第8話 雪国に赤い月がまた昇る

 北海道の冬は嫌になるくらい長い。年が明けてしばらくたっても雪が我が物顔で街に居座り、思いきり道幅を狭めている。

 この日は特に冷え込む夜だった。入って来る客の誰もが鼻先や耳を真っ赤にし、熱いおしぼりに歓声を上げる、そんな夜だ。


「真輝さん、大丈夫ですか?」


 尊は仕事帰り、並んで歩く真輝を気遣う。今日の彼女は風邪をひいたらしく、ひどい声をしていたからだ。


「えぇ。喉だけですし」


 声を出すのもやっとという有様だが、この日の彼女は店で気丈に振る舞っていた。


「お大事にしてくださいよ」


 あまりにひどい声に同情し、思わず自分のマフラーを彼女に巻き付けた。


「あ、大丈夫ですよ。尊さんまで風邪引いちゃう」


「大丈夫じゃないでしょ。薬も飲んでくださいよ」


 琥珀荘の入り口で彼女はマフラーを外し、微笑んで礼を言った。


「ありがとうございます。おやすみなさい」


「ちゃんと寝てくださいよ」


 尊は自分の部屋に入ると、「臭くなかったかな」と呟き、マフラーの匂いを嗅いだ。


「まぁ、大丈夫……かな。心配だけど、最後には笑ってたし」


 気を取り直して風呂に入ると、スウェット姿で布団に潜り込んだ。

 ふと、真輝の部屋があるほうの壁を、暗闇の中で目をこらして見る。ちゃんと寝てるかな。一人で心細くないかな。そんな心配ばかりして、なんとなく、いつもはテーブルに放り出しておく携帯電話を枕元に置いておく。

 少しでも何か手助けしたくても、自分にできることなど、何もないことはわかっていた。でもそれを認めたくない小さな足掻きだ。


「男って不器用だよな」


 そんな小さなため息を漏らし、大きなあくびをする。次第に瞼が重くなり、彼はいつの間にか寝入ってしまった。

 眠りが深くなってきたところだった。尊はいきなり響き渡った大きな音で目を覚ました。


「尊! 起きな! 尊!」


 繰り返し呼ぶのはお凜さんだ。おまけにもの凄い勢いでドアを叩いている。これはただ事ではないと、焦って飛び起きる。


「どうしました? ていうか、なんでチャイム鳴らさないんですか!」


 外に出ると、すっかり慌てた顔のお凜さんが尊の腕をぐいぐい引っ張る。


「そこの下のところで、真輝がうずくまってるんだよ!」


「え?」


「早く! こっち!」


 彼女は階段を踏み外しそうになりながら、尊を一階に連れて行った。


「真輝さん!」


 お凜さんの部屋の前には、小さくうずくまる真輝がいた。ベストを脱いだだけで、バーテンダーの格好のままだ。それにコートを羽織り、携帯電話を握りしめている。



「なんでこんなところに!」


 急いで身体を起こすと、真輝の目が潤んで頬が火照っていた。お凜さんがその額に手を当て、顔を険しくさせる。


「こりゃあ、救急病院だね。この子、扁桃腺持ちなんだよ。抗生物質じゃないと駄目だろうな。あたしは真輝の保険証を探してくるから、尊はその間に救急病院がどこか調べな!」


「は、はい!」


 こういうとき、女性は強い。お凜さんはすぐさま保険証と財布を手に、タクシーを呼んできた。

 お凜さんと二人がかりで支え、なんとか後部座席に乗せる。尊が隣に座ると、真輝がぐったりと頭の重みを肩に預けてきた。

 助手席でシートベルトを締めながら、お凜さんが舌打ちする。


「店で『喉風邪だ』なんて言ってたけど、やっぱり熱があったんじゃないか。どうしてこの子はこうも強がるのかね」


 タクシーが動き出すと、お凜さんは進行方向を睨みながら、俺に向かって文句を言う。


「尊も気がつかなかったのかい? 一緒に帰ってきたんだろ?」


「すみません」


「謝ることじゃないけどさ、その子は何も言わないんだから、ちゃんと見てておくれよ」


 尊はしゅんとして、項垂れる。真輝が強がるタイプだと、とっくに知っているはずだったのにという後悔で胸が塞がれた。


「……でも、どうして玄関フードにいたんでしょう? 俺、部屋に入るの見たんですけど」


「うちに氷を取りにきたんだよ。足りないから少し分けてくれって電話がきてね」


「お凜さんに?」


「あぁ。持って行くって言ったんだけどね、氷を持って行こうとしたらこの有様で。あたしゃ寿命が縮まったよ!」


 真輝の小さな肩を抱く手に思わず力がこもった。こんなときまで『どうして俺を頼らないんですか』と思うのは、自分が小さい人間なのだろうか。


「まったく、ただでさえ残り少ない余命なのにさ。まぁ、あたしもすぐに二軒目に行っちゃって気をつけてやれなかったしね」


 尊はお凜さんがぼやくように言うのを聞きながら、自分が情けなくなってきた。思い返せば、今日の真輝は何度かグラスを落としそうになったり、やたらとオーダーを聞き返したりしていた。どこかおかしいことに、もっと早く気がつくべきだったのだ。そのくせ、『どうして俺を頼らない』なんて言えることではない。

 尊は心の中で何度も謝りながら、そっと真輝の髪を撫でた。彼女は呆然としたまま、苦しそうに自分の膝を見つめているばかりだ。

 辛いでしょう? 苦しいでしょう? できることなら、俺が代わってやりたいよ。そう、心から思った。


 救急病院に着くと、受付を済ませ、順番を待つ。マスクをした人や、ぐったりしている人があふれる中で、尊は真輝の手を優しく握っていたが、早く診てやって欲しい気持ちだけがはやる。

 ようやく名前が呼ばれ、診察室に消えていくお凜さんと真輝を見送ると、尊は待合室で長いため息を漏らしてしまった。


 診断は扁桃腺炎だった。

 抗生物質や解熱剤や、そして胃薬で膨らんだ薬袋をもらって帰ってくると、真輝を部屋に連れて行く。着替えはお凜さんに任せ、それが済んでから尊も手伝ってベッドに横たえた。

 薬を飲ませながら、お凜さんが「まったく!」と呆れたように叱り飛ばしていた。


「無理するんじゃないよ。まぁ、インフルエンザじゃないだけマシだね」


 口調はきついが、安堵の入り交じった響きだった。


「すみません」


 しゃがれた声でしゅんとしている真輝に布団をかけ、お凜さんが「これでよし」と、満足げに立ち上がる。そして、尊に部屋の鍵を手渡した。


「ほれ、真輝の部屋の鍵は、あんたが持ってな」


「え? お凜さんは?」


「あたしはもう寝るよ。あとは任せた。粥でも作ってやんな」


「え? え?」


「すまないが、譜面に弓順を書く作業が残っているんだよ。明日には終わらせなきゃいけないんだ」


「あ、はい……」


 呆気にとられている尊を振り返り、お凜さんが靴を履きながら笑う。


「変なことしたらスモーキーに引っ掻かれるよ」


「しませんよ!」


 慌てて真輝の足もとで丸くなるスモーキーを見ると、まるで睨むように一瞥された。

 お凜さんが快活に笑いながら出て行くのを見送ると、そこにはもう寝息をたてている真輝と自分だけが残される。……猫以外には。

 尊はあらためて室内を見回した。気がついてみると、真輝の部屋に入るのは初めてだった。

 間取りは2LDKだ。しつらえは尊の部屋と大体一緒だったが、一部屋多いだけで全然違うアパートのように感じるのが不思議だった。


「とりあえず、氷枕がいるな」


 寝室を出て、台所へ向かう。

 製氷皿を見てみると、表面に薄く氷が張っただけの、できかけだった。お凜さんのところからもらおうとしていたのを思い出し、頭の中の買い出しリストに氷を加えた。

 タオルも欲しいところだが、あれこれ物色するのは気が引けて、結局、自分の部屋に戻って氷枕とタオルを調達してきた。氷枕といっても、ジッパー付きの保存用袋に氷水を詰めた代用品だが、冷却シートを買うまで我慢してもらうつもりだった。

 ぐったりする真輝の額にタオルを当てて、その上に氷枕を置くと、いくらか表情が和らいだ。それだけで少しは安堵し、尊まで気持ちが和らいでしまった。


「こんな氷枕じゃ、すぐに氷も溶けるな」


 尊は財布を握ると、コンビニまで車を走らせた。

 明るい店内に入ってから、自分がだらけたスウェット姿だったことに気付く。人間夢中になると自分の格好なんて気にもしなくなるらしい。

 カゴに氷と冷却シート、栄養ドリンクを入れる。冷えたヨーグルトやアイス、イオン水も念のため加えた。

 アパートに戻って真輝の様子を見ると、まだ息が荒い。おそるおそる触れてみると、彼女の頬の熱が、外気で冷え込んだ指に痺れるように伝わった。


「すみません。気付いてあげられなくて」


 氷を冷凍庫にしまうのも忘れ、尊はそっと呟いた。

 思えば、代われるものなら、代わってあげたいと誰かのためにそう願うのは、初めてかもしれない。

 どうしたら、自分を真っ先に頼ってくれるのだろう。彼女が一人で頑張れば頑張るほど、無力だと思い知らされる。

 男は女ほど強くないし、現実的ではないかもしれない。けれど、好きな人に助けを求められたら、きっと大抵の男は強くなれるのに、この人は、上手に助けを求めることができないタイプだ。

 でも、きっと本当は自分の気がつかないところに『助けて』のサインがあるかもしれないのだ。

 真輝に早く元気になって欲しかった。そして、また自分がサイン見逃しそうになったら「どうして気がついてくれないんですか」と、理不尽にでもいいから叱って欲しい。何故か、そんな気がした。


 尊はすごすごと台所へ行き、粥を作り始めた。


「ネギはどこだ?」


 冷蔵庫を開けてみると、常備菜の入ったタッパーが几帳面に並んでいる。だが、ネギはない。

 今度は冷凍庫を開けてみると、刻んだネギが保存用袋に入って凍っていた。それに手を伸ばした尊は、ふと、隣にラム酒のボトルがあるのに笑ってしまった。


「なんだ、本当はラムが好きなんだ」


 粥を煮ている間に、真輝の氷枕を外し、冷却シートを貼ってやった。薬が効いてきたらしく、だいぶ楽そうな顔つきになっている。

 ベッドの傍にあぐらをかいて部屋を見回すと、こんな真夜中に真輝の部屋にいることに、今更になってそわそわしてくる。この部屋に入ってみたいと思ったこともあるが、まさかこうして台所で料理まですることになるとは思わなかった。

 真輝の部屋は至ってシンプルだった。リビングにはテーブルとソファ、本棚くらいしか大きい家具がなく、テレビすらない。寝室にはベッドとタンスとスタンドミラーだけだ。

 リビングに行ってみると、テーブルの上にあるお香立てに目が留まった。一緒にショッピングモールに行ったときにインド雑貨の店で買っていたものだった。クリスマス前の出来事だが、遠い過去のように思える。

 少ししんみりしたかと思うと、今度はクラシックギターを見つけて、胸を掴まれたような気がした。

 飴色のギターはよく手入れがされていて、艶やかに光っていた。正義のものだろうと察しはついた。

 捨てられないのも無理もないと、彼は辺りを見回した。一緒に暮らしていた部屋で、たった一人残されたら思い出にすがりたくもなるだろう。

 ふと、彼の視線は本棚で止まった。一段すべてがシェイクスピア作品で埋まっている。暁の言っていた通り、真輝は正義の好きなシェイクスピアも捨てられないらしい。

 ただ、作家としてこだわっているのはシェイクスピアだけで、あとは一人の作家につき一作品、多くて二作品だ。ジャンルはミステリーやファンタジー、現代小説に時代小説、エッセイまで実に様々だった。一体、何を基準に選んだのか訊いてみたい気がする。

 尊が真輝のもとへ戻ると、彼女はうっすらと口を開けてすやすやと眠り込んでいる。その顔がまるで子どものようで、思わず微笑んでしまった。

 頬に手の甲を当ててみると、さっきよりは熱くない。そして、とても柔らかいことに今になって気づき、思わず心臓が脈打った。

 もっと触りたい。湧き出た衝動に、顔が赤くなった。

 そのときだった。


「にゃあ」


 高らかに響いた鳴き声に、思わず肩を振るわせてしまった。

 足下を見ると、スモーキーがまるで不純な気持ちを責めるように、じっと尊を凝視している。気がつけばどこかで寝ていたらしいピーティーまで近寄ってきて、足に額をこすりつけた。


「大丈夫だよ、スモーキー」


 思わず苦笑しながら、尊は呟く。まるで自己暗示をかけるように「……大丈夫」と繰り返した。


 真輝は何も知らずに眠っている。見ると、髪が一筋、唇にかかっていた。おずおずと手を伸ばし、肌に触れないように気をつけながら払ってやる。

 ずっと見ていたかった。同時に、もっと触りたかった。尊の中に何かが宿って、それに意識が吸い込まれそうな錯覚がした。

 やがて、彼はおそるおそる彼女の唇をなぞった。ゆっくりと、こわごわとした手つきで触れた唇は熱のせいか火照って、しかも想像以上に柔らかい。


「……大丈夫じゃないや」


 尊は慌てて手を引き戻すと、頭をかいた。

 慌てて台所に逃げるように駆け込み、粥がだいぶ出来ているのを確認してから火をとめて蓋をした。

 ピーティーが不思議そうに尊を見ているのを尻目に、慌てて部屋を出る。これ以上ここにいたら、おかしくなりそうだった。

 尊は自分のベッドに潜り込んで、携帯電話からメールを送った。粥が出来ていると知らせる文章の最後に、こう付け加える。


「何かあったら呼んでください。すぐに行きますから」


 送信完了の音を確かめ、枕に顔を埋めた。

 その夜はひどく寝付きが悪かった。


 翌朝、お凜さんと一緒に真輝の部屋に行くと、相変わらず彼女は寝入ったままだった。起き上がった形跡もない。


「やっぱりお粥はまだ食べられないみたいですね」


 すっかり乾いた冷却シートを交換してやったお凜さんは、寝顔を見下ろしてため息をついた。


「まぁ、まだ水や薬を飲むのも痛くて辛いのかもね。明日には食べられるといいが」


 二人揃って真輝をのぞき込んだときだ。呻いて小さな寝言が漏れた。


「まさ……よし……」


 ぐっと胸を鷲づかみにされたようだった。次の瞬間、真輝がうつろな目を開ける。


「あ……」


 熱に浮かされているのか、か細い声を漏らし、呆然と尊たちを見ている。


「真輝、起きたかい。まだ熱は辛いかい?」


 お凜さんが声をかけながら、ちらりと尊に目配せをした。聞こえなかった振りをしろというのだろう。

 尊は片方の眉を上げて『承知』の合図をすると、そっと真輝に声をかけた。


「またお粥を作っておきますからね。店は任せてゆっくり休んでください」


「……たまご」


「へ?」



「たまご……が、いい……」


 ぷっとお凜さんが吹き出す。尊もつられて笑いそうになりながら「わかりましたよ」と言うと、真輝は何もなかったかのように眠ってしまった。


「まったく、子どもかい」


 お凜さんが呆れながらも愉快そうに立ち上がった。


「さて、それじゃあたしは行くよ。お弟子さんがそろそろレッスンに来るんでね」


「あ、俺は昨日のお粥を食って店の準備行ってきます」


 尊たちはそっと静かに部屋のドアを閉める。ひらひら手を振って階段を降りていくお凜さんを見送ると、自分の部屋で卵粥を作った。

 タッパーに入れて真輝のところに戻ると、卵粥を冷蔵庫に入れた。そして、『卵粥は冷蔵庫のタッパーの中です』と書いたメモをテーブルの上に置き、出て行く。

 お通しの材料を買うためにスーパーに車を走らせながら、尊は唇を噛みしめた。あの寝言が耳から離れず、その日はずっと、煩わしかった。


 三日目、出勤前に真輝の部屋に顔を出すと、彼女はカーディガンを羽織ってベッドに起き上がっていた。


「真輝さん、大丈夫ですか?」


「ご迷惑かけてすみませんでした。今、薬を飲んだところで……」


 テーブルの上に、お粥の入ったタッパーと薬袋、そして水の入ったグラスがある。粥は半分ほど減っていた。


「だいぶ楽になりました。ありがとうございます」


 申し訳なさそうに言う彼女に、尊は胸をなで下ろす。


「それはよかったです。よく眠れました?」


「病院から帰ってきてから記憶がないくらいですよ。もう明日には店に出られます」


 苦笑する真輝に、尊は複雑な顔をして「あ、そうですか」とだけ呟く。

 唇を触ったのは覚えてないらしい。安堵すると同時に、知らないところで触ったことに妙な罪悪感が生まれた。

 思い出してしまうと、やけに真輝の唇を意識してしまってどぎまぎする。ずり落ち掛けたカーディガンを寄せ直す仕草に、今度は胸元に目が吸い寄せられそうだ。


「あ、あの、じゃあ店に行ってきます。心配しないで、ゆっくり休んでくださいね」


 わき起こる煩悩を誤魔化すように、そそくさと立ち去ろうとする。そんな尊を真輝が呼び止めた。


「尊さん。ちょっとお時間ください」


「へ?」


「お話しなきゃならないことが」


「でも、体しんどくないですか? 風邪が治ってからでいいですよ」


「今すぐに、お話したいんです。でないと、きっとまた話す勇気がなくなっちゃう」


 尊は首を傾げながら、そばに座った。真輝が目を伏せ、まだ割れている声で話を始める。


「私、夢を見てたんじゃないかなって思うんです」


「夢?」


「お凜さんと尊さんが二人で様子を見に来てくれたとき、起き抜けに正義の名前を呼んだことだけはなんとなく覚えてるんです」


 何も言えず、尊は膝の上に置いた手を強く握りしめた。


「一緒に店をやる以上は、いつか話さなきゃならないのかなって思ってたんですけど。話すこともないのかなって迷ってて……でも、聞いて欲しいんです」


 尊は、ただただ黙って頷いた。


「尊さんは、琥珀亭が好きですか?」


「好きです」


 迷いなく、そう即答した。

 真輝がいるから、という理由だけではない。彼はいつしか客と過ごす夜や、お酒そのものが好きになっていた。辛いことも悔しいこともまだまだあるが、琥珀亭に立つことが生活の一部になっていることは否めない。

 真輝は微笑んで礼を言った。


「そうだと嬉しいなって思ってました。でも、だからこそ、琥珀亭を……私を知ってください」


「わかりました」


「今は私と尊さんだけですが、以前の琥珀亭には何人かのバーテンダーがいました」


 彼女はためらいがちに、そう切り出した。


「琥珀亭を始めたのは、私の祖父である蓮太郎です。お凜さんは祖母の遙の親友で、その頃からの常連なんです。祖母はバーテンダーではなく、チェロ教師でした。私の両親もバーテンダーではありません。父は公務員ですし、母は看護師でした。その頃、私は琥珀荘に住んでいませんでしたし、祖父母に会うのもお正月くらいでした」


 ふと、真輝の眉根が寄せられる。


「けれど母が家を出て、父は失意のうちに病死しました。それで、私は琥珀亭を営む祖父母のところへ来たんです。高校生のときでした」


「真輝さんは、それからずっとバーテンダーなんですか?」


「いいえ。最初は会社勤めをしてました。バーテンダーだと家族と過ごす時間がなくなりますから、祖母を夜の間、家に一人にしたくなかったんです。そんなとき、暁がうちに弟子入りしてきたんです。そして専門学校時代からの親友を連れてきました。それが正義という男です」


 正義の名前に、思わず唇を噛んだ。真輝も布団をきつく握りしめている。


「正義は琥珀亭に通ううちにお酒を好きになり、ついにうちに弟子入りしてバーテンダーになりました」


 ふふっと真輝が乾いた笑いを浮かべる。


「あの頃は祖父と暁と正義の三人がわいわいカウンターで話していて、賑やかでした。そのうち、私もバーテンダーとして祖父から手ほどきを受けて時々はカウンターに入るようになりました」


「そうだったんですか」


「今思えば、私は琥珀亭そのものよりも、彼らとの時間が好きだったんです」


 彼女はそこで軽く咳き込んだ。慌てて背中をさすると、「大丈夫です」と切ない顔で笑う。


「正義は……私の夫になりました」


 不意に、彼女は呟くように言った。何も言えずにいる尊に、彼女は苦笑する。


「尊さん、知ってたんじゃないですか?」


「噂は聞いてましたよ」


「……そうですよね。誰かから耳に入るなとは思ったんですけど」


 真輝が『仕方がない』と言わんばかりに微笑む。


「私は自分の家族を持てたことが本当に嬉しかったんです。けれど、それからすぐに祖母が亡くなりました。暁はバルを経営するといって琥珀亭を出て行きました。それでも私は祖父と夫と、この琥珀亭でずっと笑って生きていくんだって思ってたんです。なのに……」


 ふっと口をつぐみ、少しの間沈黙が訪れた。だが、彼女は意を決したように話し出す。


「事故で祖父と夫が同時にいなくなりました。夫が運転する車が信号待ちをしていたとき、対向車線から突っ込まれたんです」


 尊はふと、布団を握る彼女の手を見た。その左手の薬指には指輪はない。跡すらも見えなかった。


「一人で店に取り残されたとき、私はしばらく店を休業しました。お凜さんと暁が助けてくれなかったら、葬儀だってどうなっていたかわからないくらい、取り乱していたんです。店のお酒を全部捨ててしまおうと思いました。けれど彼らが愛情込めて磨いたボトルを捨てることなんて出来なかった」


 その声はか細く震えていた。けれど、涙はない。その目が『もう涙なんて出尽くした』と言わんばかりにぎらついていた。


「それで、暁に頼んだんです。店のボトルを全部もらってくれないかって。でも、彼はボトルを引き受ける代わりに、自分の店で働かないかって言ってくれたんです。私ごと引き受けるなら、ボトルも受け取るから三日考えろって言われました」


 尊はおずおずと口を開く。


「……それで、真輝さんはどうしたんですか?」


 結果は今が全てだ。だが、それでも訊きたかった。彼女が何を考え、どういう気持ちで琥珀亭を続けようと思ったのか。それは一人の男として、というよりもバーテンダーとしての気持ちかもしれない。


「暁は実家がここの近くで、幼なじみみたいなものなんですけど、あの人には私がお見通しなんですね。今思えば私が琥珀亭を続けるのがわかっていたんでしょう。琥珀亭に一人座って、色々考えてからこう答えました。『暁がバルを選んだように、私は琥珀亭を選ぶ』って」


 だが、彼女はふっと眉を下げた。


「本当はそれからも、お店のお酒を全部売り切って店をたたもうかって悩むことがしばしばでした」


「そうなんですか?」


「えぇ。でも店をたたもうかと思うたび、不思議なもので涙が止まらないんです。カウンターにいる祖父や暁、そして夫の姿や声が思い出されて懐かしくて懐かしくて……私はそのぬくもりを離したくなかった。そのくせ、店を開けるとその思い出が胸を刺すんですよ。何度カクテルを作っても、祖父や夫の味とは違う。そのたびにカクテルが『もう彼らはいないんだ』って私をあざ笑っているような気がしました」


 尊にはかける言葉が思い浮かばなかった。ただただ頷いて相槌を打つので精一杯だ。


「家族が一気にいなくなったことと、どう向き合うかなんて考える余裕もなかった。ただ目の前の一日をやり過ごして、こみ上げる涙をどうにかこらえるので精一杯。琥珀亭は私に残された居場所だったんです。でも、今年の墓参りで暁に会ったときに『琥珀亭を絶やしたくない』と言ったら、『弱虫』って笑われました。暁にはわかっているんです。それが私の建前だって」


「建前?」


「そう。私が好きなのは琥珀亭という居場所じゃない。そこに残る祖父や夫の影だってことです。辛いなら、何故その場から立ち去らないのかって言われました。けれど、動けなかったんですよ。どこに行ったらいいのかもわからない」


 尊は琥珀荘の前で暁が彼女を抱きしめていた姿を思い出していた。あのとき暁が口走っていた言葉は、これだったのだと納得する。

 ふと、真輝は一息つくと、尊をじっと見据えた。


「……でも、尊さんが来てから毎日がちょっとずつ変わりました」


「俺が?」


「そう」


「でも、俺は何もしていません」


 心底驚いていると、真輝がふっと目を細める。


「……だからですよ。尊さんは何も訊かずにそっとしておいてくれました。そのくせ、私を一人にはしないでいてくれました」


 それは、自分に勇気がなかっただけだと俯く。だが、真輝は穏やかに笑っていた。


「でもね、一番の理由は琥珀亭でカクテルを作ってくれたことなんです」


「え? ホット・バタード・ラムのことですか?」


「いいえ。もっと最初の頃の……ほら、練習で沢山作ったカクテルです」


 琥珀亭に慣れた頃、よく居残ってカクテルを練習して彼女に味見をしてもらったことを言っているのだろうと思い、彼は首を傾げる。


「だって、それが俺の仕事ですから」


 そこで、真輝が吹き出した。


「そう。仕事なのに、初めて本気で作ったカクテルがすっごく不味かったんです」


 思わず苦笑してしまった。


「自分でもわかっているから猛練習したんじゃないですか」


 ちょっとふくれっ面で言うと、彼女がふふっと笑う。


「うん、今は上手ですよ。ただ、あのときは私と同じ手順で作ってもこうも不味くなるんだってことにびっくりしたんです」


 立ち直れなくなりそうだと唇を引きつらせた尊を、彼女は優しい目で見つめている。


「尊さんのあの不味いカクテルを飲んで、私は当たり前のことに気がつきました。……人はみんな違うんだって」


「え?」


「祖父のカクテルは祖父のもの。夫のカクテルは夫のもの。彼らが生きていようが死んでいようが、真似することは出来ても、違う人間なんだからまったく同じにはならなくてもいいんだって……そう、あなたが教えてくれました」


「……なんていうか、複雑なんですけどね。お役に立てたなら、俺のあのクソ不味いカクテルも浮かばれますよ」


 苦笑した尊に、ぽつりと真輝が呟く。


「ありがとう」


 尊を見つめる目が柔らかく細められた。


「琥珀亭に来てくれて、ありがとうございます。お粥、美味しかったです」


 尊は力強く、そっと頷いた。


「こちらこそ、ありがとうございます。真輝さんが琥珀亭を続けてくれたおかげで、俺は今日を生きています」


 その日、尊の中で何かが首をもたげた気がしたのだった。


 その後、復帰した真輝は尊に連休をくれた。

 琥珀亭の定休日は元旦の一日だけだ。尊と真輝は交代で週に一日、休みをとっているのだが、この連休は迷惑をかけたお詫びのつもりらしかった。

 尊は、恵庭市にある暁のバルに飲みに行くことにした。彼に訊いてみたいことがあったのだ。


「ねぇ、暁さん」


『エル・ドミンゴ』の新メニューだというムール貝のパエリアを頬張りながら尊が口を開く。


「なに? 不味い?」


「いや、パエリアは美味いですよ。盛りつけも参考になるし」


「よかった。んで?」


 暁がコロナを飲みながら言葉を待つ。


「暁さんって、真輝さんの本棚見たことあります?」


「ん? あぁ、正義が生きていた頃は何度か遊びに行ったけどなぁ。本棚がどうかしたの?」


「いえ、実はこの前、真輝さんの本棚を見たんですけど……」


 そこまで口にすると、暁が盛大にコロナを吹き出した。


「尊君、真輝の部屋に入ったの?」


 むせながら涙目になってる。


「いや、変な意味じゃなく!」


 慌てて真輝が寝込んだ話をすると、彼は顔をしかめながらコロナの空き瓶をゴミ箱に捨てた。


「まったく、あいつは昔から無茶ばっかりして」


「あぁ、やっぱり強がる性格なんですね」


「それで、本棚がどうしたって?」


「真輝さんの本ってジャンルがバラバラじゃないですか。あれって、どういう基準で選んでるんですかね?」


「あれは、ちゃんと法則があるんだよ」


「教えてくださいよ。なんだか気になるんですよね」


「そんなの、真輝に訊けばいいだろ」


 素っ気ない暁に、苦笑いする。


「実は、この前初めて真輝さんが正義さんのことを話してくれたんです」


「へぇ、話したのか」


 暁の表情に軽い驚きが滲んだ。


「正義さんの話をしたあとに、あの本は彼の趣味ですか? なんて訊けなくて」


「ま、そりゃそうだな」


 暁が笑い飛ばす。


「シェイクスピアは別格だから除くけど、他の本はみんな共通点があるんだ。元は正義の趣味だけどね。俺も古本屋まわったりして協力させられたな」


「共通点?」


 すると、暁がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。


「尊君ならわかりそうなもんだけどな」


「俺、本って読まないんですよね」


「いや、そうじゃなくてもわかるよ。そうだな。じゃあ、ヒントをやるよ。謎解きみたいで面白いから答えは自分で考えな」


 そう言うと、彼はウオッカを取り出した。


「答えみたいなもんだけどね」


 彼は呟きながら、なにやら楽しげに手を動かし始めた。

 グラスの縁をレモンでなぞり、皿の上に乗せたグラニュー糖に軽く押し当てた。持ち上げたグラスは、縁をまるで雪が飾っているようになっている。

 シェイカーにウオッカとホワイト・キュラソー、そしてライムを入れて振ると、さっきのグラスに注ぎ込んだ。そして最後に緑色のチェリーが白く澄んだ酒で満たされたグラスに沈められる。


「『雪国』だよ」


 暁が「サービスだよ」と付け加えて笑った。

 カクテルを口に含むと、すっきりしているけれど辛すぎることもない。砂糖を舐めながら、しげしげとグラスを見た。


「マリモみたいですね」


「尊君さぁ、せめて雪を戴く松とかさ、雪解けを待つ若葉とかさ、それくらいのこと言ってくれない? この名前は川端康成の『雪国』が由来なんだ。どうだ、もうわかっただろう?」


「全然ですよ。確かにその本も棚にあったけど」


「えぇ? じゃあ、他に何の本があったか覚えてる?」


「えっと、ヘミングウェイと……えっと……」


「レイモンド・チャンドラーに『ゴッドファーザー』もあったと思うけど?」


「あ、そういえばそんな気がします」


「尊君、鈍いな」


「教えてくれてもいいと思うんですけど」


「尊君の顔が面白いからやめておく。ていうか、なんでそんなに気になるの?」


 尊はただ黙っていた。何故かはわからない。ただ、正義が何に感銘を受けたか興味があった。『まずは敵を知れ』ということかもしれない。


 翌日、尊は車で坂道を上り、煉瓦造りの市立図書館を訪れた。初夏なら新緑が眩しいのだが、あいにく今の時期は灰色の木々に囲まれていた。

 千里の姿を探したが、カウンターにはいなかった。休みか、そうでなければ休憩かもしれないと諦め、文庫コーナーに向かった。

 川端康成の『雪国』はすぐに見つかった。だが、問題はこれからだ。なにせ作者とタイトルがうろ覚えなのだから。

 検索システムでも使おうかと考えあぐねていると、不意に後ろからぽんと肩を叩かれた。


「尊さん」


「あ! 千里ちゃん!」


 思わず声が大きくなり、慌てて口をふさぐ。

 尊の後ろに立っていたのは、大地の彼女である千里だった。クリスマス前にショッピングモールで会って以来だが、変わりはないようだ。ただエプロン姿がなにやら新鮮だった。


「こんにちは。あのときは、ありがとうございました」


 そう小声で言うと、彼女は深々と頭を下げている。

 何の礼だろうときょとんとしたが、大地と千里の分の会計を自分と真輝が出したのを思い出した。


「いや、全然いいんだよ。それより、助けてくれるとありがたいんだけど」


 事情を話すと、千里が小さく唸って腕組みをする。


「ヘミングウェイの作品は、どれかわかります?」


「それがねぇ……なんたらの島々とかだったような」


「あぁ、それじゃ『海流の中の島々』ですよ」


 即答する彼女に、さすがは司書と舌を巻く。


「あとはレイモンド・チャンドラーでしたっけ?」


「うん、これはタイトルが全然思い出せない。文庫で、背表紙は青だったってことくらい」


「じゃあ、ハヤカワ文庫かな」


 そう言って、ずらりと並ぶ本棚を目で追っている。


「ハヤカワ文庫のチャンドラー作品は背表紙が青いんですよ。けど、色々あるんですよね。さらば愛しき女よ、長いお別れ……」


「あ、それかも。長いお別れ!」


「よかった。あとは『ゴッドファーザー』ですね」


 彼女は手際よくすべての本を揃え、手渡してくれた。


「助かったよ、ありがとう。まるで歩く検索システムだね」


「お役に立てて嬉しいです。それで、共通点はわかりましたか?」


「……全然。千里ちゃんは?」


「多分、ですけど」


 多分と言うわりに、その目は自信ありげだ。


「でもこれ、尊さんは気付くべきですよ」


「わからないから、こうして真冬の坂道を登って来たんじゃないか。もう、みんなして意地悪だな」


 すると、千里はくすくすと笑った。


「尊さんって、拗ねると可愛いです」


「はいはい、降参だから教えてよ」


「これ全部、お酒が関係している本なんですよ」


「お酒?」


 思わず目が丸くなった。『雪国』はともかく、『海流の中の島々』や『長いお別れ』は酒に関係があるタイトルには思えなかった。

 そんな尊を見透かしたように、千里が解説する。


「ヘミングウェイは『ダイキリ』ってカクテルを愛したことでも有名ですし、この本にはお酒がたくさん出てくるんです。『長いお別れ』には『ギムレットには早すぎる』って名台詞があるんですよ」


 千里が尊の手の中にある『雪国』と『ゴッドファーザー』を指さした。


「そっちの二冊は、そのままカクテルの名前になっているじゃないですか」


「あぁ、そういえば『ゴッドファーザー』もそうだね。なるほど、暁から鈍いなんて言われる訳だ」


 いかにも琥珀亭のバーテンダーらしい本の選び方に、思わず口元が緩んでしまった。


「この本、借りていきます?」


「そうしようかな。まだまだ俺、勉強不足みたいだし」


 苦笑して、図書カードを彼女に差し出した。

 千里に礼を言うと、妙にすっきりした気分でアパートに戻る。

 テーブルに借りてきた本を並べると、まず『雪国』を手に取った。それが一番薄かったのだ。

 川端康成の才覚で溢れる有名な書き出しが尊を待っていた。

 こんなに真剣に本を開くのは、カクテルブックを見るとき以外にはないかもしれないと思いつつ、読み進める。

 ふと、ページをめくるうちに、駒子のある台詞で出逢った頃の真輝を思い出したのだ。

 不気味に赤く染まる月を見上げる横顔は、いまだに鮮明に脳裏に焼き付いている。赤い月を『綺麗』だと言った驚きまで、昨日のことのようによみがえった。

 尊はあのとき、真輝をなんとなく好きだと思った。自分とはまったく違う物の見方をするところも、あの綺麗な顔も。

 今はもっとはっきりと、真輝が好きだ。ただし、それは何故かわからないし、一度も好きだなんて口にしたことはない。

 本を手に目を閉じてみる。真っ暗な視界の中、すうっと長く息を吐き、そしてまた目を開ける。そこには琥珀荘のお世辞にも綺麗とは言えない壁がある。

 もうあの頃とは違うのだと、急に彼は悟った。それは自分の中にある『真輝』という名残を見つけてしまった瞬間でもあった。

 尊はすぐさま、携帯電話を手にした。選択した電話番号は暁のものだ。


「もしもし」


「暁さん、俺、わかりましたよ」


「あぁ、簡単だったろ?」


「はい……とても」


 とても簡単なことだ。

 どうして正義の本棚が気になるのか。それは、自分が正義のいた場所にいたいと願うからだ。彼にあって、自分にないものって何かを知りたいのだ。真輝が彼に惹かれた手がかりを掴みたくて焦っている。

 そして、それに気付いたとき、彼はもう一つのことを悟った。

 真輝から選ばれない恐怖と惨めさから、逃げていたということだ。就職活動の辛さや忍耐から逃げたように。

 彼女のそばにいたい。こっちを向いてほしい。彼女に触れたい。そんな願望を持ちながら、暁のように気持ちをさらけ出すこともしていない。どうやって踏み出せばいいのかわからない顔をして、正義に敵わないという言い訳で逃げた。立ち向かう勇気すらないのだ。

 就職を他人任せにしていた頃と何一つ変わってない自分に、彼は唇を噛んだ。『わからない』という言葉で自分を煙に巻いて、この気持ちを真っ正面から見ていなかった。だが、こうして気付いてしまった今、現実は残酷だった。

 『雪国』の中で駒子が人生を紡ぐ姿に、現実の雪国で尊が抗う。


「俺はあんたじゃない。好きだとも言わずに別れたくない」


 そして『雪国』の島村に言い放つ。


「俺はどんなに味気なくたって、彼女との毎日を終わらせたくないんだ」


 彼女のそばにいたいと願う自分に足りなかったもの。それは覚悟だ。

 真輝が正義の名前を寝言で口にしたとき。それだけで胸はえぐられたようだった。

 だが、正義の影を抱える彼女に寄り添うつもりなら、それすらも受け止めて包み込むくらいの気持ちがない駄目なのだろう。

 どこかで「いつになったら俺を見てくれるんだ」という焦りや苛立ちがなかっただろうか。彼は自問自答する。

 誰かに『こうして欲しい』と願うとき、人はまず自分から譲って寄り添って動かなければ、相手の心には何も届かない。いつか、喫茶店のマスターがそう教えてくれたことがあった。

 ふと、尊は自分が履歴書を持って琥珀亭に押しかけたときのことを思い出した。あのときの自分は確かにちょっとした覚悟を持てていたはずなのに、真輝への想いに対してはどうだろう。

 彼は文庫を閉じ、ゆっくりとクローゼットを開けた。中から取りだしたのは、バーテンダーのベストだ。これを初めて借り受けたとき、『誰の物だろう』と訝しく思った。今となってはすっかり自分のものになってしまったが、これは正義のベストだったのだろう。

 着ていた服を脱ぎ、いつものバーテンダーの格好で身を包む。鏡の前に立つと、見慣れた白と黒を纏う自分が映る。ベストを羽織った胸を張り、一人で呟いた。


「俺が引き受けます」


 ベストも、琥珀亭も、そして真輝も。自分が明日へ繋ぐ。そう決意した彼は、革靴を履いて琥珀亭に向かった。今日は真輝が一人で店を切り盛りしている。彼はこのとき、無性に彼女のそばに立っていたかった。

 琥珀亭に着くと、驚く真輝をよそにカウンターに並ぶ。このときのことをお凜さんはあとで大地にこう話した。


「尊ってば、あの日から急に凛々しくなってね。あたしゃ、肝を据えた男ってのが大好きだよ。けど、そのときの尊はなんだか泣きそうに見えたね」


 彼女の言う通り、尊は泣きそうだった。

 この日、彼は『人は誰かをこんなにも好きなんだと気付いた時でも泣ける』と知ったのだった。

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