9. 切り裂いた昨日はもう

 静かで緩やかな音。でもしっかりと、そこで鳴っていて、胸を締めつける。そんなドアの開閉音。


 ――私以外のが来てしまうのが怖くて、心は怯えてしまう。

 

「エリカ。明かり、付けてもいい?」


 こんなことを言いたくないのに。

 だけど、ただ、思っていた。

 来ないでほしかった。

 リラ。あなたなんか来ないで。

 私は、独りきりでいないといけない人間だから。だから、何もいらない。何も欲しがってはいけない。

 それが例え、誰よりも優しくて、何よりも尊くても。私は、壊してしまうことしかできないから。


「……来ないで」


「どうしたの?嫌なことでもあった?」

 

「どうもないよ」


「どうもないなら、こんなところに隠れちゃって、耳だって塞がないよ」


「……私のこと、変だって思ったでしょ?」


「変じゃないよ。ただ気になっただけ。話くらいは、聞きたいなって」


「話しても、意味ないもん」


「なんでもいいよ。なんでも」


「……みんなが私のことを見たり、話してるのを聴くと、心臓がバクバクする」


「……えっ」


「怖いんだよ、他人の目が。『私』以外の誰かに怯える自分が。……自意識過剰なんだよ、名前も知りたくない病気にでもかかってるんだよ、私は――それでも、それでも怖いの。弱い人間は、どこまでも弱いから」


「……」


「……やっぱり、変だって思ってるでしょ?」


「……思ってないよ。でも、一つだけ、いい?」


 ここには二人しかいない。だからこそ、心は落ち着かない。


「それで、引きこもって耳を塞いで、声は聞こえなくなった?嫌な思い出は、もう見えなくなったの?」


「……うるさい!……本当は分かってるくせに。からかってるんでしょ、私のこと。……あなたに、あなたなんかに、惨めな私の、何が分かるっていうの? 」


 何でだろう?

 私はこんなこと、言いたくなんてない。

 脆くて弱い私は、何でこんなにも優しさを壊してしまうのだろう。


「……分からないよ、そんなの」


「分からないなら、黙っていてよ。ほっといてよ。一人でいさせてよ。誰にも会いたくないんだよ。話したくないんだよ。もう、それくらい分かってよ」


 「そのくらい」の程度もうっすらとしているから、私の思いはきっと強くある。そして弱く、脆くもある。


「あのね、エリカ。お姉ちゃんはね、自分のことがすごいって思ってるわけじゃないの。ただ。そういう――」


「嫌いなんだよ!そういうこと、あなたが私よりすごい人間だってこと、接してる内に分からないの? 私は、人の目すら見れないし、上手く話そうとしても、ぶっきらぼうになっちゃって、人から笑われるし。だけどあなたは誰とでも仲良くなって、誰からも好かれるし、おまけに何もかもがキラキラしてて、可愛いのが憎たらしいし」


 あれ、なんで、私。


「内心は見下してるのに、『好き』だなんて、ほんとに気持ち悪いんだよ! そういうのが、私は、嫌なんだよ。お姉ちゃんなんて、大っ嫌い!」


 違う。違う。違う。

 そんなんじゃ。

 何で、こんなに――

 ああ。私はいつも、こうだ。

 自分にはできないことを、いつも人のせいにして。八つ当たりして。そんなことをしてる自分を、また嫌いになって。

 ――私は、何もかもを壊してしまうことしかできないから、何もいらないのだ。

 そんな私に生きてる意味なんて、ないのだ。

 そのとき。


「むー!怒った!」


 彼女は、私の頬をつねった。


「いたっ!」


「……分かるわけないじゃん。あなたのことなんて。あなたが、私に対して、何を思ってるのか、なんて。だって、ずっと分からなかったんだよ。そんなの、一番そばにいる私が、一番分かってる」


 つねられた部分に跡が残っていて、痛い。けれど、痛みよりも、悲しみの方が強い。


「理解できないなら、何も言ってこないで」


「分からないから、もっと知りたいの。あなたのこと――」


 全てが、眩しかった。

 ありふれた光。私が拒んできたものの全て。だけど、その全てに、一つ一つの意味があるみたいに。


「……だって私は、あなたが好きだから」


「好き」なんて、ただ気持ち悪かった。

 ただどうしようもなく、意味を求めすぎて、逆に無意味で無価値な言葉に聴こえるから。


 だけど、今。その言葉は、涙の線が滲んだ瞼のように、心を包み込む。

 すると、今まで積み重ねた全てのものが、一瞬で崩れて、消え去っていく。


「……えっ?」


「もう一回言うね。私は好き。お姉ちゃんを嫌いだって言うあなたのこと。うんん、それだけじゃない。変えられない過去のこと、変わりゆく未来のこと、その間に挟まってる自分自身のこと。その全部を嫌いって言う、そんなエリカが、好き。あなたのことが分からないから、分かりたいの。分かりたいから、もっと知りたいの」


「……意味分からない。いきなり好きとか、もっと知りたいとか、気持ち悪い」


「気持ち悪いよね。でも、それでもいいの。だって私は、伝えたいから」


「……何を?」


「エリカって、蕾みたいだって」


 リラはゆっくりと、少しだけ笑みを浮かべて言う。


「今にも花が開きそうで、必死で頑張ってて、でも咲かないの。蕾の奥には、まだ誰にも言えない思いを秘めていて。その姿は涙が落ちるほど美しいの」


「何を言ってるの?」


「私のわがままかもしれないけど。エリカは、ただ変わりたいんだと思う」


「私には、あなたの言ってることが理解できな――」


 すると突然、リラは私のことを抱きしめた。


「……でもさ、私だってエリカの秘密、もっと知りたいんだよ。私はあなたの気持ち、放っておけないから。私はあなたの姉だから。ずっと苦しんでる気持ちも、どうしても人を嫌いきれない気持ちも、心のどこかで希望を待ってる気持ちも、全部受け止めたいから」


「………私には……そんなの、上辺だけの言葉にしか聞こえない」


「『二人いるってことは、必然的に一人じゃないってことになる。だからそれが、二人の中の普通になる』。覚えてる?これ、二人きりで過ごした朝に、あなたが言ってくれた言葉だよ」


「……覚えてない。わけ……」


 ずっと見ていたらこっちが吸い込まれてしまいそうな瞳。それを見てたら、何にも答えられなかった。


「変わりたいと思っても、人はそう簡単には変われない。だけど、変わりたくないと塞ぎ込んだ心を、変えられる。その手伝いをするためのちっぽけな勇気くらいは持ち合わせていたいから……ちょっとだけ、教えてよ。私、笑わないよ」


 降っている雨のように、ポツリと言い出す。停滞に固執した感情が、風船に針を刺したみたいに破裂した。


「生徒会の選挙、嫌い。大した公約もないのに、堂々と話してて。あんなのただの自己満足じゃん。……模試の成績で優秀な人の名前が載るのも嫌い。私だけが勉強、頑張ってないように見えるから。文化祭の準備なんてもっと嫌い。みんな忙しそうで、それでも楽しそうだから」


 生温い水粒が瞳から出て、肌に吸い付いた。

 苦し紛れに息を吐くと、喉に何か大きくて黒い異物が詰まっているみたいで、さらに苦しくなる。

 その苦しさの反動で、声の震えが段々大きくなって、発声の制御が効かない。それでも声を出して、何かを言うしかなかった。変わらなかった何かを、少しだけ変えるために。


「……私は、学校が大嫌い。みんなが、みんなが輝いて見えるから。……わたしっ、私だけ、取り残されてるように見えるから。……でも、そんなみんなを妬んで、どこかで羨ましく思って……変わりたくても何も変わらなかった自分が世界で一番嫌い」


 私は続ける。

 辛い。苦しい。怖い。なんて言えないくらい、今にも胸が張り裂けそう。


「――だから、私は、『私』が怖い」


 リラは私の頭を撫でた。


「……伝えてくれて、ありがとう。あなたの気持ち、伝わった。だからね、今なら分かるよ」


 少し微笑んでいるけど、潤みを帯びている彼女の瞳。その涙は私のせいで流れたものだから、やっぱり気持ち悪いけど、それを見ると、私はますます泣きたくなってくる。


「よしよし、エリカは偉いよ。本当によく頑張った。ずっと独りで。誰もいなくて。辛かったよね。でももう大丈夫」


 「よく頑張った」なんて、誰にでも言える。

 誰にでも言えるから、誰も私に言ってくれなかった。


「……やっぱり、笑ってるじゃん。あなたがそんな風に笑ってるから、私はもっと泣きたくなるんだよ」


「……が泣いてしまった後で、『泣かないで』なんて言ったら、その心は嘘になるから。今日は、いっぱい泣いていい。大丈夫。絶対、誰にも見させはしないから」


 きっと、彼女の言動を信じて泣きわめく私は、頭の悪くて、安っぽい人間なんだ。

 ――それでも、私は思う。

 どうして、こんなに――何も言えなくなるくらい、優しいんだろう?

 私なんて、ただのワガママなだけなのに。言ってたことは、八つ当たりと何も変わらないのに。

 彼女の緩やかな優しさの棘が喉につき刺さって、思わず嗚咽をもらしてしまう。今まで溜まっていた苦しみを吐き出すように。何度も。何度も。

 いつしか、彼女の制服は、私の涙で濡れていた。


 ❀


 お風呂に逆上せないくらい浸かって、だけどしっかりあったまって、

 ああ、なんか、スッキリした。

 気持ち悪さは残るけど、どことなく気分がいい。涙の跡を洗い流して、今はその代わりに突発的な眠気が襲っているからかもしれない。


 私は何もかもを失った。だけど、失ったからこそ、得るものも確かにあって――


 それがもし、「好き」だとしたら。


 ――リラに、どういう顔をして会えばいいのか、さぞかし分からなくなった。


「……あっ、お姉ちゃん」


「エリカ、今日は一緒に寝よ」


「……え?なんで?」


「うーん。なんとなく」


「……仕方ない、か」


 歯磨きした後、二人でリラの寝室へ向かう。

 隣の彼女の。シャンプーで洗った髪の匂い、吐息、ふわふわしたフリースのパジャマ。

 シングルベッドに二人で寝るって、なんか、やっぱり恥ずかしい。

 何考えてるんだろ、私。

 そんなことを、そんな余計なことを、何で考えてしまうのだろう?

 別に、そんなやましいことなんて、したくない。思いたくもない。

 だって、それはあまりにも失礼じゃないか。彼女の優しさを裏切るのと同義じゃないか。


「……さっきは、ごめんなさい」


「何?」


「嫌いとか気持ち悪いとか言ったの」


「……ああ、いいよ、そんなの。私もね、ごめん。いきなり頬叩いて」


「……今はね、私はいつから、素直じゃなくなったのかな、なんて考えてる」


 なんて、誰に聞いても分かるはずがない。だって、自分でも分かっていないのだから。

 何言ってるんだろ、私。

 私は、彼女に頼りすぎている。甘えすぎている。もっと、しっかりしないと。なんて。


「……エリカは素直だよ。実直だよ。ただ真っ直ぐすぎて、素直でいられる方法を一時的に見失っただけだよ」


 私はきっと、どこかで曲がりたかったのだろう。ただ当たり前に直線を進むのが怖いから、苦しいから、逃げられなかったから。逃げられないと分かっていて、それでも逃げたかったから。

 リラは、私の頬に触れる。叩かれて薄く跡の入った、色素の薄い左頬。


「ごめんね。エリカ。こんなことしちゃって。お姉ちゃん失格ね、私」


「……お姉ちゃん、ダメ、嫌。私は妹。あなたの妹。だから、私はあなたが――」


「好き」なんて、言いたくなかった。

 言ってしまうと、何かが途切れてしまいそうだから。今は、何かを壊してしまいたくなかったのだ。


「……私はあなたのこと、もっと知りたい」


「……エリカ、それ、本当?」


「……本当に、本当」


「……そう、なら……」


「ん?」


「……おいで」


「えっ」


「……ぎゅーって、しよ」


 リラは私を抱きしめる。

 家族として。姉として。或いはもっと別の存在として。


「今日は、逃がさないから」


 結局、人は逃げられないのだ。苦しさからも、寂しさからも、優しさからも、温もりからも。


「これで、ちょっぴりあったかくなるよ」


「どうかな。でも、そうなるといいね」


「……今、何時」


「……1時32分。結構遅い」


「……そうだね」


 もう一度、頬を触られる。


「……ふふっ」


「……何?」


「……いや、なんでも」


 その後、耳たぶを、小指でつつかれる。


「……ちょっと、そこは、やめっ」


「……可愛い。やっぱり、お姉ちゃんは、これが好き」


「……もう」


「……ねえ、エリカ。一つだけ、いい?」


「何?」


「約束して。いつでも、何回でも、私を頼っていいからさ、自分を嫌うのはさ、やめにしようよ」


「……無理だよ。そんなの。いきなり自分を好きでいられるなんて。できるわけない」


「……そう、なら……お姉ちゃんが傍にいてあげるよ。そうしたら、孤独だって、自分だって、少しでも誤魔化せるでしょ」


 彼女は私の口元で囁く。

 そうだ。私は私が嫌い。

 だけど。だけどね――


「……変なこと、言ってもいい?」


「何?」


 切り裂いた昨日はもう、どこにも見えなくなった。だから、もう言葉なんて、私たちにはいらない。


「……これから、もっと、あなたのこと、『お姉ちゃん』って――そう呼んでもいい?」


 それでも、どうしても言葉に頼ってしまうのは、不器用すぎて、何かを伝えようとしても、何も伝えた気にならないから。


「ふふっ、いいよ。いつだって。素直でいられるなら、私はあなたの――」


 彼女の胸に顔をうずくめる。

 大きくないと言えば嘘だが、すごい大きいという訳ではない。だけどしっかり、温かい。パジャマを通り越して感じられる彼女の体温、匂い、感触、心音。


「……ふふっ、くすぐったい」


「……あっ、ごめん。……嫌、だった?」


「……だーめ。顔、離さないで」


「……えっ」


「もっと、やって」


「……うっ」


「……ほら、こっち。おいで」


「……うん、分かった」


 もう一回、顔をうずめる。


「……うっ、うぅ〜」


「ふふっ。よしよし。いい子」


 頭を撫でられて、優しく軽くあやされている。もう高校生にもなるのに――自分で言いたくないけど、めちゃくちゃ恥ずかしい。

 しかも、今気づいたけど、リラと私は一歳差なのだ。

 一つしか歳が離れていないのに「お姉ちゃん」呼び。そんなことを考えると、余計に恥ずかしくて死にそうになる。


「ここ、あったかい?」


「うん……あと、匂いが、好き」


「ふふっ。そうなんだ。私の匂い、好きなんだぁ。目、とろーんってしてるよ」


 でも、リラは、私の羞恥心を手玉に取る。

 彼女は、私を甘やかして、とろとろに溶かして、さらに良からぬ方向へ連れていく。


「そう……かも」


「ふふっ、偉い子ね、エリカは」


「偉い子」。何を持って偉いのか分からない。だけどその四文字が、脳内で何度も繰り返してリフレインする。身体が、声が、吐息が震える。だけど、お姉ちゃんが肌を触れてくれる度に、その緊迫は収まる。


「エリカ、おやすみ」


 ずっとこの温もりに、この優しさに、ずっと溺れていたい。寂しい時は、誰かの傍にいたい。

 それが本心。私の本心はなんてことない諦観で、意地を張り続けた自分へのけじめだった。

 そして、その諦めが見えた途端、私はぐっすりと眠りについた。


 ❀


 青空が広がっていた。パレットに広げたようなパステルカラーの水色で、私とは不釣り合いな青空が広がっていた。

 朝の匂いはどこか、出逢ったころを思い出してしまう。わくわくして、でもどこか寂しくて、そんなのがとめどない優しさで包まれているような。

こころの中で途切れていた記憶を、もう一度繋げていく。ここに来て初めて入ったお風呂と、その日に食べたシチューの味。今になってそんなことを思うのは、昨日の言葉の温もりをまだ覚えているから。

 昨日のことが忘れられない。何もかもがありふれているのに、青空はいつもとはどこか違っている――ただ、綺麗だと思った。


 リラは、私が身体をベッドから起こした数分後に、あくびをしながら身体をおこす。

 そしてパッチリと目を開けると、こんなことを言い出した。


「ねえ、今日学校サボって、デート行こっか?」


「……は?」


 私は一体、どんな反応をすればいいんだろう?

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