1月 ラフロイグのような人

 いつものように扉を開けると、いつもの顔がある。

 ここはこのあたりじゃ老舗としてちょっとは名の知れた『琥珀亭』というバーだ。


「あけましておめでとうございます」


 店に入った私に、そう言って朗らかな笑みを浮かべたのは、尊と真輝という二人のバーテンダーたちだった。


「あけましておめでとう。今年もよろしく頼むよ」


 なんだか無性にほっとしながら、お決まりの席に向かう。そう、この店のカウンターの一番奥が私の指定席だ。彼らもそれを承知してくれているようで、尊は私が座る前からコースターをそこに置いてくれた。


 今日は一月二日。さすがの琥珀亭も元旦は休みだったが、こうして二日から店を開けている。


「お凛さん、正月から飲み歩いていいんですか?」


 尊は私のことを『お凛さん』と呼ぶ。本当は凛々子という名前だが、そう呼んだのは亡くなった琥珀亭の先代オーナーと、その妻だけだ。


「いいんだよ。元日は息子夫婦と孫と過ごしたからね。日常生活に戻るのは早いほうがいい。それに、私にはお屠蘇よりバーボンのほうがやっぱりしっくりくるよ」


 目の前に置かれたキープボトルにウキウキしていると、尊は人なつっこい笑顔を浮かべた。


「俺、ここに来て三年になりますけど、お凛さんは本当に変わりませんね」


「尊がこの店に来てもうそんなになるかね」


「早いものですね」


 隣で、この琥珀亭のオーナーである真輝が微笑んでいる。

 先代の孫にあたる真輝が一人でこの店を切り盛りしていた三年前に、尊がひょんなことで雇われ、いつしか二人は惹かれ合っていったらしい。

 彼らが結婚したのは去年のことだが、『新婚さん』って感じがしないのは真輝が初婚ではないせいだろうか?

 いや、違う。尊がまるで春の日だまりのような穏やかさを醸し出すのは独身時代から変わらないし、真輝もそれに通じるものがある。きっと、よほどしっくり馴染んでいるんだろうね。浮き足だった感じがしないのは、そのせいだ。


 そんなことを考えながら、あたたかいおしぼりで手を湿らせる。

 雪の積もった飲み屋街を十分ほど歩いてきただけで、すっかり指先がかじかんでいる。おしぼりの熱が痺れるように伝わってありがたかった。

 雪国の夜というのは、恐ろしいほど静かだ。今日みたいにちらほらと小さな雪が舞い降りる、風の弱い夜はなおさらね。そのせいか、今夜は店に流れるジャズがやたら大きく聴こえた。

 目の前では真輝が氷を入れたロックグラスにウイスキーを注いでいた。アルコールの波紋がグラスに広がる瞬間は、何度見ても美しい。


「お凛さんのためにとっておきのものを用意しておいたんです」


 尊はそう得意げにお通しを出してくれた。いつもは幾つかの料理を盛り付けたプレートを差し出すのだが、彼の言う『とっておき』は漆の器に乗せた上生菓子だった。

 バーで上生菓子というのも変な話だが、大の和菓子好きな私のために、特別に用意してくれている趣向だ。


「まぁ、今回も見事だね」


 出されたのは地元の老舗『雨森堂』の季節の上生菓子だった。月に一度、新作が出るのだが、それを甘党の尊が必ず買ってきておすそわけしてくれるというわけだ。

 上生菓子でバーボンを飲むなんて……と眉をひそめる人もいる。私は基本的に肴なんていらないんだが、月に一度の上生菓子だけは好きなんだ。

 季節をぎゅっと閉じ込めた上生菓子をね、琥珀亭で見るのがいいんだよ。

 いつもの店、いつもの席、いつもの煙草、いつもの酒にいつものバーテンダー。つい、琥珀亭にいるとすべてがいつまでも何も変わらないような錯覚に陥ってしまう。

 けれど、ずっと同じじゃない。同じように見えて、気づかぬうちに少しずつ何かが流れている。だから、今このときは二度と戻らぬ時間なんだと愛おしくなる。それを忘れないように、この店で季節の小さな塊を見つめるのさ。

 まぁ、本当はそれだけじゃない。尊が上生菓子を出すときは、たいてい私の嫌いな料理がお通しなんだよ。もっとも彼は口にしないし、私も気づかぬふりをしている。彼なりのせっかくの気遣いだからね。


「今日は干支と……松竹梅の竹を」


 尊は私の手元にある二つの上生菓子に視線を送る。今年の干支を模したものと、若竹の上生菓子が並んでいた。若竹の柔らかな黄緑色が鮮やかだ。

 松竹梅や鶴、亀なんかは新年の上生菓子の定番だ。去年は確か干支と鶴の組み合わせだったが、今年は竹を選んでくれたらしい。


「実にいいね。さすがは雨森堂だ」


「松竹梅そろえて買ったんですよ。俺の苗字が松中なんで、松は俺がいただきました。梅は真輝が。そして竹はお凛さんに」


「なんで私は竹なんだい?」


「だって、お凛さんは竹を割ったような性格ですからね」


「はは、梅にしては花の盛りは過ぎたからって理由かと思ったよ」


 こんなことが冗談になるほど、私も歳をとった。孫もとうに成人式を済ませているんだからね。


「お凛さんは充分華々しいですよ。俺、バーボンと煙草とジーンズがこんなに似合う人、他に知らないです」


 尊は大きな口を開けて笑い飛ばしている。いつ来ても、ここで交わす会話は心地よい。

 それにしても、松竹梅の縁起物をわけあってくれるなんて、ちょっとくすぐったい嬉しさがある。

 そっとグラスに手を伸ばし、今年初めてのウイスキーを口に含んだ。いつものメーカーズマークが喉を滑り落ち、香りが鼻腔に突き抜ける。もう何十年とこのバーボンをキープボトルにしているが、いつまでたっても飽きのこない味だ。

 あぁ、なんて幸せなんだ。まるで喉を鳴らす猫のように満足げに眼を細めたときだった。呼び鈴が『カラン』と乾いた音をたてた。


「いらっしゃいませ」


 尊と真輝が出迎えた先には、一組の男女がいた。二人とも若く、二十代後半に見えた。


「いらっしゃいませ。どうぞ、空いているお席へ」


 真輝がそう促し、脱いだコートとマフラーを受け取った。彼らはカウンターの中央に並んで座る。私に近い方に女が、向こう側に男が腰を下ろした。

 男は知らない顔だが、女のほうには見覚えがあった。何度か他の男と来ていた気がするが、そんな気がする程度で何を飲んでいたかまでは記憶になかった。


「素敵なお店ですね」


 そう言いながら店内を見回す男はいたって真面目そうだった。清潔感のある短い髪に、人のよさそうな柔らかい目つきが好印象を与える。


「そうでしょう?」


 まるで自分の家を褒められたように嬉しがる女は、慣れた様子で尊からにこやかにおしぼりを受け取っていた。

 美人というよりは可愛らしい顔つきだが、しゃんと背筋を伸ばして座り、足を組む。その姿はどこか気が強そうにも見える。


「何になさいますか?」


 尊が男のほうに訊くと、彼は途端に弱り切って女に視線を送った。


「えっと……すみません、カクテルってよくわからなくて」


 男のほうはあまりバーに来たことがないらしい。さりげなく、真輝が助け舟を出した。


「お好みでお作りしますよ。甘いのがいいとか、強いのがいいとか、この果物を使ってとか、なんでも仰っていただければ」


「果物、いいですね」


 パッと顔を明るくさせた男に、尊が微笑む。


「今日は新鮮なグレープフルーツがありますよ。それで何かお作りしましょうか」


「あ、じゃあお願いします。金井さんは?」


 『金井さん』と呼ばれた女は即座にこう注文した。


「ラフロイグをロックで」


 さらに、ちらりとボトルの棚に目を走らせ、「18年で」と付け加える。男とは対照的に慣れたもんだ。

 それにしても、迷うことなく『ラフロイグ』とはいい趣味をしているじゃないか。私は「ふぅん」と心の中で唸った。


 ラフロイグは私が知る中で最もとっつきにくいウイスキーかもしれない。

 スコットランド沖のアイラ島で造られるウイスキーで、非常に強烈な個性を持っている。力強い泥炭(ピート)の香りがし、大抵の人は「正露丸の匂い」とか「病院の匂い」と評する。好き嫌いのはっきり別れる酒だろう。

 『ラフロイグ』と一口に言っても、10年、18年、クオーターカスクなど数種類ある。私は『ラフロイグ10年カスクストレングス』が気に入っていたんだが、残念ながら終売になってしまった。

 さっき、金井さんという女性が棚に目を走らせたのも、そこにあるラフロイグの種類を確かめたからだろう。

 彼女が選んだ18年は冷却濾過をしない製法で造られていて、原酒の香りや味わいがそのまま残っているといわれている。この酒をロックで楽しんでいると、いつの間にか白く濁っていることがあるんだが、それはこの製法のせいだ。もっとも、私はそこが好きなんだが。

 ラフロイグは英国王室御用達でもある。チャールズ皇太子はこの酒がお気に入りらしい。

 スコッチ好きならここに行き着くような気もする存在感のあるウイスキー。それがラフロイグだ。


 尊がラフロイグをグラスに注いでいる横で、真輝が素早くグレープフルーツを絞り、スプモーニというカクテルを作って男に差し出した。

 酒が出揃うと、男はグラスを見つめ、「綺麗だなぁ」と惚れ惚れしている。女のほうからグラスを寄せて乾杯をした。


「いやぁ、美味しいですねぇ」


 一口飲んだ男が嬉々とした声を上げる。

 彼は明らかに落ち着きがなかった。初めてここに来た緊張もあるだろうが、その頬が赤く染まっているところを見ると、傍らの女に惚れ込んでいるらしかった。

 女のほうはというと、ラフロイグを少し含んでぎこちなく微笑む。


「えぇ、とても」


 見た所、女はそれほど浮かれてもいない。男の体が女のほうに傾いているのに、彼女は真正面を向いたままだ。

 うぅん、こりゃ望みは薄いかねぇ。私はなんとなく男が不憫になってきた。


「金井さんが会ってくれて嬉しいです」


 照れくさそうに男は言う。


「まさか、一緒に飲みに出てくれると思わなかったから」


 女は苦笑しながら、グラスについた口紅を指でこすっている。


「私こそ、まさか櫻井さんが新年早々、来てくれるとは思ってませんでした」


「はは。独り者ですしね、実家にいるのも一日で飽きちゃいますから、ちょうど良かったですよ」


「……すみません、お正月から」


「いいえ、そりゃあ『今夜飲みませんか』ってメールをもらったときはびっくりしたけど。いつでもいいから飲みに誘ってくださいって言っていたのはこちらですから、あの、気にしないでください」


 だからって、正月の二日から飲みに誘う女も女だし、ほいほい出てくる男も男だ。……あぁ、いや、人のことはとやかく言えないか、私も。


 私が干支の上生菓子を食べ終わる頃には、耳に飛び込んでくる会話の内容からいろんなことがわかってきた。

 彼らは部署が違うものの、同じ会社に勤めているらしい。忘年会の席で共通の友人から紹介されたらしく、あまり外で飲まない彼がお酒好きの彼女に「今度、バーに連れて行ってくださいよ」と誘ったようだ。

 これだけ浮かれているなら、そのときの言葉は社交辞令ではなく下心がこもっていたのも女にはお見通しだったと思うんだが、自分から誘いに乗った割には会話がいまいち膨らまない。

 『こっちの部署はこうです』とか『そっちの主任はこうですよね』とか会社の話題ばかりだ。挙句、最近は空調が暑いとかどうでもいい話まで出てきた。なんだか、妙にもどかしくなってきた。

 まるで沈黙を避けるように、男は次から次へといろんな話題を振る。もしかしたら、あらかじめ『何を話そうか』なんて考えていたのかもしれないね。

 だが、やがて話の種も尽きてきて会話も途切れ途切れになってきた。そんなとき、質問されてばかりだった女が思いついたように口を開いた。


「そういえば、お宅の部署の広瀬部長は面倒見がいいそうですね」


「えぇ、みんなに慕われてますよ」


「……忙しいんでしょうね、部長ともなると」


「あぁ、残業もありますけど、部長は年末に娘さんが産まれたんで、どちらかというと仕事より育児に忙しいんじゃないですかね」


「へぇ……そうなんですか」


 彼女は目を伏せて、ラフロイグを軽く揺らした。何が気に入らないやら、どうもデートというには憂鬱そうだね。

 男がちょっとどもりながら訊いた。


「あの、ところで、金井さんはどんな人がタイプですか?」


 思わず右の眉をつり上げてしまった。こいつはまるで学生みたいなストレートさだ。

 女は少し考えたあとで、こんな答えを告げた。


「ラフロイグのような人です」


 あぁ、そうか。思い出した。

 その答えを聞いた途端、私の脳裏に一つの記憶が甦った。彼女はあのときに風変わりな質問をされた女じゃないか。


 あれは夏の終わりだったかねぇ。北風にうっすらと秋の匂いが漂い始めた頃だ。あの夜は人通りも少なく、琥珀亭にもほとんど客がいなかった。

 私はもちろん、琥珀亭にいた。クリスマス演奏会の演目を思案しながら一杯やってたんだ。これでもバイオリン教室の主宰者なんでね。


「夏が終わったばかりで、もうクリスマスのことを考えなきゃならないなんて大変ですね。ただでさえ寒くなってきたっていうのに、気分がもっと寒くなりそう」


 尊が変な同情をしてくれたのを覚えている。

 そうだ、そして私が「同情するなら一杯ご馳走しておくれ」と笑ったときだ。

 そこへ、一組の男女が入ってきた。男は背が高く、スーツ姿が板についていた。年齢は40代前半だろうか、やたらと物腰の柔らかい物言いだった。じっと目を見て話すのが癖のようで、これは女に気を持たせてしまうタイプだねと私は勝手に決めつけたんだ。

 実際、彼は色男だった。顔もいいし、ネクタイの趣味も悪くない。おまけに会話にウィットがあった。

 そのとき同席していた女が、このラフロイグを飲んでいる金井さんだった。

 二人はぴったり寄り添い、親しげだった。なんとなく、ちょっとつりあわない気がしたけれどね。この男の相手としては少し幼い気がしたんだ。まぁ、蓼食う虫も好き好きだと私はさして気にもしなかったっけ。……あの質問を聞くまでは。


 不意に男が彼女にこう問いかけたんだ。


「君はどんな酒が好き?」


 そのとき、彼女は手にしていたラフロイグのグラスを持ち上げて、笑みを浮かべながら即答した。


「ラフロイグよ」


「どうして? その酒は匂いもアルコールも強いのに」


 男は意味ありげににやりと口の端をつり上げる。


「だからよ。だって独特でクセになるし、ちょっと手こずるくらいのほうが面白いわ」


 私は興味をひかれた。なかなか味のある答えじゃないか。

 すると、何を思ったか男が愉快そうに笑い出した。


「ねぇ、なんで笑うの?」


 女も一緒に笑いながら、男の腕に手を添えた。その仕草は、いかにも恋をする女のものだったね。彼は白い指に自分の手を重ねて軽く握る。


「いやね、君は俺をそういう風に見てるんだと思って」


「えっ?」


「あのね、『どんな酒を好きか』っていうのは、『どんな異性を好きか』って質問と答えが同じなんだよ。少なくとも、俺の経験ではね」


 私はにやりとした。はは、これは面白いことを言うもんだ。

 女が驚いたようにグラスを見つめる。やがて男に視線を移し、納得したように微笑んだ。


「そうね。本当にそう思うわ」


 彼女は決して美人とは言えないが、そのときの顔は確かに美しかった。愛に満ちて、輝いていたとでも言おうか。

 それを見た私は、思案の内容を演奏会の演目から彼らにすり替えていた。男のほうが一枚上手といった感じだ。女が無邪気に彼を愛しているのを、男は嬉しがり、そして誇らしく思っている様子だった。

 二人は会計を終えると、尊たちに愛想よく「また来ます」と声をかけて扉の向こうに消えていった。

 だが、それ以来ラフロイグのような男はこの店に来ていない。そして今夜、女は違う男を連れてきた。きっと、あの二人は終わったんだろうが、女の心にはラフロイグの強烈な匂いが染みついて消えないままなんだろうね。


 櫻井さんと呼ばれたスプモーニの男は、女の答えに戸惑いを隠せないようだった。


「ラフロイグのような人ですか?」


 小さく唸りながら、彼女のグラスを不思議そうに見つめている。


「金井さんは面白いことを言うんですね」


 そうは言ったが、まるで意味がわからないという顔をしていた。

 まぁ、そうだろうね。私は彼に少し同情した。

 それを聞いた女の笑みは少し寂しそうだった。いや、物足りない顔といったほうが近いかもしれない。


 彼らの会話は世間話の域を出ないままだ。一番盛り上がったのは、お通しのバーニャカウダが出されたときか。「すごい、綺麗」とか「美味しいです」とか言い合っていたが、すぐに沈黙が二人を隔てた。ちなみに、私はアンチョビが苦手でね。バーニャカウダを横目で見ながら上生菓子でよかったとしみじみ思ったよ。

 男は懸命に次の会話を探し続け、女は黙って髪を耳にかける仕草を繰り返している。

 そうそう、時折、女はこっそりバッグの中の携帯電話を盗み見ていた。きっと、あの男からの連絡を待っているんだろう。

 だが、その期待は淡いまま消えていくばかりらしかった。彼らが店を出る直前に、もう一度バッグをのぞき込んだ彼女の顔がそう言っていた。


 思えば、あのラフロイグの男とは道ならぬ恋だったのかもしれない。男の落ち着きは家庭をもっているからかもしれないし、年齢的にはそうだとしても違和感がない。

 第一、家庭のある男は大抵、一月二日なんてそうそう飲みに出られないものさ。あの趣味のいいネクタイも、奥さんが選んでいたのかもしれないね。

 櫻井さんと金井さんの二人が出て行った後、私はすっかり空になったグラスにメーカーズマークを足してもらった。

 若竹の上生菓子を、いつものバーボンで流し込む。

 あぁ、今夜の酒はなんだか辛いね。うまくいかないもんだ。演奏会の演目のように、男も女もすんなりいかない。


 この日以来、二人とも琥珀亭に姿を見せることはなかった。

 七草粥を食べる頃には私はすぐに彼らのことを忘れてしまっていた。

 ところが、二週間程した頃だ。あの金井さんという女が琥珀亭の扉を開けて入ってきた。だが、今度は独りだ。

 尊はおしぼりを渡すと、にこやかに「ラフロイグにします?」と訊いた。彼女は尊がオーダーを覚えていたことに目を見開いて嬉しそうにしたが、すぐに首を横に振る。


「いいえ。今日は……スプモーニを」


 尊は笑顔のまま「かしこまりました」と答え、グレープフルーツを取り出した。

 だが、あいつの右眉がちょっとだけ上がったのを私は見逃さなかった。おやおや、あいつも「意外だな」と感じたようだ。


 スプモーニはあの夜、櫻井さんが飲んでいたカクテルだ。カンパリというリキュールをベースにしていて、グレープフルーツをたっぷり使う。軽くて飲みやすい、爽やかな甘さの飲み物でラフロイグとはまるで正反対。

 それで、尊は意外だと思ったんだろう。尊がバーテンダーになって三年。なんでも顔に出てしまう癖は少しはマシになってきたが、私から見ればまだまだだね。


 すっと差し出されたタンブラーを目で追い、私は思わず目を細めた。

 何かあったんだろうね。

 咄嗟に、櫻井さんの人のよさそうな顔が思い出された。真面目そうで、あまり女性と接したことがない様子だった。ぎこちなくて、もどかしくて、でもとても健気で。必死に慣れない酒を飲んでいた姿を思い出し、私は切なくなった。


 スプモーニを飲み、金井さんはなにやらずっと思案していたようだった。お通しのカナッペにも手をつけず、ただただ黙って飲んでいた。

 尊は話しかけるべきではないと判断したらしく、そ知らぬ顔でグラスを磨いている。

 そのうち、彼女のバッグの中でバイブの音がした。弾かれるように携帯電話を取り出した彼女が、目を細める。

 やがて、ゆっくりと電話を操作し始めた。あのラフロイグのような男だろうか。それとも、スプモーニの男だろうか。バーボンを口に含みながら、ぼんやりそんなことを考えた。

 ふと、彼女の口許が弛んだのを私は見逃さなかった。それは一瞬のことで、今度はキュッと結ばれる。こみ上げる笑みを押さえるためなのか、それとも覚悟を決めた仕草だったのかはわからないけれど、その唇に強い意志が見える気がした。

 彼女はしばらく携帯電話に文字を打ち込んでいた。だいぶ時間がかかったのは、言葉を選んでいるか、慎重に読み返していたからかもしれない。

 やがて返信を終えたらしく、彼女は携帯電話をバッグにしまった。

 またカウンターのスプモーニに向き直った目は、穏やかな光を宿していた。そして、尊にこう言ったんだ。


「マスター、今からもう一人来ますから」


「かしこまりました」


「グレープフルーツ、まだあります?」


 尊が微笑んだ。


「もちろんですよ」


 尊と真輝も察したらしい。彼らは目配せをして微笑んだ。

 私はメーカーズマークを飲み、頬杖をつく。もう少しであの真面目そうな男が頬を染めてやって来るだろう。

 ラフロイグの鮮烈な匂いが好きな彼女が、スプモーニで満足できるのかは疑わしいように思えた。だが、そんなことは二人にしかわからないことだ。スプモーニのほろ苦い甘さに幸せを見出すかもしれないし、彼女は思い入れで好きな酒がコロコロ変わるタイプかもしれないしね。

 ただ言えることは、あのスプモーニの男の誠実さにでも女はほだされたんだ。それはそれでいいじゃないか。来年の正月にたとえあの二人が琥珀亭に来なくても、もしかしたら家で一緒にお屠蘇を楽しんでいるのかもしれないよ。


 私はにやりとしながら煙草を取り出した。ハイライトの辛さがいつも以上に美味く感じる。紫煙を吐き出すと、メーカーズマークを口に流し込んだ。

 誰かと誰かの始まりに立ち会えるのは幸せなことさ。あぁ、今夜は煙草も酒もやたら美味いね。ちょっとほろ苦いけどさ。だが、それも悪くない。

 ……そう、悪くないさ。

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