第29話

「なあ、キリア」


 キリアはひくっ、と喉を鳴らす。少し怖がっているようにも見えた。

 俺は声音を優しいものに、穏やかなものにと切り替えていく。娘の死後、こんな口調で他人と話せるとは思いもしなかったが。


「たった今気づいた、ってのも情けねぇ話だが……。俺の右胸の傷、治癒してくれたのはお前なんだろう、キリア?」


 キリアは微かに頷く。この場で魔術を使えるのはキリアとリンエルのコンビだけだから、当然と言えば当然なのだが。

 僅かに軋む右胸。俺はキリアの手を取って、乾いた血に染まったプロテクターの上から、その傷口に押し当てた。


「お前が治してくれたんだ。お前は俺の命の恩人なんだよ」

「……でも、僕は何人も、何十人も殺してきたんだ。許されるわけないじゃないか……」

「確かに、許されることじゃないかもしれねぇ。だからこそ、お前には他人を助けていく義務がある。『シャドウ』から人々を救いながら、『魂』を現界にいさせてやるんだ」


 キリアははっとして顔を上げ、俺と目を合わせた。


「そんな! 僕は『シャドウ』に家族を奪われて、ずっと復讐を誓ってきたんだ! そんな僕が『シャドウ』までをも救う、って……」

「じゃあ訊くけどよ、それは『今まで』の話だろう? 『これから』とは違う。実際、お前はワープポインターに情けをかけて、救ってやろうとしたじゃねぇか。まあ、あいつに身体を乗っ取られてる間にいろいろ見聞きしただろうから、感情移入しちまった、ってこともあるだろうが……」

「うん……」

「でも、『シャドウ』でも何でも救ってやりたいと思ったのは、お前自身の意志だ。お前が成長したってことなんだよ、キリア。その事実を踏みにじる権利は、この世の誰にも与えられちゃいねぇんだ」


 俺は少し顔を上げ、さらさらと砂状になって風化していくレニードの遺骸を見つめた。


「お前が最後に憎み、最後に仕留めたのは、レニードだ。これからは、誰のことも憎む必要はないし、殺す義務もない」

「おいおいおっさん、さっきから聞いてりゃ、随分泣かせてくれるじゃんか」


 横暴な口調で割って入ったのは、予想通りデッドだった。


「けどな? そんな綺麗事だけで世界が回ってるわけじゃねえ。そこは分ってんだろうな?」

「もちろんだ。でなけりゃ誰が家族を失ってまで、見ず知らずの子供を助けるっていうんだ?」

「そいつはラーヌス先生の教えとは違う!」


 ハスキーボイスで怒鳴るデッド。


「あたいやキリアは、復讐心を以てして今まで生きてきたんだ。これからも、この先ずっと。そんな俺たちの生き甲斐を奪うような真似、勝手にするな! それも、知り合って数日だってのに! あんたみてえな部外者に話をされてちゃあ、堪ったもんじゃねえ!」


 ぺっ、と唾を地面に吐き捨てる。

 しかし、俺は退かなかった。


「俺はキリアと話してる。割り込みはなしで頼む。それにな、デッド。俺はお前が、性根はいい奴だと思ってるんだ。何も、キリアに同調しろとは言わねぇ。ただ、キリアに与えられた選択肢を削るな」


 ただ、それだけが言いたかったんだ。最後は目だけでそう言って、俺は再びしゃがみ込んだ。キリアの背中に手を当てて、軽く摩ってやる。


「あ、ちょっと!」


 キリアが声を上げた――のではない、リンエルが出てきたのだ。振り返ったリンエルは、いつも通りぷかぷか浮かびながら、しかし憂慮の滲んだ顔つきで、俺と視線を合わせた。


「天界はもういっぱいいっぱいなんだ。先生もいなくなっちゃったし、『シャドウ』を打ち消す方法なんて――」

「打ち消す必要はねぇよ。現界にも、死人の『魂』の居場所を作ってやるんだ」

「えっ、は、はあ⁉ 何言ってんのさ、ドン! それを防ぐために、僕たちはワープポインターやレニードを倒して――」


 そこまで言って、リンエルは口ごもった。それはそうだ。今まで彼女たち精霊も、『シャドウ』を倒すべく人間と共闘関係にあったのだから。

 だが、俺は『シャドウ』を助けるとは言っていない。飽くまで救うのは『魂』だ――一人の人間の魂から、『シャドウ』になりそうな部分を切除することによって。


 俺がそう告げると、


「付き合ってらんねえぜ!」


 と匙を投げられた。この言葉はデッドのものだが、それと同じくらい、リンエルもまた、否定の意思表示をしていた。ぎろり、と俺を睨みつけている。

 やはり、俺の考えは楽観に過ぎたのだろうか。俺よりも遥かに長い間、戦いを経てきたデッドやリンエルがそう言うのであれば。


 しかし、その時だった。俺の足元で声がした。


「賛成……」


 俺は慌てて飛び退いた。キリアが膝を着き、ゆっくりと立ち上がるところだった。


「僕はマスターの意見に賛成するよ」

「おいおい、寝ぼけたこと言うもんじゃねえぞ、キリア? 寝言は寝てる間に――」

「僕は本気だ」


 そう口にした瞬間、キリアの周囲に風が巻き起こった。デッドのみならず、リンエルまでもが驚いている。つまり、キリアに魔力を供給していたリンエルの力で起こった風ではない。

 これはきっと、キリアの意志の表れだ。


 振り返ると、デッドの顔から揶揄するような気配がするり、と抜け落ちるところだった。

 代わりに現れたのは、憤怒の表情だ。


「キリア、お前……。一人で世界を救うつもりか? 『シャドウ』共を改心させて、現界に住まわせる、だって? 馬鹿言うなよ。そんなことをしたら『シャドウ』だけじゃなくて、連中を憎んでる人間までも敵に回すことになる」

「分かってる。うずくまってる間に、皆の意見は聞いたから」

「だったら!」

「だからこそ、だろう? キリア」


 俺が割り込むと、キリアは大きく首肯した。

 次に口を開いたのはリンエルだ。


「でもやっぱり一人じゃ無理だよ、キリア。あたしの力をフル活用しても、毎日毎日、何度も戦闘に耐え得るかどうか、保証はできない」

「だからだよ、リンエル。僕は一人で世界を敵に回すつもりはない」


 そう言うと、キリアは軽く拳を握りしめ、こちらを見もせずに軽く殴りつけた。ちょうど俺の、左胸のところにだ。


「マスター、僕と一緒に戦ってくれないかい?」

「お、おう! あたぼうよ!」


 つっかえながらの返事になってしまったが、俺の心は決まっていた。

 そもそも、娘が死んだ時点で、俺の人生の半分は終わっているのだ。しかし、このキリアという少女の存在は、その隙間を埋めてくれるかもしれない。


 ここまで話が進んだのであれば、あとは有識者に意見を請うしかない。


「皆、今日はここで休んで、明日にでもまた『精霊の里』に戻ろう。長老たちから意見を募るんだ」


 渋々了承し、デッドは狩りに出かけた。まだ晩飯の材料が揃っていない。


「ふう……」


 この話し合いは、予想以上に俺の体力を奪っていたらしい。


「キリア、デッドが帰ってきたら起こしてくれ」

「……」

「キリア?」

「あ、あの。お願いがあるんだけど」


 たまに見せるつぶらな瞳で、キリアは俺を見つめてきた。こんな目をされると、俺は従わざるを得なくなってしまう。娘に似ているからだろうか。


「子守歌、歌ってくれないかな」

「へ?」


 普通なら、子守歌などとっくに卒業しているだろう。だが、今の俺もまた、心を通わせうる誰かの存在を心底求めていた。


「音痴で悪いが、それでもいいか?」

「うん。マスターの選曲なら」

「分かった」


 こうして、激闘を経た一日は、穏やかに幕を下ろした。

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