2月 雪国のオリビア

 北海道の二月は相変わらず雪深く、まだまだ水道の凍結に注意しなきゃいけない時期だ。なにせ千歳市では『支笏湖氷濤まつり』が行われるし、札幌市では『さっぽろ雪まつり』が開催されている頃だからね。

 凍てつく夜に心まで冷え込みそうだ。だが、そんな真冬にもかかわらず、今夜の琥珀亭には一輪の可憐な花があった。


「おやおや、これはまた綺麗だね」


 雨森堂の二月の上生菓子『寒牡丹』を前にし、私は目を細めた。

 淡いピンクに白いぼかしという色合いがなんとも愛らしく、中央にある黄色いシベが映えている。寒さを耐えて咲く牡丹は、私の心にあたたかみをくれた。


「水仙もあったんですけれどね、それは俺がいただきました」


 そう言う尊も結構な甘党なんだ。和菓子だけの私とは違って、こいつは洋菓子も大好きだからね。いつだったか、一緒にケーキバイキングに行った真輝が青い顔をして「当分、ケーキは見たくない」とぼやいていたことがあったね。

 そんな尊にとって二月のバレンタインデーはなんとも心躍るイベントらしい。というのも、あの時期になると普段より店頭のチョコレートの品揃えがよくなるから、たとえ誰にももらえなかったとしても嬉しいんだそうだ。


「尊、あんた、いつも先に食べちゃうけど、たまには選ばせておくれよ」


「バレンタインに雨森堂の羊羹詰め合わせをくれるならいいですよ」


「チョコレートじゃなくて羊羹?」


「チョコレートは嫁からもらうので間に合ってます」


 尊がおどけているのか本気で惚気ているのかわからない返事をしていると、呼び鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ」


 おや、久しぶりだ。

 店に入ってきた顔を見て、私は嬉しくなった。長年バーに通ううちに、常連同士で親しくなることもあるものだ。現れた高梨もそういった常連の一人だった。


「高梨さん、お元気そうですね」


 おしぼりを差し出す尊が言うように、彼は相変わらず血色のいい艶のある頬をしていた。高梨ははにかみながら、私の隣に腰を下ろした。


「どうも、お久しぶりです。ちょっと本社のほうに呼ばれてたもんで山形に行ってたんですよ」


 『久しぶり』という言葉通り、彼と最後に会ったのは去年の秋だったはずだ。


「よう、元気そうで良かったよ」


 私のかけ声に、彼はおしぼりで手を拭きながら「お凛さんもね」と肩をすくめる。彼は山形出身のはずだが、その言葉には訛りはない。


「それにしても、お凛さんはいつ見てもお凛さんですね」


 何を言っているんだ。当たり前じゃないか。そう半ば呆れて笑う私に、彼も高らかに笑う。

 実に愛想のいい青年なんだ。歳は三十を過ぎた頃だったかね。


「そうそう、去年いただいたアレ、美味しかったですよ。ありがとうございました」


 尊がそう言って頭を下げる。私も去年の秋におすそわけしてもらった物を思い出して、高梨に礼を言った。


「本当はもっと早く礼を言いたかったのに、お前ときたら顔を出さないんだからね。お前が言う通り、歯ごたえがよかったねぇ。からし醤油にぴったりだったよ。えっと、何ていったかな、変わった名前のやつ」


「はは、『もってのほか』でしょ?」


 高梨がおしぼりを畳みながら笑う。心なしか得意げな顔で。

 『もってのほか』とは山形名物の食用菊のことだ。去年の秋、高梨が「山形の従兄弟が送ってきたから」と私たちに差し入れしてくれたのだ。

 淡い紫の花びらをむしって、酢を入れたお湯でさっと茹でる。それにからし醤油をつけて食べたんだが、キュキュッと鳴る歯ごたえと独特の風味がいい。秋の風物詩らしいがね、こっちじゃ珍しい。


「久々の故郷はどうだった?」


 顔をほころばせるかと思ったが、高梨は「まぁ、ね」と言葉を濁らせる。


「いつもならビールって言うところだけど、今日はカクテルにしようかな」


 気を取り直すように、彼はそう言った。


「せっかくの久々のバーだからね。カクテルはお任せで」


 『お任せ』された尊が作ったのは、うっすら白い酒に緑のチェリーが沈む美しいカクテルだった。グラスの縁で砂糖がキラキラ輝く『雪国』だ。


「山形生まれですからね、このカクテルも」


 尊がそっとカウンターに差し出す。

 これはウオッカをベースにホワイトキュラソーとライムジュースをあわせてシェイクする飲み物だ。

 『雪国』という名前は川端康成の小説が由来なんだがね、その生みの親が山形の伝説的バーテンダーなんだよ。尊はそれを思い出したんだろう。


「お、これは粋ですね。今の季節にぴったりだなぁ」


 高梨の顔が輝いた。

 彼はまるで絵画でも楽しむように、いろんな角度からグラスに目をこらしていた。それを見守る尊が、少し照れくさそうにしていた。

 多分、私が雨森堂の上生菓子と対面するときも、こういう顔をしているんだろうと思いながら高梨を見ていると、彼はうっとりとした口調でこう言った。


「綺麗だなぁ。ほら、まるで雪の下で芽吹きが春を待っているような。いや、雪をかぶる松の葉みたいにも見えるかな」


 ずいぶんと詩的だ。私は感心するような、呆気にとられるような奇妙な気分で笑った。近所の古本屋の主人もロマンチックな男だが、こいつも相当だ。

 一口飲んで、彼は「美味いなぁ」とにこやかに唸る。高梨という男は実に美味しそうに飲むから好きなんだよ。


「それにしても、故郷ってのはなんだかいい響きだね」


 故郷を遠く離れたことのない私が話しかけると、彼は「えぇ」と深く頷いた。

 だが「仕事の合間にどこかに出かけたのかい?」という問いには、ちょっと表情を曇らせてしまった。


「それがね、今度はあまり出ないようにしたんです」


「何でさ? せっかく故郷に帰ったってのに」


「だからですよ」


 理解できずにきょとんとしていると、彼は一呼吸おいてから、こう話し出した。


「俺ね、中学一年生のときにこっちに引っ越してきたんですけど、実は一度だけ里帰りしてるんです。祖父の法事で」


 彼は目を細めて言った。


「そのときに思い知ったことがあってね」


 高梨が雪国片手に口を開く。


「故郷ってどんな季節でもいいものですけどね、北海道にいると、特に夏の景色が恋しくなります」


「ほう。北海道のほうが涼しくていいんじゃないかい?」


「そりゃあね。こっちはカラッとしてて涼しいけど、あっちは盆地なんでめちゃくちゃ暑いですよ」


 高梨は笑ったが、すぐに「はぁ」と気の抜けたため息を漏らした。


「俺が住んでたのは街から離れたところだったんです。バイパスや工業団地や民家の間を埋めるように果樹園と田んぼがあるところでね」


 そして、彼は山形の景色を語りだした。私はグラスに満ちたバーボンを見つめながら、それを思い描いてみる。琥珀色のキャンバスに、まだ見ぬ東北の夏が次から次へと浮かんでは消えていった。

 さくらんぼに葡萄、桃の果樹園の間を縫うように細い道路がある。北海道の道路よりもずっと道幅の狭い、曲がりくねった道だ。

 その道路には陽炎が揺らいでいて、暑さにうんざりしながらも、その向こうにあるものに心がざわめく。

 陽炎を追いかけていくと、遠くに鎮守の杜が見えてきた。薄暗い神社の境内はひんやりとして、大きな杉の枝から落ちた木漏れ日がちらちらしている。

 青々と広がる田んぼの傍にそびえるのは、水神様の石碑。その裏側には、こんこんと水が湧き、川を漁ればドジョウや名も知らぬ川魚やタニシが採れる。


 なんとも長閑でいいじゃないか。私の脳裏にはヴィヴァルディの『四季』が鳴り響いていたよ。

 高梨はすっかり夢見るような顔つきになっている。


「あたりには蝉の声だけが木霊しているのもいいですよ。ほら、千歳の街中じゃ蝉の声なんてしないじゃないですか」


 確かにそう言われてみれば蝉の鳴き声なんてテレビでしか聞いたことがない気がする。


「特にね、蛍が良いんですよ」


 高梨の声にだんだんと熱が入ってきた。


「このあたりだと蛍がいるだけでもう名所ですけど、俺が生まれ育った地域じゃそこら中にいたもんです」


「へぇ。千歳にもいるにはいるけれどね」


「比べものにならないくらい大群だったんですよ。夜になれば広がる田んぼがのっぺりした闇になるんです。一面に蛍の光がばらまかれて、目の前をふわふわ漂うんですよ」


 あまり酒に強くないせいか、ほろ酔いの彼は饒舌だった。


「水路の形がわかるくらい田んぼの縁に光が集中していてね、まるで天然の百万ドルの夜景ですよ。水路のせせらぎとウシガエルの声が鳴り響く中、無数の光が舞うんです」


 グラスの中に思い描いた蛍の光景が、笑みを誘った。光をなびかせて漂う蛍を追いかける少年時代の高梨を想像してしまったのだ。今でもこんなに熱弁をふるうくらいだ。さぞかし心に響いたのだろうね。


「私もそんな幽玄な景色を見てみたいものだね」


 そう言うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。


「見せてあげたいです、本当に。俺は心底、山形が好きなんですよ。こっちに転校してきたときは、ホームシックで大変でした」


 高梨が苦々しく言った。


「ほら、こっちってイントネーションが低いけれど、言葉自体は公用語に近いでしょ。あの頃は何故か訛りが恥ずかしかったんですよね」


「皆と同じでないと不安だったんだろう? 小さい頃はそういうこともあるから」


「だと思います。今じゃ話そうと思っても話せなくなりました。聞けばわかるんですけどね。勿体ないことしましたよ。俺、山形の言葉、好きなんです」


 眉尻を下げ、彼が雪国をまた飲んだ。


「あの頃は携帯電話もなかったんで、山形の友達と文通してました。こっちに馴染むまでは、それが心の支えでしたよ」


「今じゃメールがあるけどね、手紙ってのは味があっていいじゃないか」


 ハイライトに火をつけながら目を細めると、彼が照れたように笑う。


「毎日、学校から帰ると真っ先に郵便受けを見てね。手紙があると嬉しくて」


 彼は肘をついて、ため息を漏らした。


「あの頃はいつも『故郷に帰りたい』って思ってました。よく道を歩きながら考えたもんです。『この道を辿れば故郷に続くんだな』とか『この空は山形の友達も見てるんだな』ってね」


「お前はその頃からロマンチストだったんだね」


 苦笑する私を、彼はにこやかな顔で肯定した。


「自分でもそう思いますよ。お凛さんはオリビア・ニュートン・ジョンって知ってます?」


「もちろんさ。『Take me home, country roads』を歌った人だね。私はジョン・デンバーも好きだが」


「そう、それです!」


 高梨の顔がパッと明るくなる。


「あの歌を聴いたときね、俺は心底身震いしましたよ。オリビアは俺のためにこの歌を歌ってくれたんだって」


 思わず笑ってしまう。オリビア・ニュートン・ジョンの『Take me home, country roads』は『故郷に帰りたい』という邦題だ。ウェストバージニアの山が見える故郷を想う歌だった気がする。

 高梨はウェストバージニアの山々に、山形を重ねたんだろう。そして『この道を辿れば故郷だ』と自分を慰めた日々を。


「俺の故郷はウェストバージニアじゃないですけどね。あの歌が心にしんみりきました」


 彼がそこで、ふっと肩を落とした。


「それからね、十年くらい過ぎた頃ですね。一度だけ祖父の法事で山形に戻ったときがありました。そのとき、今まで当たり前だった景色にギャップを感じてる自分に気付いたんです」


「……というと?」


「歌の中のシェナンドー川じゃないけど、俺の故郷にも川はたくさんあって。よく小さな川で遊んだもんです。雨が降ると川筋を変えるんですよ。そのたびに川の中を歩いて魚をとりました。川の真ん中に立つと世界が広がって見えて気持ちよかった」


 そこで、彼は少し肩を落として「でもね」と呟く。


「十年ぶりの川は舗装されて、どんなに雨が降っても表情を変えないようになってました。高いと感じた橋の手すりは『こんなに低かったんだ』ってくらい下にあって。広く感じた通学路はむしろ狭かった」


「なるほどねぇ」


「もちろん、そのままの景色もありましたよ。山の麓の竹林は相変わらず凛として、かぐや姫でも出てきそうなくらいでした。でも、好きだった山がすっかり裸になっていたのは侘びしかったな」


 そのときを回想しているのか、彼の目はどこか遠くを見ていた。


「空港から住んでいた街に向かうとき、山が怖かったんです」


「怖いだって?」


「このあたりは平野ですからね、空が広いんです。向こうは山の合間の狭い空でしたから。こっちに転校してきたときは何もない空がガランとして寂しく感じたのに、十年ぶりに見る山はまるで巨人があぐらをかいて俺を見下ろして迫ってるようでした」


 紫煙を吐きながら耳を傾けていると、彼はつられたようにポケットからセブンスターを取り出した。彼は切ない顔で煙を吐く。



「あぁ、でも『俺はもう山形の人間じゃない』って思い知ったのは、夜の光でした」


「夜の光?」


「法事の後、従兄弟の家で過ごしたんです。ホテルに戻るときにはもう夜中でした。玄関を出て、俺は空中に光が幾つか浮かんでいるのを見つけてぎょっとしました。ずっと動かず、何もないはずの空に光が浮かんでいるんです。何だと思います?」


 私は「さぁ」と上生菓子を頬張りながら肩をすくめた。尊がおどけたように「もしかして『未知との遭遇』みたいな?」と目を輝かせる。


「はは、UFOじゃありませんよ。山の中にある施設か何かの灯りだったんです」


「なぁんだ」


 思わずそう呟いた私に、彼が頷く。


「そう、なぁんだって思うでしょ? こっちじゃ空中に漂う光は星か飛行機くらいですからね。俺は闇の中に山があることを忘れている自分に気づいたんですよ」


 あぁ、それはわかる気がする。特に千歳市は石狩平野の南端だ。そういう景色はあまり見かけない。


「あのとき、心底思いました。俺の居場所はもうここじゃないんだって。それまでの俺は故郷に帰りたいってずっと思ってました。懐かしくて、恋しくて……」


 そこで彼は小さなため息を漏らした。


「だけど、もう故郷は俺の知っている故郷じゃなかった。いや、故郷だと思った時点で、もう居場所ではなくなったんだって知りました。遠くにあるから故郷なんですね」


「室生犀星か、お前は」


 思わず苦笑すると、彼は「そんな大層なもんじゃないです」と健康そうな頬をつるりと撫でた。

 そして彼は雪国の若葉色をしたチェリーを噛み締め、こう呟く。


「俺はね、故郷を夢見ることで何かから逃げていたんです。でも、故郷はそれを許してくれなかったんだなぁ」


「甘えちゃならんって教えてくれたんだよ。まるでお袋みたいなんだね、故郷ってやつは」


「考えてみると、そういうところがお凛さんみたいですね。だから、お凛さんが好きですよ」


「何を言うか。私はお前なんぞ産んだ覚えはないよ」


 彼は軽く笑うと、尊にこう言った。


「今度ね、俺が文通してた山形の友達がこっちに遊びに来るんですよ。ここに連れてきたいんですけど、とびきりのカクテル飲ませてくれますか?」


「もちろんですよ。オリビアが高梨さんのために歌ったみたいにね、俺も腕をふるわせてもらいます」


 高梨が嬉しそうに「ありがとう」と礼を言う。


「故郷ってね、思えば山形で見た陽炎みたいです。遠くで揺らいで、見てるしかない。けど、友達を残してくれた」


 私は黙ってメーカーズマークを飲む。遠く離れた故郷のない私には、今の彼の心中は計り知れなかった。

 高梨の目には、今まで見たことのない光が宿っていた。思い入れのある街を後にした者だけが滲ませる何かを潜ませて。

 少しだけ、ほんの少しだけだが、自分の知らない何かを知る彼を羨ましいと思ってしまったよ。


 高梨は三週間後に山形の友人を連れてきた。

 その友人は高梨とは裏腹に強い訛りの山形弁を話し、私や尊には聞き取れない言葉が多かった。

 尊はその友人におしぼりを出した後、ライ・ウイスキーとドライベルモット、そしてカンパリを棚からカウンターに乗せた。やがて彼が差し出したのは『オールド・パル』というカクテルだった。

 透き通った赤をしている、アメリカで禁酒法が施行される前から飲まれていた古いカクテルだ。そして、その名は『古くからの仲間』とか『懐かしい友人』を意味する。なんとも尊らしい選択だった。

 私はね、山形弁について語り合う二人を見て心底羨ましかったよ。故郷が遠くから高梨を温かく見守っている気がしてね。

 故郷は高梨の居場所ではなくなったけど、彼に心の支えと、今でも酒を酌み交わす親友の存在をもたらしたんだ。今の私にはないものを。


「お凛さん、なんだか今日は静かですね」


 気がつくと、真輝がこちらを見て心配そうな顔をしていた。


「なに、なんでもないよ」


 私はメーカーズマークの氷を指で回しながら、微笑んだ。

 その仕草は、真輝の亡くなった祖母のクセだ。そう、この目の前にいるバーテンダーと同じ顔をした私の『オールド・パル』のね。

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