第7話 ホット・バタード・ラムの子守唄
北海道の紅葉はすぐに散ってしまう。
真輝と赤く染まる山々を眺めながらキノコ汁をすすりたいと思っていたのも儚く、街路樹がみるみるうちに裸になっていった。
あれ以来、時々ではあるが、真輝は仕事帰りに牛丼屋に誘ってくる。それは正義のことで淋しく思っていたからか、それとも単に牛丼が気に入ったのかは知らないが、尊には嬉しかった。
本当はもう少しムードのある店に行きたいと思うのだが、彼女が嬉しそうに牛丼を頬張るのを見ているうちに、どこでもいいやと思えるのだ。
琥珀亭とアパートの往復、ときどき牛丼屋。そんな毎日を送っているうちに、知らず知らず季節だけが流れていって、一晩越すごとに寒さが忍び寄る。そろそろ初雪のニュースが舞い込む頃かと思えば、気の早いことにもうクリスマスソングがいたるところで流れ始めていた。
ある晩、グラスを磨きながら真輝が言う。
「尊さん、明日でも一緒に買い物行きませんか?」
「酒でも買うんですか?」
「違いますよ。そろそろクリスマスじゃないですか。ツリーを買おうと思って」
「ツリー? 店に飾るんですか」
「去年までは小さいガラスのツリーを飾っていたんですけど、割っちゃったんですよね。店に出すものだから、一緒に選んだほうがいいかなと思って」
嬉しい申し出だった。すっかり琥珀亭の一員になった気分だ。思えば、夏には氷を割ることもできなかったが、仕事にも慣れ、今では丸氷作り担当になっている。琥珀亭に馴染んできたことが嬉しく思えた。
「じゃあ、明日は俺が車出しますよ」
「いえいえ、言い出したのは私ですから、私の車でいいですよ。運転、好きなんです」
結局、真輝が運転することになり、十時にアパートの前で待ち合わせをした。デートというには名目が仕事絡みだが、二人きりで買い物には違いない。明日が待ち遠しいなど、小学校の遠足以来かもしれない。
その夜、尊は琥珀荘の玄関フードをうろついていた白猫のピーティーを部屋に招き入れ、彼女にそっと囁いた。
「なぁ、ピーティー。理由なんてなくても一緒に出かけられたらいいのにな」
ピーティーはキャットフードに夢中だったが、尻尾の先だけパタパタ動かし、返事してくれたようだった。
翌朝、尊はピーティーの鳴き声とのしかかる重みで目を覚ました。ピーティーが軽く爪をたてて頭をぽんぽんと叩いてくる。外に出せと言っているらしい。
「おはよう。猫の朝は早いな」
尊は苦笑して、頭をかきながらピーティーを外に出してやる。
時計の針は九時をさしていた。白猫は丁度いい時間に起こしてくれたようだ。
身支度を調えるうちに、だんだんと目が冴えてきて、どぎまぎしてきた。クローゼットの前で何を着ていこうか迷い、立ち尽くす。こっちの服を出してはそっちの服を引っ込め、あっちの服と合わせてみる。まるでデート前の女の子だが、生憎男だし、デートでもない。仕事上の買い物だ。
「そうなんだよな。デートでもあるまいし、悩む必要もないよな」
自分で口にしておきながら、なんだかしょんぼりする。普段と同じジーンズにしたが、せめていつもと違う自分を見せておきたい気持ちは捨てきれず、いつもならコンタクトをするところをメガネにしてみた。髪をワックスで整え、ふうっと長い息を吐き出した。
時計を見ると約束の時間の十分前。結構あれこれ悩んでいたせいかあっという間に感じた。慌てて財布をジーンズのポケットにねじこみ、よろけながらブーツを履く。
玄関の鍵を閉めながら真輝の部屋を見ると、入り口の前で黒猫のスモーキーが丸くなって寝っ転がっていた。彼は尊を見上げ、ゆっくりと瞬きをする。まるで「真輝をよろしくな」と言われているようだった。
「任せろよ、スモーキー。なぁに、ちょっとした買い物だけさ」
そのくせ、階段を降りる足取りが嘘みたいに軽い。一緒に車に乗れるというだけでこうも浮かれるなんて、なんて簡単な男だろうと我ながら呆れた。でも、悪くない。
アパートの駐車場に駆け寄ると、思わずにんまりした。真輝がもう車の前で立って待っている。彼女はブーツにスカート、薄手のジャケットに鮮やかな水色のストールを上品に巻いていた。髪はゆるやかに結い上げられている。
「おはようございます」
にっこり微笑む彼女に、口ごもりながら挨拶を返す。何か気の利いた言葉で今日の出で立ちを誉めたいと思ったが、気の利いた言葉が咄嗟に出てこない自分が少し情けなくもあった。
「あの、やっぱり俺が運転しますよ」
真輝の愛車である赤いミラを見ながら、おずおずと言った。男の自分が助手席というのも気が引ける。
「気にしないで。もう暖気してありますから」
そう言って、真輝は「気にしない、気にしない」とさっさと運転席に乗り込んでしまった。
「お邪魔します」
恐る恐るドアを開け、助手席に乗り込む。あらかじめエンジンをかけてあったおかげで、車内は温かく、フロントガラスにも雪や氷がない。車の中がいい匂いでのぼせそうだった。
シートベルトを締めると、真横にある彼女の存在感に胸がいっぱいになった。助手席に座ること自体が新鮮だが、隣に誰かがいるというのは、それこそ久しぶりで心が躍った。
だが、ふと目に飛び込んできた物が尊の胸をぐっと絞めた。座席の脇に置いてあるガムのボトルを見つけ、暁さんが言っていた『車の中にガムを置くのも、正義の名残』という言葉を思い出したのだ。近くなったと思ったら、一気にぐっと距離を置かれた気分だった。
そんな尊に気付かず、彼女は「アイスバーンじゃなくてよかったですね」と呑気にシートベルトを締める。
「今日はお昼も食べて帰りましょうか。そのあとは酒屋さんに行きませんか? あと、クリスマスに来てくれたお客様のためにちょっとしたサプライズプレゼントも用意したいと思っているんですけど」
彼女の口調は弾んでいて、目が輝いていた。尊は思わず笑みを漏らす。今日の彼女はまるでクリスマスにはしゃぐ子どものようだ。
真輝はそれに勘づいたのか、急に顔を赤らめてしまった。
「あの、すみません。私、クリスマスの買い物って大好きで、浮かれちゃいました。仕事なのにね」
彼女の照れ笑いを初めて見たと思うと、ガムのボトルなんてどうでもよくなってきて、吹き出してしまう。
「せっかくだから、楽しんじゃいましょう。クリスマス本番は仕事なんだし、せめて今日はめいっぱいクリスマス気分味わっちゃいましょう」
尊が目を細めて言うと、真輝の顔が明るくなる。
「はい! 楽しみですね」
店で見る大人びた顔つきは、今はどこにもない。あどけなくて、クリスマスが大好きな一人の女の子がここにいる。尊までつい破顔してしまった。
琥珀亭での彼女は冷静であまり感情を表に出さない。いつも凪いだ海のように穏やかだ。だけど、本当は浮き沈みが激しい人なんだと考えていると、なにやら隣から視線を感じた。真輝がじっと尊を見ているのだ。ぎくっとして、慌てて顔をさすった。
「な、何かついてます?」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
今度は真輝が慌てた。
「なんだか、前にもこんなことがあったような気がして……」
そう言うと、彼女の目は伏せられた。多分、いつかのクリスマスに正義とこんな会話をしたんだろうと、ひしひしと彼の影を感じた。
目を背けたいし、耳をふさぎたい。今日一緒にいるのは正義ではなく、自分なんだ。そう思うと、尊はいつしか、唇を強く噛みしめていた。
真輝が気を取り直したように、ゆっくりと車を車道に向かわせる。
「さぁ、行きましょうか」
「あ、はい」
正義のことを忘れたい一心で、いくつか準備しておいた話題を振ろうと口を開く。
ところが、このあと、尊はろくに喋ることもできず必死にシートベルトを握りしめることしかできなかった。何故なら、真輝の運転はとてつもなく荒かったのだ。
千歳市には、中心街から車で数十分走ったところにショッピングモールがある。そこが今日の目的地だった。
「うわぁ、駐車場いっぱいですね」
驚く真輝に、尊はげっそりとした顔つきで答える。
「そりゃそうですよ。クリスマス前の週末ですから」
「尊さん、酔いました? 大丈夫?」
真輝は自分の急ブレーキ急発進、おまけにスピードが出すぎだという自覚がないらしい。心配そうな顔で尊を見ているが、尊にしてみれば真輝のほうが心配になる。
「……大丈夫です。あ、ほら、あそこ空いてますよ」
駐車まで急ブレーキで、体がつんのめった。シートベルトを外し、ドアを開けながら、帰りは絶対、自分が運転すると心に決める。雪を踏みしめて心から安堵した。
「さ、行きましょう。滑るから気をつけて」
気を取り直して真輝に声をかけると、彼女は「はい」と微笑んだ。
ショッピングモールの中は電飾とクリスマスソングで浮き足だっている。それにつられて、尊もだんだん足取りが軽くなった。肩のところにある真輝の気配にどぎまぎしながら、通路をゆっくり歩く。
真輝は蝶のようにあっちの店からこっちの店へ渡り歩く。
「ねぇ、この白いツリーに青いライトもいいですよね? でも、ちょっと大きいですか?」
「かもしれないですね。真輝さんの片手に収まるくらいでいいんじゃないですか?」
「すごくいいんだけどな。この先に雑貨屋ありましたよね。そっち行ってみましょうか?」
普段の尊の普段の買い物は早い。あらかじめ欲しいものが決まっていれば、店に直行して「これでいいや」と、即決してしまうタイプだ。真輝のように他の店も見てから検討することはしない。そのせいか、彼女の買い物は時間がかかりそうだと驚いたものの、それでも悩んだりはしゃいだりしている姿を少しでも長く見ていられるだけで自然と口元が緩んでくる。
結局、真輝はショッピングモールを一周してから、最初の店で見たツリーを購入した。尊が即座に買い物袋を受け取る。
「はい、荷物はこっち」
真輝は「ありがとう」と少しはにかんでいた。こういうやりとりが久しぶり過ぎて、新鮮に感じる。
「他に欲しいものありますか?」
「お客様にクリスマスプレゼントを買いましょうよ。さっき、北欧雑貨の店によさそうなものがありました。それにインド雑貨の店に行きたいです」
「へぇ、真輝さん、インド雑貨も好きなんですか。いいですよ。行きましょう」
真輝が張り切って歩き出す。鼻歌でも飛び出そうなほど元気な彼女の後ろ姿に、笑みが漏れた。
ふと、ショーウィンドウに自分たちが映っているのに気付く。端から見たら、恋人同士に見えるだろうかと、ついにやけてしまった。
一緒にクリスマスプレゼントを選びにきた恋人同士、それとも買い物好きな彼女に振り回されてる彼氏かと思われているかもしれない。だが、どちらにしても、尊にとっては、こんなに素敵な真輝が一緒に歩いてくれるだけで鼻が高いし、最高に気分がよかった。
そのとき、不意に大学時代の彼女の姿がよぎる。女性と連れだって歩くのは、彼女と別れて以来だった。
その彼女も、相当な買い物好きだったと、懐かしく思い出す。つい「まだかよ」と、文句を言っていたが、今思えば一緒に買い物を楽しんでおけば、今みたいに気分よく二人とも過ごせたのかもしれない。
……悪いことしたよな。元気でやってるかな。そんなことをぼうっと考えていると、不意に真輝が振り返った。
「尊さん、お昼どうします?」
「え? あぁ、真輝さんの好きなものでいいですよ」
慌てて言うと、彼女は隣を歩きながら指折り数える。
「このモールにあるのはハンバーガーと、中華料理と、カフェと、回転寿司かな……?」
デートなら、カフェが無難なんだろうけどね。そう思った矢先、真輝が元気よく言う。
「回転寿司はどうです?」
尊は笑ってみせたものの、ちょっと唇が引きつるのを感じた。デートではないという事実をつきつけられた気がして、さっきのショーウィンドウを見て抱いた妄想が恥ずかしくなってきた。
「いいですよ。じゃあ、雑貨屋より先に行きましょうか。お昼になっちゃうと混みますから」
そう言いながら、ため息を押し殺す。朝には『デートじゃない』と自分に言い聞かせておきながら、一体何を期待しているのか。
その時、威勢のいい声が背後から聞こえた。
「真輝さん! あ、尊さんも!」
どこかで聞いたことのある声だと振り返ると、遠くから勢いよく手を振ってくる男がいた。
「あ、大地!」
嬉々とした真輝の声に、「あぁ」と合点がいく。歩み寄ってくるのは、小料理屋で会ったお凜さんの孫だった。
今日の彼は店で見た白ずくめの板前の格好とはほど遠い。ダウンジャケットにヴィンテージもののデニム、足もとは黒いブーツというラフな格好だが、その姿も様になっていた。そして、その隣には小柄で色白な女の子がいる。おそらく、彼らはデートだろうと思われた。
「大地、こんにちは。千里ちゃんも元気?」
二人に真輝が微笑んだ。「はい!」と大きな目を輝かせる大地の隣で、千里というらしい女の子が静かに会釈をする。大地と対照的に大人しそうで、小動物を思わせる可愛らしさがある。
「あ、尊さんは初めてですよね? この子、俺の彼女で千里って言います。図書館司書なんですよ。千里、尊さんは琥珀亭の新しいバーテンダーで、真輝さんのお弟子さんだよ」
慌てて礼をしながら、『お弟子さん』と言う古風な響きに、お凜さんも教室の生徒さんをそう呼ぶことを思い出した。
千里はそんな尊に、はにかみながら礼を返した。
「よろしくお願いします」
その声は小さく、大人しい印象だった。顔立ちはまるで人形のように可愛らしかった。ぷっくりした桃色の唇が印象的で、会釈した弾みで、ロングのゆるやかパーマがふわりと揺れた。
「真輝さんたちも買い物ですか?」
大地がにこやかに笑いながら、真輝と尊を交互に見やった。一緒にいるところを見るのは初めてだから物珍しいのだろう。
「お店に飾るクリスマスツリーを買いに来たの。大地たちは?」
「俺たちはお互いのクリスマスプレゼントを選び合うんですよ」
「いいわね」
「いいでしょう」
破顔する大地の隣で千里が頬を染めているのが初々しい。
真輝も尊と同じ気持ちらしく、なにやら眩しいものでも見るように目を細めていた。
もじもじと大地の影に隠れてしまいそうな千里と目が合う。尊がにこやかに笑ってみせると、やっと少しほっとしたような笑みを返してくれた。
ふと、大地が「あぁ、そうだ」と声を上げた。
「俺たち、これから昼飯なんですよ。真輝さんも尊さんも一緒にどうですか?」
「お前ら、せっかくのデートなのに? 俺たち、回転寿司だけど、いいの?」
思わず尊が念を押す。二人きりでもなくなるし、回転寿司では、ムードもなにもあったものではない。千里の様子を見る限り、付き合って間もないのだろうが、あとで喧嘩になっても責任を持てない。千里も不安そうに大地と尊たちを交互に見ている。
そんな尊の気遣いをよそに、大地が「寿司、いいですね!」と目を輝かせる。
「ご飯は大勢で食べたほうが美味いですよ。千里も寿司大好きだもんな?」
無邪気に問いかける大地を見ていると、これが『女心がわからない男』の典型のような気がした。千里は再び尊を心配そうな目で見て、遠慮がちに頷いた。
本当にいいのかと千里に訊こうとすると、隣で真輝が「いいねぇ」と呑気な声を上げた。
「じゃあ、みんなでお寿司食べようか」
「よし、じゃあ行きましょう!」
先に歩き出した三人の後ろ姿を、なんだか妙なことになったと頭をかきながら追いかけた。
幸い、早めに昼食にしたのは正解だったようで、店はそれほど混み合っていなかった。
彼らはボックス席に案内されると、尊と真輝が隣り合わせに座り、その真向かいに大地と千里が腰を下ろした。
真輝がすぐに「はい、どうぞ」と、茶を手渡してくれた。
「あ、すみません」
くすぐったいやりとりに、照れていると、斜め向かいの千里も、箸を差し出してくれた。
「あの……お箸、どうぞ」
「ありがとう」
千里はそれからも、ガリを小皿によそい、他に注文がないか訊いてくる。そのかいがいしい様子に、なんていい子なんだとしみじみしながら茶をすすっていると、真輝の携帯電話が鳴った。
「……ちょっと失礼」
彼女は電話を手に、そそくさと外に出て行く。
『誰からかな』などと考えながら、もう拭いたはずの手をもう一度おしぼりで拭いていると、おずおずと千里が声をかけてきた。
「あの、尊さん。すみませんでした。せっかくのデートを邪魔して」
「へっ?」
不意を突かれた尊を、彼女は心配そうな上目遣いで見ている。大地が目を丸くして、身を乗り出した。
「えっ、俺のせい? ていうかデートだったんですか、尊さん!」
ただでさえ大きい目を更にくりくりさせている大地に、思わず呆れながら笑ってしまった。
「違うよ。いや、こちらこそごめんね、千里ちゃん。君こそ大地と二人きりがよかったんじゃない?」
そう言うと、千里がはにかむ。
「いいえ、私たちはいいんです。二人きりじゃなくても楽しいですから」
すると、大地が自慢げに胸を張る。
「俺たち、今度のクリスマスで付き合って五年なんですよ」
「五年も付き合ってるの? てっきり、付き合って間もないんだと思ってた。すごいな、俺、五年も付き合い続けたことってないな」
「千里は慎ましやかだから、よくそう言われるんですけど、こなれた二人ってやつですよ」
「大地、なんでお前が偉そうに胸を張ってるの」
大地に苦笑していると、千里が眉尻を下げた。
「あの、気のせいだったらすみません。大地が食事に誘ったとき、尊さん、がっかりした顔してたから」
「あぁ、違うよ! 千里ちゃんが二人きりで食べたいんじゃないかって思っただけなんだ。俺たちは全然」
いや、正確には全然でもなくちょっと残念だけど、と言いかけ、慌てて言葉を飲み込んだ。
「いや、ほら、千里ちゃんが渋々承知してくれたんじゃないかなって申し訳なくって」
「そうだったんですか。私、尊さんは真輝さんと二人で食べたかったんじゃないかなって気になったものですから……」
お互い妙な心配をしたものだと思うと、ふっと笑えてきた。
「ねぇねぇ、尊さん。本当にデートなんですか?」
腰を浮かす大地を「ばぁか」と一蹴する。
「仕事の買い物だってば。初めてのデートで回転寿司に来るか?」
尊の言葉に、二人はきょとんとして顔を見合わせた。かと思ったらいきなり笑い出す。
「尊さん、回転寿司で初デートっていいじゃないですか!」
白い歯を見せる大地に同意するように、千里も大きく頷いた。
「そうですよ。かえって気心知れている感じがしていいですよ」
尊は辺りを見回して苦笑すると、大地に声をひそめた。
「だってさ、なんか家族連れとかこなれた二人しかいないぞ」
「だからいいんじゃないですか。初めてのデートで回転寿司って、家族みたいに特別な心が安らぐ相手というか、素の自分をさらけ出せるって感じがします」
「真輝さんの素の自分なら、もう知ってるぞ。牛丼屋にたまに付き合わされるからな」
「……真輝さん、大食いですよね」
大地が笑いをかみ殺した。千里が肘でつついてたしなめる。
「もう、大地ってば。でも、本当そうですよ。別に夜景の見えるレストランじゃなくても、この人ならどこでも許せるというか。黙ってそばにいてくれるだけで、ほっとする感じがします」
そういうものかと、尊は小首を傾げる。確かに真輝はどこに行っても美味しくご飯を食べるだろうから、場所はこだわらなさそうだが。
尊は並んで座る大地と千里を交互に見ながら、確かにこなれてると感心した。第一印象は正反対の二人でも、一緒にいてちっとも違和感がない。同じ空気を纏っているとでも言うのだろうか。
自分と真輝もいつかそんな風に見られることができるだろうか。そう考えると、この年若い二人が心底羨ましかった。
「ちなみに、大地たちの初デートの食事はどこだったの?」
すると、二人は声を揃えて答える。
「定食屋さんです」
「なんでまたいきなり」
「それは二人の歴史ですから、これ以上は秘密です」
でれっとした大地に冗談でおしぼりを投げてやると、ふっと笑う。
「まぁ、残念ながらデートじゃないんでね。今後の初デートの参考にさせてもらうよ」
すると大地が「え!」とまた目を丸くする。
「尊さん、デートじゃなくて『残念』なんですか! 真輝さんのことどう思ってるんですか?」
「どうって……」
目を輝かせている二人を前に、思わず考え込んでしまった。
確かに好きだ。しかし、今までの恋愛とはちょっと勝手が違う。
彼には暁のように自分から彼女の閉ざされた闇を切り開こうという勇気が持てずにいた。なんとかしてあげたいとは思うものの、どうにでもしてやるという衝動はない。
正義に立ち向かっていく意欲が持てないままなのは、自信が持てないのだ。自分より男前で腕のたつバーテンダーの暁が敵わない男相手に、勝ち目などあるとは思えなかった。
それに、寝ても覚めても彼女のことを思い描いているわけではない。毎日、午後四時にもなれば嫌でもバーで顔を合わせる。いまや親よりまめに会っている存在なのだ。
仕事が終わったあとや、休みの日ともなれば、何をしているか気になることはあるが、どうしてもすぐに会いたいというほどでもなかった。このところ、隣で牛丼を頬張ったり、他愛もない話をしているときが一番心地よかったりする。
だが、熱意がないと言いながら、一緒に出かけると浮き足だつ自分に矛盾も感じる。
だが、尊は、ややぬるくなった茶をすすり、目を伏せた。
自分が彼女に何を望み、何を望んで欲しいのかわからなくなってきた。ただ、どこかでこの奇妙な心苦しさというか、重くのしかかる心境に覚えがある気がする。それがいつの出来事だったすらわからないが。
「ねぇ、尊さんってば!」
せかす大地から逃げるように、背もたれに身を預けた。
わかんないよ、俺にだって。そう言いかけたときだ。
「ごめんなさい、仕入れ先から電話だったものだから」
真輝が携帯電話を手に帰って来た。
「なんだか楽しそうだったけど、なんの話をしていたの?」
大地が何かを言いかけるのを遮り、尊は微笑む。
「なんでもないですよ。それより、酒屋さんですか?」
そう、なんでもない。尊は自分に言い聞かせるようにしながら、黙って真輝が酒屋で取り寄せた酒の蘊蓄を聞いていた。
食事が終わり、大地たちと店の前で別れる。その間際、千里が微笑んでこう言った。
「尊さん、私、市立図書館にいますから是非いらしてくださいね」
「おう、ありがとう」
本なんて滅多に読まないけど、と苦笑しながら手を振る。
歩き出した二人の後ろ姿を、真輝が微笑みながら見送っていた。
「いつ会っても可愛い二人なんですよね」
そのとき、真輝の横顔に消え入りそうな影を見た気がした。このままどこか遠くに行ってしまいそうな翳りが彼女を包んでいる。
「行きましょう」
尊は思わず声を固くし、先に歩き出した。真輝がゆっくりとついてくるが、歩幅を合わせるので精一杯で横顔を見る勇気がない。
以前、真輝の翳りを見たときにはわからなかったが、今ではいやでも想像がつく。彼女があの顔になるときは、正義を思い出しているのだ。
買い物を済ませて駐車場に戻った頃には、真輝の顔から翳りは消えていた。だが、尊の心にはささくれだった小さな尖りが出来てしまった気がした。
ふと、駐車場の入り口に自動販売機があるのに気付く。
「……ちょっと待っててくださいね」
彼は財布から小銭を取り出すと、迷わずブラックコーヒーを二つ買った。
「はい、どうぞ。食後の一杯には遅くなりましたけど、車の中であったまりましょう」
「あ、ありがとうございます」
おずおずとコーヒーを受け取り、彼女は尊を凝視した。
「あの、どうしてブラックコーヒーが好きだってわかったんですか?」
「……さて、どうしてでしょう?」
ふっと眉を下げて言葉を濁しながら、歩き出す。
「酒屋に行きましょうか。今度は俺が運転しますよ」
ブラックコーヒーの苦みを口の中に感じながら、尊はハンドルを切った。
正義の名残など、できることなら目を背けたい。知れば知るほど自分の無力さに打ちひしがれ、敵わないと思い知らされる。
だが、そう思うたびに、暁の『正義の名残があるからこそ、今の真輝だ』という言葉がよぎるのだ。
食後にブラックコーヒーを飲みたいなら、黙ってそれに付き合おうじゃないか。正義を思い出すからコーヒーを飲まないで欲しいなどと、とても言えない。彼女が忘れたくないなら、仕方ないのだ。
情けない気もしたが、自分にできることは、名残に浸る真輝に黙って寄り添うことだけだと思った。
ブラックコーヒーを飲んだあとは、一緒にガムを噛む。それで真輝が少しは落ち着くというのなら、苦しいけれど、喜んでそうするべきだ。
もし、一緒にコーヒーやガムを口にするのが正義ではなく、自分だということで余計に辛くなるんだとしたら、もっと苦しんで欲しいとも思う。違うと気付くことは、尊を見てくれたことになるのだから。
酒屋で酒を仕入れた頃には、辺りはすっかり夕暮れだった。
「開店に間に合いますか」
「大丈夫です。お通しは朝のうちに用意してありますし」
真輝はそう言ったきり、黙り込む。すっかり空になったコーヒーの缶をホルダーに置くこともなく、ずっと包み込むようにして持っている。
行きと違って、帰りの車の中は静かだった。ときどきは他愛もない話をするが、すぐに沈黙に包まれる。ゆったり流れるジャズだけがかろうじて静寂を破ってくれた。
彼女が静かなのは、疲れたせいではないと嫌でもわかる。信号待ちのとき盗み見た横顔が、また少し寂しげだった。
一緒にいるのにそんな顔をされるのは、報われない。そう思うと、なんだかちょっと意地になった。
「真輝さん、ジャズ好きなんですね」
まるで彼女の意識を自分に引き戻そうとするかのように、わざと元気よく声をかけた。
我にかえった真輝が慌てて「え、あ、はい」と何度も頷く。
「お凜さんがね、これだけは聴いておけって山ほどCD貸してくれたんですけど、よくわかんないんですよね」
ふと、真輝が目を細める。
「尊さん、お凜さんから気に入られたんですね」
「そうですか?」
「えぇ。そうやって世話を焼いてくれるのって、その証拠ですよ」
「でもね、どれから聴いたらいいか訊いたら、『心に響くもんからだ』なんて言うんですよ。全然参考にならなくて」
真輝は声もなく笑い、じっと車中に流れるジャズに耳を傾けた。
「私、この歌好きですよ」
流れているのはサラ・ヴォーンの歌う『バードランドの子守唄』だった。
「今日は真輝さんのいろんな面が知れてよかったです」
「そうですか?」
「えぇ。インド雑貨とか、『バードランドの子守唄』とか、琥珀亭にこもりっきりじゃわかりませんよね」
真輝がちょっと口元に笑みを浮かべ、すぐに窓の外に視線を移した。こっちを向いてほしい。そう思ったとき、暁の気持ちがわかる気がした。
雪で狭くなっている道を走りながら、大地の『真輝さんのことどう思ってるんですか?』という言葉を思い出す。
尊の胸の奥で何かが渦巻いている。これから『バードランドの子守唄』を聴くたびにもやもやしそうだと、途方に暮れた。
尊たちは琥珀荘に戻ると、すぐさまバーテンダー姿になって開店準備にとりかかった。
白と黒の制服で身を包んでいる間は男と女でもなく、バーテンダー同士だ。真輝は開店と同時にやってきたお凜さんに嬉々として新しいツリーを見せている。
そのいつも通りの笑顔に、グラスを磨きながら拍子抜けしたような、ほっとしたような不思議な気分になった。
さっきまでの悶々した気分を胸の奥に押し隠して、夢中で仕事をする。苛立ちと虚しさの入り交じった胸の内は次第に落ち着き、店が終わる頃にはいつも通りのやりとりをする尊たちがいた。
片付けをしようとした尊に、真輝が「あの」と声をかけてきた。
「今日の片付け、私がやっておきますよ。先にあがってください」
「え? なんでですか。俺もやりますよ」
「いえ、車の運転してもらったお礼です。それに、帳簿をつけてから帰りますから」
「わかりました。じゃあ、すみません、お先に失礼します」
尊は一人、琥珀荘に戻りながら首を傾げる。仕事を始めたばかりの頃はともかく、最近では先に帰されることなどなかった。
客へのクリスマスプレゼントに内緒でメッセージをつけるのかもしれないと思いつくと、真剣にプレゼントを選んでいた姿を思い出し、一人納得する。
尊はしんと静まりかえった琥珀荘の扉を開けながら、ふっとため息を漏らした。今日一日、真輝は楽しそうな顔をたくさん見せた。それが嬉しいはずなのに、一抹のやるせなさが尊を襲っていた。
自分の部屋の前でうずくまっていた白猫のピーティーを招き入れ、しんと静まり帰ったリビングで大の字に寝転んだ。
真輝に近づけたと思えば思うほど、どんどん遠くにいると感じることがある。手を伸ばしてするりと逃げていく陽炎のようだ。
「ピーティー、俺って情けないね」
そう話しかけたが、白猫はただ喉を鳴らすだけだった。
尊は腹の上に感じる重みと温かさでいつしか眠りについてしまったらしい。目が覚めると、時計の針は夜中の二時だった。
慌ててシャワーを浴びようとして、シャンプーをきらしていたことに気がついた。
「しょうがないな」
飲み屋街の向こうにあるコンビニまで出かけるために、渋々コートを羽織る。扉を開けると、キンと冷えて尖った夜気が頬を刺した。
真輝の部屋を見ると、窓はもう真っ暗だった。
「もう寝たかな。俺も早く寝よう」
床で寝たせいかバキバキする背中を伸ばしながら、飲み屋街を抜けようとしたときだった。
尊が思わず歩みを止める。まだ琥珀亭のシャッターが開いているのだ。
「おかしいな」
外灯は消えている。シャッターの閉め忘れだろうか。それとも、まだ帳簿をつけているのだろうか。
「こんなに遅くなるなら、やっぱり俺も片付け手伝ったのに」
真輝は、なんでも自分一人で抱えてしまい、背負いすぎるところがある。
もうちょっと頼ってくれてもいいのにと、唇を尖らせて足早にコンビニに行った。シャンプーだけでなく、真輝の好きなチョコレートも買い、急ぎ足で琥珀亭に戻る。
まだ、シャッターは開いていた。
階段を上がり、廊下に出てすぐ、ため息をついた。琥珀亭には灯りがついたままだった。ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
「尊さん? どうしたんですか?」
真輝はカウンターの席にいたが、振り向いて驚きながら腰を浮かせた。
「それはこっちが言いたいですよ」
尊は呆れながら、彼女に歩み寄った。
片付けはまだらしく、尊が帰ったときと何も変わっていなかった。真輝の前には、タリスカーのボトルと飲みかけのグラスが置かれている。
尊はカウンターの上に買い物袋を置き、タリスカーのボトルをひょいと持ち上げた。正義の好きだったウイスキーには、『真輝』と書かれた名札がかかっている。
「あれから、ずっと飲んでたんですか?」
「えぇ。なんだか今夜は眠れない気がして」
目を伏せる彼女がぽつりと呟いた。
尊はため息を押し殺し、黙ってその伏せた顔を見つめた。どうしてこの人は一人で耐えるんだろうと、やりきれなくなる。
「……もっとちゃんと見てなきゃな」
そうでなければ、真輝の押し隠した気持ちは読み取れない。自分の未熟さが身に染みた。
「えっ? 何をですか?」
きょとんとする真輝に答えず、尊はコンビニの袋からチョコレートを取り出した。
「ウイスキーにきっと合いますよ。俺も一杯いいですか?」
目を丸くする真輝を横目に、彼はカウンターに入ってグラスを取り出した。冷凍庫から氷を鷲づかみにしてグラスへ入れ、琥珀色の液体を氷の上に流し込む。そして、乾杯も言わず、思いきり一口飲み込んだ。
「くはぁ」
相変わらずのきつくてスモーキーな風味に、変な声が漏れた。
グラスを持ってカウンターから出ると、そのまま真輝の隣に腰を下ろす。二人で肩を並べ、ただただ黙って過ごした。何も言わず、隣に座って飲んでいるだけの時間が流れていく。
隣を盗み見ると、真輝の睫毛がいつもより長く見える。こんなときまで『伏し目が綺麗だな』などと感心する男のサガを振り払い、チョコレートの箱を差し出した。彼女は一粒だけつまんだが、それ以上は手をつけなかった。BGMのない店内に、氷が溶けて崩れる音だけが響く。
やがて、かすれた声がした。
「今日みたいに、色んなことを思い出した日は、眠れなくなるんです」
尊は何も言わず、タリスカーをちびちび舐めながら次の言葉を待つ。真輝はゆっくりと、まるで言葉を選んでいるように話しだした。
「大地と千里ちゃんみたいにプレゼントを選び合っていたなって思い出したり……」
つい正義と一緒にはしゃぐ真輝を想像し、尊は目を伏せた。
「男の人とこうやって二人で買い物に行くのって久しぶりだなって思ったり……」
それはお互い様だと、少し眉を上げる。尊も大学時代の彼女を思い出していたのだから。
「それに、私にブラックコーヒーを差し出してくれる人がまだいるんだなぁって思ったら、眠れなくなりました」
尊は思わず、グラスを両手で包み込むようにした。本当は彼女の顔をそうしてやりたかった。
真輝は泣いてはいなかった。けれど、その顔は歪んでいる。本当は心の中では泣いているのかもしれない。
尊はそっとグラスに垂れる水滴を拭う。真輝の涙を拭うつもりで優しく。
「もしかして、初めて牛丼屋に行ったときもそうじゃありませんか? 真夜中にいきなり牛丼食いに行こうって言い出したときですよ」
ゆっくり彼女のほうを向くと、横顔がこくりと頷く。
「あの日は同級生の結婚式でした。あぁ、私たちもあんな風に笑ってたって思い出してしまったんです」
誰かの隣に立つ花嫁姿の真輝など見たくもないが、それはとびきりの笑顔だったに違いないと思われた。暁が気も狂わんばかりになるほどの目映さだったのだろう。
「しょうがない人ですね」
尊は思わずそう言った。真輝はきょとんとしていたけれど、彼にはそうとしかいいようがなかった。
確かに、じっと一人で辛さや孤独に耐えることを『強い』と言うのかもしれない。けれど、彼女は差し伸べられた手をみつけることは下手なのだ。そして、誰かに救いを求めることも。
「真輝さんは、眠れない夜はいつもこうして飲んでるんですか?」
「はい」
「……スコッチが好きですか?」
タリスカーのボトルを顎で示しながら訊く。答えは暁から聞いて知っているけれど。それでも尋ねた。
彼女はちょっと唇を歪ませた。
「嫌いです。……なのに、好きなんです」
「……そうですか」
尊は一息つくと、観念したように笑う。
「じゃあ、今日からはこいつを飲むときは俺も一緒ですよ」
『嫌いだけど、タリスカーを飲む正義が好きだから』という理由を、いつか『嫌いだけどタリスカーを飲む時間が好きだから』に変えてみせる。尊はそう心に決めた。
「真輝さんは迷惑でも、俺は意地でも一人で飲ませませんよ。嫌ですからね、自分の職場や隣の部屋で誰かがしんみりしているなんて。こっちまで寝付きが悪くなります」
だが、返事がない。それでも尊はこう言い切った。
「吐き出す相手がいるでしょう?」
真輝はまだ俯いている。尊はバックバーを眺めて言葉を待っていたが、ふとラムのボトルを目にして「あっ」と声を上げた。
「……そうだ。真輝さんに、俺からクリスマスプレゼントがあります!」
いそいそとカウンターの中に入り、彼はヤカンに水を勢いよく入れた。真輝はおどおどしながら、その様子を見ている。
「あの、尊さん……何を……?」
尊はわざと明るい声を出し、微笑んだ。
「俺、これでも家で練習したりするんですよ。見ててくださいね」
沸いたお湯でグラスをあたため、その間に冷蔵庫からバターをひとかけら取り出した。グラスのお湯をいったん捨てると、白い角砂糖をコロンと入れる。少しのお湯で溶かしてから、ラムを注いだ。次いで、それをお湯で満たし、ステアする。仕上げにさっきのバターを落とし、シナモンスティックを添えた。
彼が作ったのは『ホット・バタード・ラム』という熱いカクテルだった。湯気がラムとバターとシナモンの香りを含んで優しく立ち上っている。
それを真輝に差し出し、目を細めた。
「どうぞ。これ、眠れない夜にいいなって思ってたんです」
「あ、ありがとうございます」
彼女はちょっと驚いていたが、ゆっくりと一口すする。やがて顔を上げ、表情を緩ませた。
「美味しい。尊さん、カクテル上手になりましたね」
「嬉しいです。ありがとうございます」
思わず顔が綻んだのは、誉められたことに対してではなかった。彼女がやっと笑ってくれたことが、彼の左胸を締め付ける。心がどこにあるのかまざまざと知らされているような気がした。
真輝の隣にまた腰を下ろしながら、苦笑いした。
「寝かしつけたくても、俺はサラ・ヴォーンみたいな子守唄は歌えませんから」
「……歌えませんか」
尊が「そりゃあね」と笑っていたが、真輝は何かに驚いたようにハッとして、今度はみるみるうちに顔を赤く染めた。
「真輝さん?」
その様子に呆気にとられていると、消え入りそうなかすかな声で「忘れてください」という言葉がやっと聞こえた。
「あの、子守唄って言っても、俺は英語わかんないし、ねぇ?」
「そうですよね、あの、サラ・ヴォーンって英語ですもんね」
「真輝さん、もしかして酔っぱらいました?」
「いや、大丈夫です! あ、熱いカクテル飲んだからかな。火照ってきました」
弾かれたように自分を見る目に驚きが滲んでいるのは、いつの間にかカクテルをちゃんと作れるようになっていたからだろうか。そう思うと、どれだけ出来ない男だと思われていたんだろうと、苦笑してしまう。
「寒い夜にはぴったりですよね。また眠れなくなったら作りますよ」
「……はい」
ホット・バタード・ラムを飲み干し、片付けをして帰った頃には時計の針は四時を指していた。
何故、このとき真輝がこんなに慌てていたのか、尊はもう少しあとになって知ることになる。彼は『バードランドの子守唄』の意味を知らなかったのだ。
尊はシャワーを浴び、ベッドに潜り込んで無理矢理目を閉じる。
タリスカーのアルコールが自分の呼気から立ち上るのを無視して。
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