先生ほどではないが、このひとも、昔と比べて外見があまり変わらない。


 志賀さんの葬儀から一ヶ月近くが経ち、奥さんである光希さんの顔を見るのも、それ以来だった。広い一軒家にひとりだと精神的な苦しみもさらに大きくなってしまうのかもしれない。もう以前のような一戸建てに夫婦で暮らすような生活ではなく、現在は別宅として借りたアパートにひとりで住んでいるそうだ。


「きょうも、ありがとうございます」


 消え入りそうなちいさな声で、光希さんが言った。きょうも、という言い方なのは、先生のほうはこまめに光希さんのもとを訪れていたからだ。僕も知ったのはつい最近のことなのだが、生前の志賀さんから頼まれていたそうだ。自分の死後の光希が心配で仕方ない、気に掛けてやってくれないか、と。新たな生活の環境を整えたのも先生のようで、確かに光希さんひとりだと、そういったところも気に掛ける必要があるかもしれない。


 どこかぼんやりとした子、ね。


 僕と先生が最初に光希さんと顔を合わせた時、先生がそう言って溜め息をついたのを覚えている。まるで小学生くらいの子どもに言うような口調だったが、実際の光希さんの年齢はそこまで先生と離れているわけではない。先生が言うように、僕から見ても、光希さんは、ぼんやりとして危なっかしい印象があった。


 妻の心に巣食う闇を払ってくれ、もし無理ならば、妻を殺してくれ。


 志賀さんから初めて依頼を受けた時の言葉が脳裏によみがえる。志賀さんにとっての光希さんは、光希さんにとっての志賀さんは、どんな存在だったのだろうか。ふとそんな考えが浮かぶ。


「どうしたの? そんなにおでこにしわを寄せて」


「あっ、いえ、ちょっと考え事をしていました。すみません……」


 先生のほうにしか意識が向いていないと思っていた光希さんの目が、気付けば僕に向いていて、慌てて言葉を返す。


「ごめんね。失礼な助手で」


「いえいえ、気にしなくて大丈夫ですよ」


 と、光希さんがほほ笑む。光希さんとは僕を介さずにいままで会っていたわけで、何故、先生はきょうに限って僕を誘ったのか、とそんな疑問はあったが、まぁぶつけたところで先生は答えてくれないだろう。ただ理由はどうあれ、ここに来るまでずっと不安だった。もしかしたら志賀さんが死んで以降、最初に会った頃の光希さんに逆戻りした状態になっているのではないか、と思っていたからだ。先生が何度も足を運んで、闇を払ったあの日々が繰り返されているのではないか、と。


 でも……、


「あの……、先生、いつも来てくれて本当に嬉しいです。でも私も子どもではないですから、一ヶ月もあれば、気持ちもさすがに落ち着いてきます。これ以上、ご迷惑もおかけできないので、お忙しいでしょうし、無理に来ていただかなくても……」


 やり取りをしている限り、光希さんの精神状態は安定しているように思えた。


「そうね……こうやって話していても、だいぶ元気になったのが分かるね。嬉しいよ」


 先生が光希さんの頬に手を当てながら、言った。


「これも全部、先生のおかげです」


「本人の意志がなければ、いくら私に能力があっても、どうにもならないことよ。そう言えば、彼の本は読んでる?」


 先生が目を向けたのは、積み上げられた七、八冊の書籍だった。すべてハードカバーで、作者名は、志賀恵聖、になっている。光希さんが志賀さんの本を読んでる、ということに僕は違和感を覚えた。


 妻は絶対に俺の作品は読まないし、俺も妻には絶対に読ませないんだ。確か以前、志賀さんがそんなことを言っていた覚えがあり、その理由を志賀さん本人に尋ねたことがあったからだ。


 違和感が表情に出ていたのだろう、光希さんがうすく笑みを浮かべた。


「あぁ、彼から聞いていたのね。私が彼の本を絶対に読まない、って。うん、そうね。彼が生きている間に、私が彼の本を読んだことは一度もない。彼は、自分の顔を知っているひとに自作が読まれるのをすごく嫌っていたのも知っているし、私も彼の隠れた思考を彼の作品を通して気付いてしまった時、いままでと同じように接することができるかどうか不安だったから。でも彼が死んでちょっとしてから、先生が薦めてくれてね」


「もう彼はいないんだから、気遣う必要はないでしょ?」


 先生の問い掛けは、光希さんではなく、僕に向けられていた。


 特別な用事なんてない。ただ会いに行ってすこししゃべるだけ。そう先生から聞かされていた通り、別に先生と光希さんとの会話に仕事を思わせる雰囲気はなく、金銭のやり取りがある様子もなかった。第一、もしお金が動くならば僕に何か一言あるはずだ。一応、僕はまだ助手であり、同居人だ。


 まぁもしかしたら生前の志賀さんからこっそりとお金を貰っていた、という可能性もあるが……、さすがにそれは考え過ぎだろうか。志賀さん夫妻と先生と、僕、この四人の関係は仕事がきっかけではあるが、仕事上の付き合いが終わっても関係が続いていて、僕たちの普段を考えれば、それはとてもめずらしい。先生にとっても、友人に会いに行く、というような気持ちがあったのではないだろうか。


 光希さんの住むアパートを出て、僕は車の中で先生を待っていた。車に乗る直前、忘れ物をした、と言って、光希さんの部屋に戻ってしまったのだ。意外と時間が掛かっているが、見つからないのだろうか。


「ごめん、ごめん」


 と、先生が助手席のドアを開けて、乗り込んでくる。


「光希さん、元気そうでしたね。志賀さんの心配が杞憂に終わって良かったです」


「そうかしら? 私には彼女の心の先に、漆黒の闇が見えたけれど」


「でも、昔のように憔悴しきった感じもなかったですし……」


「あなたもまだまだね。心の闇の濃度は外見だけで判断できるものではないのよ」


「すみません……」


「いまの彼女は、かつてのあなたに似ている」


「どういう意味ですか?」


「怪物、よ」


 先生はまだ、怪物に囚われているのだろうか。それとも僕が目の前にいるから、敢えてそう言っているのだろうか。

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