消しないと限り、僕は先生と一緒にいてはいけない。そんなふうに思うんです。それに……」


「それに?」


「先生への違和感がきっかけになったのは事実ですが、純粋に僕は僕だけの人生を歩んでみたい、って思うようになってきて……。たとえそれが、どんなに苦しいものであっても」


「きみが決めたことなら、俺は応援するよ」でも……。彼のその新たな姿を、俺が見ることはないだろう。とても残念ではあるけれど、仕方のない話だ。「……はじめてきみたちに会った時のことを覚えているかい?」


「えぇ、あんなに強烈な依頼を忘れることできないですよ。先生にとっても特別な依頼だったからこそ、僕たちは定期的に会うことになりましたし、ね」


「そのおかげで、きみという年齢が二十も離れた、俺にとっては唯一と言ってもいいくらいの友人を得たわけだから、あの一件も悪いことばかりじゃなかったのかな」


「奥様も、もう落ち着かれている感じでしたね」


「あぁ、とても嬉しいよ。……まぁ話を戻すが、長く一緒にいると、大なり小なり相手に何かを思うことはあるものさ。俺にとってはそれが妻になるし、きみにとってはそれが先生になる。考えて、きみなりの答えを見つけるといい」


「志賀さんにとって、奥様……光希さんは、どういう存在ですか?」


 志賀光希……妻は……、俺にとって妻は、彼女はどんな存在なのだろう。


「いまだによく分からない。不思議な存在だよ。いま恋愛小説を書いてるんだけどね。別に光希をモデルにしたわけじゃないのに、書いているうちに、自然と作中のヒロインが彼女に似ていくんだ。そういうのに気付くと、良いところも悪いところも、どこまでも俺の人生に根付いているんだな、と思ったりもする」


 すこしだけ雑談をしたのち、彼は帰っていった。帰る間際、彼は不安そうなまなざしで、俺に、また会えますか、と聞いてきて、俺もほほ笑みだけを返すことにした。


 自分の人生にはそれほど後悔もしていない。だってさほど期待もしていなかったから。


 心残りがあるとしたら、光希のことだ。


 俺はどうせ先の進まない原稿のデータを保存してパソコンの電源を落とし、一通の手紙を書くことにした。






【文芸雑誌「星白」2016年7月号「作家・志賀恵聖追悼特集」著者紹介文より】


 彼のデビュー作『虚構の中に舞う』の衝撃を、いまも忘れられずにいる。


 まずは筆者のことを知らない読者のために、簡単に自己紹介させてもらうと、筆者は志賀恵聖と同年デビューの売れない作家である。親密な交流があったかと言うと、ほとんどなく、そもそも彼は作家同士での交流に興味はなかったのではないだろうか。筆者に白羽の矢が立ったのは、同じ時期にデビューした、ただそれだけだ。


 彼の作品に初めて触れたのは、今からちょうど二十年前の夏だ。自分の最初の著書が書店に並ぶ。そのことにうきうきしながら書店の文芸新刊棚に行くと、そこには明らかに自分の著作よりも強烈に目を惹く小説が平積みになっていた。本に呼ばれる、という感覚がある。まさにあれがそんな感覚で、自分の初めての新刊よりもその本が気になり、購入して帰ったその日暮れの頃から翌日の明け方まで徹夜で読み耽り、感嘆の息を漏らすことしかできなかった。それが『虚構の中に舞う』だった。


 この作品は作者自身の生い立ちが語られることからはじまり、すべてが順風満帆にいっていた高校時代に比べて、大学時代の人間関係に、あるいは就職してからは職場の劣悪な環境に悩み苦しむ……、そんなどこにでもあるような自伝的な青春小説か、と思ってしまう前半なのだが、途中から明らかにおかしくなる。やがて作者と同名の語り手が自分を苦しめてきた周囲の人間を殺して回るスプラッター小説を書きはじめるのだが、そのうちに現実と虚構の区別が付かなくなって、現実でも殺人に手を染めてしまう、という感じで歪に展開し、それをどこまでも静謐な文体で綴って、それが強烈に残るのだ。殺害された登場人物には現実にモデルがいた、というのだから驚きだ。これを読んでいる志賀の愛読者なら知っている、と思うが、彼の著作の主要人物には大抵、モデルがいる。


 彼がこの作品を二十代前半で書き、いや二十代前半という若さだけが持ちうる恐れ知らずな輝きだったのかもしれない。それを知った筆者の心は嫉妬よりも絶望を感じた。こういう小説を本物と呼ぶのか、とそんな気持ちになったのを覚えている。


 この作品は、毀誉褒貶含めて、かなり話題になった。だから多くのひとが彼の次作を待ち望んでいたし、筆者もそのひとりだったのだが、デビューから二作目まで沈黙していた期間は思いのほか長く、二作目が出版されたのは『虚構の中に舞う』の毀誉褒貶を読者が忘れつつある頃だった。とても端正なミステリだったが、かつてあった毒や棘をすべて失ったような内容で、それがすこし残念だったのを覚えている。


 二作目以降の彼の作品は、そのほぼすべてが優れていて、商業的にも成功を収めた、と言っても問題ないはずだ。だが、筆者はあのデビュー作の頃の彼がいつか戻ってくると、ずっと待ち望んでいた。そう思っていたのは、筆者だけではないだろう。


 彼の死によって、それが永遠に叶わぬことが残念だ。

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