第6話 タリスカーの名残

 金曜がきた。

 琥珀亭は臨時休業で、何も予定のない自由な一日だ。

 普段の尊なら友達を誘って出かけるか、寝転んでテレビを観ていただろう。

 だが、この日ばかりは違った。夜の七時、彼は電車に揺られていた。久しぶりの座席の感覚に、そういえば電車に乗るのは車の免許を取って以来だと思い出す。

 彼が目指していたのは暁の経営するバー『エル・ドミンゴ』だった。

 店の住所は、千歳市の隣町である恵庭市になっている。

 尊は浮き足立つのを誤魔化すように、車窓に目をやった。秋の夜だけあって、七時ともなればとっくに日も暮れ、窓は暗闇一色だ。外を見ていても、映るのは反射している自分の顔だ。

 いかにも不安げで頼りない顔を見るのが憂鬱で、財布から暁の名刺を取り出し、しげしげと見つめる。

 指でなぞると、上質な紙を使っているらしく、つるりとした感触がした。インクは目が覚めるような赤で、陽気な彼らしかった。

 期待と不安の入り交じった奇妙な面持ちで、彼は名刺を手にしたまま、恵庭駅に降り立った。

 決して大きいとは言えない駅を出ると、すぐにタクシーを拾う。運転手に名刺を見せて「ここに行きたいんですけど」と言うと、にこやかに「あぁ、あそこね」と笑って頷いた。

 名が知れているのか、この運転手が飲み屋街に詳しいだけなのか、尊にはわからなかったが、迷わずにすんでよかったと安堵し、背もたれに体を預ける。

 恵庭の街並みを走り抜けながら、琥珀亭で修行した男が作った店への期待に胸を膨らませていると、すぐに飲み屋街に到着した。


「ここだよ」


「どうも」


 勘定を済ませてタクシーを降りた尊は、店構えに目を丸くした。

 そこにあったのは琥珀亭のようなオーセンティック・バーではなく、目にも鮮やかな原色の壁で、古材で造られた扉のバルだった。ガラス越しに見える店内は金曜日の夜ということもあって、賑わっている。

 バルとは、スペインでいうところのコーヒースタンドや軽食屋、そしてバーをごちゃまぜにしたような店だ。『タパス』と呼ばれる小皿料理をつまみながら、飲んだり騒いだりする。

 琥珀亭のように正統派かつ伝統的なスタイルのバーをよく『オーセンティック・バー』と表現するが、この店はそれよりずっと開放的だった。陽気で親しみやすく、人間味のある匂いがする。尊は、まさしく暁そのものだと思った。彼はそういう印象を人に与えるところがある気がした。

 ガラスの向こうに目を凝らしてみたが、暁の姿は見えなかった。


「いきなり来ちゃったからな。今日は休みかも」


 思わずがっかりして呟いたが、とにもかくにも偵察がてら飲んで帰ろうと、扉を開けた。

 

 尊を迎えたのは、爽やかな数人のかけ声だった。


「いらっしゃいませ!」


 大勢の話し声や食器が鳴る音が一斉に耳に飛び込んでくる。店内には何かBGMが流れているが、どんな曲なのか聴き取れないほどの賑わいだった。


「こんばんは。お一人様ですか?」


 一人の年若いウェイターがにこやかに近づいて来る。

 尊が黙って何度か頷くと、彼が店内を見回した。


「ただいまですと、カウンターのお席になりますがよろしいですか?」


「あ、はい」


「それではこちらへどうぞ」


 通されるままにカウンターの端に座った途端、大きな声で名前を呼ばれた。


「尊君じゃないか! 来てくれたの? ありがとう!」


 それは、ちょうどホールからカウンターに入ろうとした暁だった。嬉しそうな顔で、大声を上げている。

 その声で大勢の客が尊に目を走らせ、これだけの賑やかさの中でも「あれ誰?」「暁の知り合い?」などという声が聞こえてきた。尊は思わず顔を赤くさせながら会釈した。

 今日の暁は白い開衿シャツと黒いパンツに、サロンを締めている。ベストがない分、薄いシャツを通してよく引き締まった体つきが際立っていた。髪をワックスで整え、少し開いた胸元から綺麗な鎖骨が見える。その顔つきも琥珀亭でのかしこまったものとは違い、ほどよく緊張していながら和やかな表情だった。

 尊に歩み寄った彼は満面の笑みになって、カウンター越しに握手した。尊も手を差し出されるままに握手したものの、彼のテンションが高さに腰が引ける。


「……あの、この前はありがとうございました」


「助っ人のこと? 困ったときはお互い様だよ。尊君もうちが欠員でたらよろしくね」


 そう言って笑い飛ばす彼に笑おうとするが、思わず唇が引き攣った。こんな繁盛店に助っ人で来たらパニックを起こしそうだ。


「いやぁ、よく来てくれたね。嬉しいよ。何にする?」


 暁が指差したのは、カウンターのうしろに設置された巨大な黒板だった。そこにドリンクメニューがずらりと並んでいる。品揃えは豊富で、ワイン、ビール、カクテル、それにウイスキーやラムまであるようだった。


「おすすめって何ですか?」


「コロナだな。ちょっと待ってな」


 暁はそう言い残して、厨房の奥に消えていく。

 その隙に尊はじっくり店内を見渡した。

 派手な原色の外装とは裏腹に、店内はとてもシンプルだった。白塗りの壁、木目の柱や床、そしてタイルが調和して落ち着いている。カウンターは高く、椅子の脚は長い。テーブル席もあるが、壁に面した立ち飲みコーナーもある。

 冷蔵ケースには仕上げを待つだけの料理が整然と並んでいて、見る者の胃袋を刺激する。尊の傍に置いてある大きなピッチャーには、サングリアが入っているようだった。

 客層は比較的若いかと思えば、初老の渋い男性が一人でワインを飲んでいたりする。ちらほらと外国人もいるし、女性客も多い。シックな出で立ちの人もいればカジュアルに楽しむ人もいて様々だ。

 落ち着いた雰囲気の琥珀亭とはあまりに対極すぎて、なんだか胸が躍った。


「はい、お待たせ」


 その声に顔を上げると、暁が瓶を差し出している。薄い金色にも見える液体の入った瓶の口には、くし形にカットしたライムが挟まっていた。


「あの、これどうやって飲むんですか?」


 暁はもう一本、同じようにライムを挟んだ瓶を用意していた。


「今から実演するから」


「暁さん、飲みたいだけじゃ……」


「いいから、見てな」


 彼は笑い飛ばすと、ライムを押しつけて絞りながら、瓶の中に入れてしまった。


「これはコロナ・エキストラっていうメキシコのビールなんだけど、こうやってラッパ飲みするのが一番うまい」


 尊が慣れない手つきでどうにかライムを突っ込むと、暁が瓶を差し出してきた。


「Salud」


「え? サルゥ?」


「スペイン語で『乾杯』だよ。ようこそ、『エル・ドミンゴ』へ」


 瓶を鳴らして一口飲んでみると、思ったよりライトで飲みやすかった。


「どう?」


「うまいです」


 暁はその言葉に満足そうに笑うと、自分もぐいっと瓶を傾けた。

 そのとき、尊の右隣にいた女性が暁に声をかけた。


「ねぇ、暁。もう一杯、いい?」


「はいよ。エリさん、これ好きだねぇ」


「あら、暁のカクテルだからよ」


「うまいこと言っても増量しないよ」


 軽妙なやりとりだが、かといって軽薄にならないのが暁らしい。

 エリと呼ばれた女性は、もう一人の女性と二人で飲みに来ているようだった。その手元にはオリーブと蛸のマリネや生ハム、いわしのオーブン焼きにバゲットとパテがある。その盛りつけと色彩のよさに触発されて、尊の腹が鳴りそうだった。


「エリさん、その子ね、俺の弟分なの。いい男でしょ?」


「弟分ってなんですか」


 思わず苦笑すると、暁はグラスを取り出しながら笑う。


「だって真輝の弟子だろ? じゃあ、弟弟子みたいなもんだ」


「へぇ、暁の? こんばんは」


 エリが会釈しながら尊の顔をじっと見つめた。


「あら、本当。綺麗な顔してるわ」


 『あなたもね』と思ったものの、顔を真っ赤にさせてしまった尊は何も言えなかった。


「手ぇ出したら駄目だよ」


 暁の言葉に更に顔を赤くしていると、エリがカウンターの向こうに視線を送る。


「暁ってば、やきもち?」


 これを世間では流し目というのだろう。そう呆気にとられていると、暁が「どうかな」とじゃれるようなやりとりを続ける。そうしている間にも彼の大きな手が流れるように動いていた。

 バレリーナのように指先まで神経が張り巡らされ、作業一つ一つが繊細でかつスムーズだった。そうかと思えばシェイキングは小さくまとまることなく大胆で美しい。


「お待たせしました」


 そう囁く彼の笑みがどこかあどけないのは、カウンターの中でカクテルを作ることが楽しくて仕方ないからだろうか。

 エリがそっとカクテルを口にし、満足そうに微笑んだ。


「やっぱり、暁が一番よ」


「ありがとうございます」


 自信に溢れていながら、声と笑みには気取ったところがない。

 尊はいつになったら、自分もあんな風に余裕ができるのかと途方に暮れた。

 ふと、エリの隣にいたもう一人の女性がためらいがちに口を開く。


「あの、マスター。私にもカクテル作ってもらっていいですか?」


 おずおずとそう言った彼女の手元には残りわずかになったサングリアがあった。


「もちろん。何にします?」


 暁がにこやかに問うと、彼女はもじもじしている。


「私、エリみたいにカクテル知らないから……」


 すると、エリが「そうだ」と手を叩いた。


「ねぇ、あなた作ってみてよ。暁の弟弟子でしょ?」


 エリの期待に満ちた目が尊を射貫くように見ている。


「ちょ、待ってくださいよ」


 慌てて後ずさりする尊に、エリはすっかり目を輝かせている。


「ねぇ、暁。いいでしょ? 私もこの子のカクテル飲んでみたい」


「エリさんは強引だなぁ。彼、うちのスタッフじゃないんだよ?」


 暁も苦笑したものの、エリは一歩も引かない。


「じゃあ、これからあなたの勤めてる店に行きましょ」


「あの、うち、今日は臨時休業です」


「じゃ、やっぱり今見せてくれなきゃ」


 この酔っぱらいめと、思わず胸の中で毒づく。暁は困ったように眉を下げていたが、ふと何か思いついたようににやけた。


「そういや俺、尊君の腕前知らないんだよね。いっちょ、やってみたら? お客様さえよければだけど」


 暁が冗談か本気かわからない笑みを浮かべると、女性客がおずおず頷く。


「私はもちろん、あの、彼さえよければ」


 頬染めて期待されても、まったく自信がない。

 どうにか断ろうと口を開きかけた途端、エリが尊の背中を無理矢理押した。


「ほら!」


「え、あの、ちょっと!」


 尊は無理矢理、カウンターの中に入らされる。

 しょうがない。琥珀亭の名に泥を塗らないようにやってみるしかない。そう観念していると、暁が女性客に向かっておどけていた。


「不味かったら正直に言ってくださいね。俺が作り直しますんで」


 だったら止めましょうよ、無駄ですよ。そんな言葉が口をついて出そうになったが、女性客たちのわくわくした目に何も言えなくなる。


「……オレンジ、お好きですか?」


 『ええい、ままよ』というのは、こういうときに使う言葉なのかもしれないと考えつつ訊ねると、女性客が「はい」と頷く。


「それではオレンジでお作りしますね」


 グラスとオレンジを取り出し、唇を噛みしめた。シンプルすぎず、難しすぎず、少しは自信を持って披露できるのは、テキーラ・サンライズしかなかった。暁に少しでも追いつきたくて練習したのだが、本人の目の前で作ることになるとは皮肉なものだ。

 尊はカクテルを作りながら、呪文のように心の中で『俺は本番に強い、俺は本番に強い、俺は本番に強い』と唱える。シロップをスプーンの背を使って沈め終わると、思わず安堵のため息が出た。


「どうぞ」


「すごい、綺麗!」


「へぇ。暁の弟弟子だけあるね。美味しそう!」


 エリたちは目を丸くしてカクテルを見つめていた。

 暁さんを盗み見ると、彼は腕組みをしてにやけていた。


「へぇ、やっぱり暁の弟弟子なんだねぇ。綺麗じゃない」


「いただきます」


 オーダーした女性客がそっと口をつける。彼女がカクテルを飲み込むのと同時に、尊は生唾を呑んでいた。


「あの、美味しいです」


 待ちわびた一言にほうっと肩の力が抜ける。それを見て微笑んでくれた女性客に、心から礼を言った。


「ありがとうございます」


 その途端、何故か女性客が顔を赤らめた。エリは口をぽかんと開けたまま、尊を見つめている。


「あの、どうしました?」


「いえ、なんでもないです!」


 尊がきょとんとしていると、暁がたまらず吹き出したようだった。


「いやぁ、うん、ねぇ」


 眉をひそめていると、暁が少し離れたところにいたウェイターを「吉田」と、呼びつけた。

 駆け寄ってきたのは、尊を席に案内した若いウェイターだった。暁は彼に何やらこそこそ話をしている。すぐにウェイターは「わかりました。たまにはゆっくりしてください」と微笑んだ。いかにも、暁の片腕という頼もしさがある青年だった。

 暁がサロンを外して尊の肩にぽんと手を置いた。


「尊君、今から俺の行きつけの店で飲もう」


「え? 仕事はいいんですか?」


「いいのいいの。365日休みがないんだから、たまにはいいの」


 吉田は、にこやかに笑っている。


「暁さん、意外と病弱ですからね。よく鼻風邪ひくし。ぶっ倒れる前に一息いれてください」


「病弱って言うなよ、あれは鼻風邪じゃない、花粉症だ」


「北海道で花粉症なんて、滅多にありませんよ」


「うるせぇ。さ、尊君、行くよ」


「あ、はい」


 こうして尊は暁と店を出ると、タクシーをつかまえて乗り込むことになった。

 流れていく窓の夜景を眺めていると、暁が口を開いた。


「尊君さ、今日はなんでうちに飲みに来たの?」


 彼の横顔は笑ってもいないが、怒っているようでもない。ただ淡々とした口調だった。


「なんでって、暁さんの店ってどんなんだろうって気になって」


 すると、彼がふっと口元だけで笑う。


「本当にそれだけかい?」


 それきり、彼は黙ってしまった。尊も何も言えず、座席の白いカバーをじっと見つめる。

 多分、それだけじゃないな。そう思いながら。


 タクシーは恵庭市の街並みを走り抜け、飲み屋街から離れていく。

 尊が連れてこられたのは、一軒の小料理屋だった。小さいながらも粋な外装で、白木の看板に『大地』と店名が彫られている。ライトに照らされた大きな壺に季節の花がいけてあった。

 タクシーが走り去る音を聞きながら、ぼうっと店構えを見つめている尊に、暁が声をかける。


「さ、入って」


「あ、はい」


 上品な藤色の暖簾をくぐると、いかつい顔の大将がカウンターに立っている。そして、出迎えてくれたのは若い男だった。


「暁さん! お久しぶりです!」


「おう、大地。いつ会っても元気だな。おやっさんも元気そうで」


 おやっさんと呼ばれた大将が、言葉もなく深く頷く。年は五十くらいかと思われたが、髪に白いものはない。一方、大地と呼ばれた男は二十代そこそこといった若さで、目も口も大きく、はつらつとしていた。


「大地、彼は尊君。名前は聞いてるかな?」


「おう! 噂の尊さんですか!」


「ちょっと待って、誰が噂してたの」


 思わず戸惑う尊に、大将がカウンターから出てきて一礼した。


「いつも母がお世話になっております」


「母?」


 きょとんとした尊の顔に、暁が声を上げて笑う。


「大将はおババ様の息子さんだよ。大地は孫」


「えぇ? お凜さんの?」


 尊の素っ頓狂な声が店に響き渡る。言われてみれば、大将の顔に面影がある。ちょっとぶっきらぼうなところもお凜さん譲りかと思われた。孫の大地はそれほど似てないが、人なつこい好青年という印象で人好きがする。母親にでも似たのだろうかと想像しながら、慌てて頭を下げた。


「松中です。こちらこそ、いつもお世話になってます」


 大地が「うちのばあちゃん、きついでしょ?」と、笑っている。冗談めかした口調だが、その笑顔が『ばあちゃん、大好き』と言っているようなものだった。

 尊たちが案内されたのは、障子で仕切られた小上がりだった。暖簾と同じ藤色の座布団にあぐらをかき、大地がくれたおしぼりで手を拭く。


「何になさいます?」


「俺はいつものやつ。尊君は?」


「あの、俺は……」


 洒落た小料理屋など、来たこともない。何を飲んでいいか戸惑う尊に、暁が「日本酒は飲める?」と訊ねてきた。


「弱いんですけど、はい」


 頷くと、大地に指を二本立てる。


「おちょこ二つ、それに一応ウーロン茶もつけて」


「かしこまりました」


 大地がそっと障子を閉めるのを、緊張のあまり肩をすぼめて見ていた。

 暁はテーブルの灰皿を引き寄せ、煙草を取り出す。銘柄は水色のアメリカン・スピリットだった。慣れた様子で一服し、くつろぎ始める。


「あの、てっきり俺、バーに行くのかと思いました」


 沈黙に耐えきれず口を開くと、暁が眉尻を下げた。


「いつもカクテルばかり飲むバーテンダーもいるんだろうけどね。俺は日本酒が好きなんだ」


「へぇ。俺、日本酒は正月のお屠蘇くらいかもしれないです」


「日本酒ベースのカクテルだってあるだろう? 味は知っておいて損はないよ」


 そんな会話をしているうちに、大地が熱燗とお通しを運んでくる。


「大地、タチはもう出てる?」


「残念。まだ早いですね」


「やっぱり? 尊君はタチ好きかい?」


「なんですか、タチって?」


「知らない? タラの白子だよ。天ぷらが好きなんだけどね」


 そんなことを言いながら、料理は暁が見繕って注文した。


「これは出羽桜。山形の酒だよ。飲みやすいと思うな」


 そう言いながらおちょこに酒を注ぐ暁は、店での顔とはまた違う、人なつっこい笑みをしていた。

 この日二回目の乾杯を交わし、お通しをつまむ。細長い盆に三つの豆鉢が置かれていて、中に煮物や和え物が盛りつけられていた。出汁のきいた上品な味で、煮物の人参は飾り切りが施され、花の形をしていた。

 暁は煮物を口にすると、幸せそうに長いため息を漏らした。


「俺さ、バルなんて経営しているもんだから和食が恋しくてたまんないんだよね」


 これほど嬉しそうに頬張ってくれるなら、さぞかし大将も作りがいがあるだろう。なんだかふっと笑えてきて、緊張がほどけた。


「あの、どうして琥珀亭を出て、バルを始めようと思ったんですか?」


「まぁ、人の愉しみ方っていろいろあるから、店で生演奏だったりスポーツ観戦したり、賑やかに飲める場所があってもいいよなって思って」


「生演奏もあるんですか?」


「うん。ジャズもやるし、ラテン音楽も、クラシックもやるね。お凜さんと大地に頼むこともあるよ。大地のチェロはかっこいいんだよなぁ」


「あぁ、そういえばあの日、そんなことを言ってましたね。あの、どうして『エル・ドミンゴ』っていうんですか?」


「スペイン語で日曜日って意味なんだよ。俺が日曜日生まれだし、お客さんに日曜日みたいにゆっくり寛いで欲しいって願いもこめてね。日曜日に休む飲み屋も多いけど、うちは名前にちなんで週替わりのメニューを日曜日から始めるんだ」


「あぁ、なるほど。あと、カクテルってどうやったら早く作れます? 暁さんはどんな練習したんですか?」


 暁はゆっくりと出された料理に手をつけているが、尊は矢継ぎ早に質問攻めにしていた。

 その間にも手まり寿司や酢の物、とろけそうな豚の角煮、たこの唐揚げといった料理が大地の手で届けられる。だが、尊の箸は話に夢中であまり動かなかった。

 暁はふと箸を止め、眉を下げる。


「ほら、もっと食べなよ。冷めちゃうぜ」


「あ、あぁ、はい」


 慌てて角煮を一切れ口に放り込んだが、もう熱くはなかった。それでも美味しいと、尊は思わず唸る。

 暁がおちょこに手を伸ばしながら、ふっと笑みをこぼした。


「訊きたいことはそれだけ?」


 いいえ。そう心の中で即答する。

 だが、真輝に訊かずに彼に訊くのはなんだか卑怯な気がした。いや、卑怯というより臆病だろうか。なのに、気になって気になって仕方ない。

 尊は景気をつけるように日本酒を飲み干すと、姿勢を正した。


「暁さん。真輝さんとはどんな関係なんですか?」


 しばらく沈黙が続いた。やがて、暁は煙草に手を伸ばす。ライターの音のあと、煙を吐き出しながら、こう言った。


「まぁ、気になるよな。あんなとこ見られたんだからしょうがないか」


 彼が言うのは、真輝を抱きしめていた瞬間だろう。そう思って頷くと、観念したような顔で頬杖をついた。


「俺と真輝は中学と高校の同級生だよ。とは言っても、クラスが一緒になったのは高校時代だけだったけれど」


「その頃からずっと真輝さんのことが好きだったんですか?」


「そうとも言えるし、ちょっと違う気もするし」


 暁はそこまで言うと、小さく笑う。


「尊君さ、君、気付いてる?」


「何をですか?」


 きょとんとすると、彼の唇が少し意地悪そうにつり上がった。


「そんなことを訊いてくるのってさ、『俺は真輝さんが大好きです』って告白してるようなもんだけど?」


 思わずかっと顔が熱くなった。


「いや、あの、俺は……」


 急に暁の顔を直視できなくなり、俯いて拳を握る。

 自分でも何故かわからないのだ。出会って間もない。彼女の過去も素顔も知らない。なのに、こうして嫉妬する。

 いや、多分、知らないからかもしれない。それは単なる野次馬根性じゃない。暁と真輝が抱き合っているのを思い出すたびに、胸の真ん中が焼けそうなのだ。

 尊はすっと顔を上げ、暁の目を射貫くように見た。


「……はい。俺はきっと、彼女が好きです」


「ふぅん、『きっと』って曖昧だね。どこが気に入ったの? 付き合いも浅いのに」


「わかりません。でも、わかったとしても、一言じゃ言い表せない気がします」


 宣戦布告というには、あまりに相手にならないかもしれない。それでも、暁より真輝の隣にいるべき人間になりたい。

 そんな挑むような目をした尊に、暁はつけたばかりの煙草をもみ消して静かに口を開いた。


「そっくりだな」


「えっ?」


「君と仕事をした夜ね、嫌な予感がしたんだ。俺のそういう予感は大抵当たる。正義を琥珀亭に連れて行ったときもそうだった」


 正義という聞き慣れない名前に首を傾げていると、暁がぼそりと呟いた。


「真輝の旦那だよ。死んじまったけどな」


「亡くなった?」


「俺と真輝が出かけたのは墓参りだ。あぁ、そういえば真輝のやつ、俺の車にバケツやら線香やら忘れていっちまったな」


 暁はのんびりとした口調で笑う。けれど、その笑みはとても淋しそうで切なく見えた。


「あいつはね、蓮太郎師匠と一緒に死んだんだよ。運転していたのが正義で、助手席に師匠が乗っていた。二人とも即死だ。ニュースにもなった」


 すとんと腑に落ちたのは、喫茶店のマスターの『ひどい事故だった』という言葉と、お凜さんだった。


「いつか、お凜さんが言ってました。真輝さんは色んなかけがえのない人を突然失っていて、傷は深いって」


「うん。そうだな。あいつは薄幸の美人というか、なんというか」


 ため息を漏らし、彼は頭を掻いた。


「……俺さ、こう見えて学生の頃はデブで人見知りの暗い奴だったんだ。女子からは避けられてたし、男子にはバカにされてたし」


「へっ?」


 急に話が変わったことに驚きつつ、暁を凝視する。


「でも、今は陽気だし、体格だって締まってますよね?」


「そりゃお前、鍛えてるさ。体力だって大事だぞ」


 呼び方が『尊君』から『お前』になってるところを見ると、暁もほろ酔いのようだった。


「高校生になってもちっとも嬉しくなかったんだ。また暗くて楽しくない学校生活が三年も始まるのかってね。真輝のようなクラスで目立つ人気者が妬ましくてしょうがなかった」


「真輝さん、人気者だったんですか」


「あの頃から綺麗だったからな。そんなに賑やかなタイプじゃないのに、やっぱり目立つんだ。みんなから憧れの目で見られてたよ」


 容易に想像できる気がして、尊が思わずにやけた。


「ある朝、風邪で二日休んだ俺が登校すると、教室に誰もいなかった。前日に授業が予定変更になって体育館集合だったらしいんだけど、友達もいない俺には誰からも連絡なくてさ」


「それはちょっと寂しいですね」


 同情の目で見ると、暁が苦笑した。


「何処に行っていいのかわからない不安よりも、なにより、誰も俺を気に掛けてくれていないことが辛かった。でも、そのとき真輝がちょうど忘れ物を取りに教室に戻ってきたんだ」


「へぇ」


「信じられる? 男どもの憧れの的だった真輝が、クラスで誰も相手にしない俺に『おはよう、上杉君。今日は体育館集合だよ。一緒に行こう』って言うんだ。歩きながら『風邪はもういいの?』とか話しかけてくれてさ。でも俺はそれを真輝の偽善だと思ってた。どうせ、みんなの前では俺に話しかけないんだろうって」


 暁が眩しいものでも見るように、目を細めた。


「ところが、その日から真輝はちゃんと俺に『おはよう』って言い続けてくれた。真輝にしたらなんてことないのかもしれない。けれど、あいつの『おはよう』の一言が俺の人生を変えちまった」


 そう話す彼の口元には、はにかむような笑みが浮かんでいた。


「浮かれた俺は真輝が好きになった。彼女に釣り合う男を目指して、勉強も頑張って、身体も鍛えて、今までろくにしなかった挨拶だってするようになり、友達も出来た。恋する少年ってのは火が付いたら勢いがすごいもんだ」


 ふと、暁が目を伏せる。少し声を低くして、こう呟くように言った。


「けど、本当に好きになったのは、多分、高校二年のときだ」


「何かあったんですか?」


「真輝のお袋さんが男作って家を出たんだ。おまけに、すぐに親父さんが病気で亡くなった」


 言葉を失った尊に、彼が肩をすくめる。


「重いよな。なのに、両親を失っても真輝はいつもと変わらない笑顔だった。だけど、俺は誰もいない放課後の教室で、真輝がこっそり泣いてたのを見たんだ」


 彼は畳に手をつき、天井を仰ぎ見る。


「あれには参った。なんて強いんだってね。それにひきかえ俺はなんの痛みも知らず、人を妬んでライバルを蹴落とすことしか考えつかない小さな男だって自分を恥じた。それから、俺にとって真輝は本当に特別な人になった。俺に大切なことを教えてくれたこの人の助けになりたいって真剣に思うようになった」


「それでバーテンダーになろうと?」


「うん。手に職つけようとして調理師学校を卒業したけど、どうしても真輝のそばにいたくて、琥珀亭に弟子入りしたんだ。俺がバーテンダーになれば、真輝のそばに少しでもいられると思ってね」


「凄いですね。婿入りでも目指したんですか」


「おうよ。ところが、ここで俺は人生最大のヘマをやらかすんだ。調理師学校で親友だった正義って男を琥珀亭に連れて行ったのさ」


 彼はあぐらをかいていた足をくみ直す。


「嫌な予感がしたんだよ。こう、ざわざわするようなね。で、結局あいつらは結婚しちまった。招待客として披露宴に呼ばれたときは気が狂いそうだったよ」


「なんだか、お凛さんと遥さんみたいですね」


「あぁ、聞いたの? まぁ、おババ様が俺に甘いのは自分に似ている同情かもな」


 そして、やりきれない顔でこう呟いた。


「正義が師匠と二人いっぺんに逝っちまったときも、狂うかと思ったな」


 苦々しい顔つきに、もしかして泣いてしまうんじゃないかと思われた。だが、彼は顔を上げ、大地を呼ぶ。


「大地、俺のタリスカー持ってきてくれる? グラスは二つ。ロックでいいや」


 『タリスカー』という聞き慣れない言葉にきょとんとしたが、それを問う気力もなかった。色んなことが洪水のように尊の頭を渦巻いていた。

 暁も黙って、大地が戻ってくるのをじっと待っていた。


「お待たせしました」


 テーブルに置かれたボトルには『TALISKER』とある。ラベルもシンプルだが、そこにある書体もシンプルだ。


「これは正義が好きだったスコッチ・ウイスキーだよ。命日が近いと無性に飲みたくなる。あぁ、君が窓からのぞき見した日がね、正義たちの命日だよ」


 そう言いながら琥珀色のウイスキーをグラスに注ぐ。


「知ってるかい? 真輝はウイスキーを飲むときはいつもコレを飲む。スコッチなんて嫌いなくせにさ」


 吐き捨てるように言うと、彼はグラスを持ち上げた。


「飲んでごらん」


「いただきます。すごい香りですね」


「スコッチだからな」


 恐る恐る舐めるように口をつけると、思わず顔をしかめてしまった。いまだかつて味わったことのないスモーキーな風味だった。癖のある香りと強さ。けれど、確かに美味かった。

 暁は二口ほど飲み、唇をそっと舐めた。


「深くて余韻が深く穏やかで、それでいて忘れがたい。まるで正義の人柄みたいだよ」


 小さな音をたて、グラスが置かれた。暁の目が『やり切れない』と言葉なしに、言っているようだ。


「人ってさ、一人じゃ生きられないって言うだろ? 人には多かれ少なかれ誰かの名残がある。一緒に暮らすうちに真輝の中に染みこんだ正義の名残をどうやったら消し去ることができるか考えてる」


「名残、ですか」


「タリスカーを飲むのもそう。シェイクスピアが好きなのも、食後にブラックコーヒーを飲むのも、車にガムがあるのも元はといえば全部、正義の影響だ」


 ふと、彼は『馬鹿馬鹿しい』とでも言いたげに笑う。


「本当はわかってるさ。そんなもの、消したくても消せないものだって。俺にだって真輝の名残があるんだ。板前になるはずだった俺が毎日シェイカーを振っているのは、真輝の『おはよう』があったからだ。どう足掻いたってそれは俺の中から消せやしない。だって、それがあるから今の『俺』があるんだ。だろ?」


 尊は無言で頷いた。自分も、賢太郎がいなければ今、こうしてはいない。バーテンダーになるどころか、もしかしたら一生、琥珀亭に足を踏み入れもしなかっただろう。


「なのに、真輝は正義の名残だけを見てしまう。それひっくるめて今の『真輝』なのに。名残は紛れもなく自分の一部なんだ」


「えっと、つまり、正義さんを忘れたくないってことですか」


 暁はため息をつきながら、顎をさする。


「辛いことなんて決して忘れられないさ。別れは乗り越えたり忘れるもんじゃない。抱えて一緒に連れて行くことだ。真輝はそれをわかっていない。正義を忘れようとしてもがいているけれど、今の自分を作った一部を捨てようとしたら、そりゃおかしくなる」


「なるほど」


「そのくせ自分から正義の匂いがするものを捨てられずにいる。部屋にあるギターだって、そのままのはずだ。正義のお袋さんから『もう自由になっていいよ』って言われても、盆には正義の実家に線香をあげにいく」


 暁が助っ人に来てくれた日、『おばさん』が元気だったか真輝に尋ねていたのを思い出した。あれは、そういう正義の母親のことだったのかと納得する。


「俺は心底いらっとするよ。真輝を残していった正義にも頭にくるし、なにより、いつまでたっても暗闇から真輝を救えない自分自身に情けなくって、反吐が出る」


 尊は何も言えずに、ただ黙って彼を見ていた。


「俺の名前って『あかつき』と書いて『暁』だろ? だから俺はテキーラ・サンライズを気に入っているんだけど、とんだ名前負けさ。いつまでたっても真輝に一筋の光も射してやれない」


 尊はふと、口を開く。


「あの、正義さんってどんな人だったんですか?」


「姿形は違えど、尊君とそっくりなところがあるな。正義は俺とは正反対の、夜が似合う男だったよ。物静かで包容力があってね」


「それじゃあ、似てないですよ。俺は夜が似合うとも、包容力があるとも思えないです」


 苦笑すると、暁が呆れた顔をする。


「君さ、さっきも思ったけど、自分をわかってないね」


「え? さっき?」


「うん。エリさんたちにカクテル出したとき」


「あぁ、なんか驚いてましたね」


「あれはね、君がすごく嬉しそうに笑ったからだよ」


「えぇ? 俺、そんな顔してました? それでみんなポカンとしてたんですか?」


「うん、おどおどしてた男がいきなり色気ダダ漏れの笑顔見せるんだもんな」


「ダダ漏れってなんですか……」


「尊君はさ、いつの間にか自然とそばにいるというか、居心地がいいんだよ。そういうところは正義に似てる。ただ、正義は夜だったけど、君は春の縁側みたいな、こうあったかい感じだね」


「はぁ……ありがとうございます」


「真輝のどこを気に入ったのかって質問の答えまで一緒ときたもんだ」


 暁がぼやきながら頭を掻く。


「俺はさ、この名にかけて真輝に光を当てたいって思ってる。『おはよう』の一言で俺にそうしてくれたように。朝陽を浴びて今日を一緒に生きれたらそれで十分」


 まるでプロポーズだとどぎまぎしながら、その言葉を聞いていた。


「だけどさ、君みたいなライバルがまた現れるし、それになにより死んだ人間には勝てないって思うよ。綺麗な思い出だけが時間に濾過されて残っていくんだ。ずるいよな」


 大切な人を亡くしたことがない尊にはわからない。だが、暁さんの男が弱音を漏らすほどなら、相当心に残るものなんだろうと思った。


「走りっぱなしでいると、たまにふっと息をついて立ち止まってしまうことがあるんだ。かといって他の女とつきあっても、やっぱり心が死んでるんだよな」


「あ、やっぱりそんなことあるんですか」


「俺ね、背が伸びて痩せてからはモテるようになったんだよね。今まで俺を『きもい』とか言ってた奴まで告白してきた。たまにいるんだよな、俺が真輝しか見えてないって知っていても、それでもいいからって言う女。でも、誰も俺の中に新しい日の出はくれなかった」


 ふと、彼はこう切り出す。


「尊君さ、アニマルズの『朝日のあたる家』って歌、知ってる?」


「いや、知らないです」


「ギャンブル好きの恋人のために街を転々として罪まで犯して最後にはとうとう娼婦になっちまったって歌だ。おババ様に『お前と付き合う女はみんな朝日のあたる家だよ』って言われたことがある」


「お凜さん……容赦ないですね」


「別に本当に娼婦みたいだって言ってるわけじゃないぜ? ただ、俺が真輝を想い続けること自体がギャンブルみたいなもんだし、そんな俺に尽くす女の行く先なんて悲惨でしかないってことだろ」


 顔をひきつらせた尊に、暁もつられて苦笑する。

 暁でさえ手強いと思っていたのに、もっと厄介なライバルがいたことが心に重くのしかかった。


 暁はそれから熱燗を三本飲み干し、会計に向かった。足取りはしっかりしていたが、彼は席をたつときにぼそりとこう呟いた。


「飲まずにゃいられないが、飲んでも酔えない酒っていうのはそろそろやめなきゃならんかね」


 尊たちが『大地』を出る頃にはもう真夜中に近かった。


「ありがとうございました。尊さんもまたいらしてください」


 人なつっこい笑みで送り出す大地に手を振ると、尊たちは並んで歩き出した。飲み過ぎて熱く脈打つ体に、夜風の冷たさが丁度よい。

 ふと、暁が思い出したように笑う。


「尊君さ、あのテキーラ・サンライズ、かなり練習したんだろ?」


「あ、はい。……出来映えひどかったです?」


「まさか。よかったよ。琥珀亭に手伝いに行ったときはカクテルほとんど作れないって言ってた男があれだもんな。相当頑張ったんだなって思った」


 負けん気を出した自分を見透かされたようで、思わず顔が赤くなった。


「上手かったよ。あとは場慣れすれば堂々と見えるさ。ま、強いて言うなら表情が残念だ」


「表情?」


「そう、真剣なのはいいんだけど、化学実験をしているような顔していると萎縮しちゃうお客様もいるからな。ずっとじゃなくても、ふとしたときに笑みを見せるといいんじゃない? せっかく柔らかい笑顔なんだし」


「そうですか」


「あくまで君の師匠は真輝だし、俺はこれ以上口出ししないさ。真輝が『もう教えることはない』って言うまで頑張ってごらんよ。いずれ大会に出たいとかそういうことになれば、そのときは力になるから」


「ありがとうございます。アドバイス聞けてよかったです。なんだか、初心にかえった気持ちです。初心を忘れるには早いんだけど、俺、調子いいから」


 そのとき尊は、バルで見た、女性客の嬉しそうな顔を思い出していた。もっとあんな顔を見たいなと、自然と思えたのだ。

 美味いカクテルを作るだけじゃなく、暁のように、今そこにある時間をカクテルと一緒に楽しんで欲しいなと願った。


「俺、暁さんみたいにお客様を楽しませるバーテンダーになります」


 暁がふっと、唇を吊り上げる。


「俺って、そう見えたの?」


「すごくお客様との時間を大切にしてて、カクテル作るのが好きなんだなって思えました。正直すごく悔しかったし、自分が情けなかったです」


 すると暁が声を上げて笑った。


「情けないと思う必要はないけれど、悔しいと言ってもらえるのは快感だな」


 そして、そこの角を曲がれば飲み屋街というところで、足を止める。


「俺、まだ飲んでいくけど尊君はどうする?」


「あ、駅までタクシーで行って帰ります。終電には間に合うと思うんで」


「そうか、ちょっと待ってろよ」


 彼は車道を見渡すと手を挙げる。緑色のタクシーがハザードランプを点滅させて停まった。


「暁さん、今日はごちそうさまでした」


 そう言ってタクシーに乗り込むと、暁が微笑む。


「また飲みに行こうぜ。今度はバーテンダー同士としてね」


「え?」


「君さ、俺に悔しいって思ったのは本当にバーテンダーとしてかい?」


 彼はにやりと笑うと、返事を待たずにドアを閉めた。そして、ひらひら手を振りながら背を向けて歩き出す。心なしか、その背中がいつもより広く見えた。


 駅に向かうタクシーの中、尊はまた彼の名刺を取り出していた。名刺の裏の朝日に、暁の言葉が蘇っては消えていく。

 夜の海に沈む真輝に、彼の朝日が届くことはあるのだろうか。もし、あんなに彼女を想う熱意さえも伝わらないなら、冷たい夜にうずくまる真輝は一体誰の手を取るのだろう。酔っ払った頭でえんえんと自問自答する。

 『本当にバーテンダーとしてかい?』という暁の問いに、今の彼ははっきりと『違う』と言い切れた。

 暁は、尊の中の何かに火を宿した。それはバーテンダーとしての負けん気だと言っても嘘ではない。けれど、それだけではない。単にカクテルや店のことを聞きたければ、真輝に質問すればいいのに、わざわざ恵庭まで出向いたのは、男同士の話がしたかったからだ。

 電車に揺られ、尊は千歳駅からまたタクシーに乗った。


 琥珀荘の前で車から降りた尊は、そっと顔を上げる。真輝の部屋の窓から灯りが見えて、なんだかほっとした。

 彼女があの部屋にいるというだけで、無性に嬉しい。

 どうか、あの部屋の片隅で正義を思い出して泣く夜が一日でも減りますように。誰に祈るでもなく、そう心に浮かんだ。

 階段を上がり、部屋の鍵を開けようとしたときだ。真輝の部屋からなにやら賑やかな声がする。

 友達でも来ているのかなと、そう微笑んだ途端、勢いよくドアが開いた。


「ほら! やっぱり尊だよ! あたしゃもう帰るからね。あとは尊に付き合ってもらいな!」


 げんなりした顔で玄関から出てきたのは、お凜さんだった。


「お、お凜さん! どうしたんですか?」


「どうもこうも、真輝が友達の結婚式から帰ってくるなり部屋で飲もうっていうから飲んでたんだよ」


 そう言うと、お凜さんがふうっと長い息を吐く。


「真輝は飲んだら長いんだ。厄介だよ」


「へ? 真輝さん、いつも店ではウーロン茶なのに、飲んでるんですか?」


 きょとんとしたとき、お凜さんの背後から真輝が顔を出した。頬がほんのり赤いのは、酔っているせいだろう。


「尊さん! 牛丼食べに行きましょう!」


「へ? へ?」


 真輝はいつも以上に明るく、機嫌がいい。てっきり命日が過ぎたばかりだからしんみり飲んでるんだとばかり思っていた尊は、呆気にとられていた。


「私、牛丼屋さんって行ったことないんです! ね、行きましょ」


 そう言うと、真輝が無邪気に尊の手をとって満面の笑みを浮かべている。思いがけず握られた手に、顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。

 お凜さんが隣でぼそっと呟いた。


「酔っ払った真輝はかなりテンションが高いからね。明日、覚えてる確証はないよ」


「……だから店ではウーロン茶なんですね」


「じゃあね、あたしゃもう寝るから。あぁ、尊、変なことするんじゃないよ」


「し、しません! もう、お凜さんは! あぁ、真輝さん、裸足で玄関に立ってるじゃないですか。何か履いてください」


「じゃ、履いたら牛丼屋さんに行くのね?」


 彼女はさっさと靴を履くと、尊の手をひいていく。

 さっきまで暁としんみり真輝のことを話していたのに、当の本人は鼻歌まじりで自分の手をとって牛丼屋に胸をときめかせてる。


「ふっ……はは」


 なんだか拍子抜けして思わず笑うと、真輝が顔をのぞきこんできた。


「どうしました?」


「なんでもないです」


 ただ、この手に伝わる体温が嬉しいだけで、人は笑えることを初めて知ったなと思った。


 真夜中過ぎの牛丼屋のテーブル席で、尊はぽかんと口を開けて真輝を見ていた。彼女の手元には大盛りのつゆだく牛丼、豚汁、サラダ。大きな口を開けて、黙々とそれを平らげている。顔には満足そうな笑みが浮かんでいた。

 今まで女の子と食事に行ったことは何度もあるが、これほど美味そうに食べる女を見たことがない。ウエストなんて両手で掴めそうなくらい細いのに、これがどこに収まっていくのか不思議でしょうがなかった。


「真輝さん、意外と食べるんですね」


 普通盛りの牛丼をつまむように食べながら言うと、真輝がふっと笑う。店での笑い方よりも無邪気で可愛いらしい。


「痩せの大食いってよく言われるんですけど、ラーメン三杯いけますよ」


「本当に?」


「はい。塩、味噌、醤油、制覇できます!」


 そう言って笑うと、真輝が実に嬉しそうに豚汁を飲む。周囲のカウンターには何人かの男が来ていたが、彼らが見惚れているのにも気付いてないのかもしれない。いや、気付いていてもこの人は大盛り牛丼をこうやって食べるんだろうと思われた。


「羨ましいですね。俺は食べた分だけ肉になりますから」


「尊さんはもっとお肉ついてもいいですよ」


「暁さんみたいに筋肉つけるならいいんですけどね、脂肪になりますからね。もう俺を道連れにしないでくださいよ」


 ふと真輝の唇が尖った。


「真輝さん?」


 暁の名前を出したのがまずかっただろうか。そう思った途端、真輝がふくれっ面でまた牛丼を口に運ぶ。


「いいえ、また一緒に来るんです」


「あ、そっちですか」


 思わず吹き出した。

 酔っ払った真輝はよく笑い、よく話した。牛丼屋からの帰り道も友達の結婚式が素敵だったと隣ではしゃいでいるが、足はふらつき気味だ。尊は思いきって真輝の手をとって握りしめた。


「危ないですよ」


 どうせ明日には覚えてないかもしれないし、車道に飛び出そうで危ないし、『変なこと』には分類されないだろう。


「あ、ありがとうございます……」


 真輝と見ると、来るときは自分から手を引いてきたくせに、今度は顔を赤くして俯いている。

 変な人だ。でも、それがとてつもなく愛おしく思えた。

 お互いの靴の音だけが外灯で照らされた夜道に響く。風はもうすっかり秋の匂いで、ひんやりと冷えている。だが、尊の胸と手だけは夏のように熱い。


「それにしても真輝さんが大食いとは、意外でした」


「これで引かれて振られたことがあるんですよ」


「バカな男ですね」


 尊はふっと笑い、彼女の手を握り直した。


「俺は素敵だと思いますよ」


 あけすけで、素直で、可愛いじゃないかと思った。

 いつも店では『綺麗』だという印象だが、今日の真輝は可愛い。彼女の素の顔を垣間見たようで、それだけでとてつもなく嬉しかった。

 目の前であれだけ遠慮なく牛丼大盛りを平らげるんだから、男として意識されてないのは覚悟の上だとしても、こういう飾り気のない関係も心地いい。

 真輝と尊はそれきり何も言葉を交わすことなく、琥珀荘に戻った。入り口を開けながら、本当は暁と飲んだあと、すぐ寝るはずだったのにと笑えてきた。


「そうそう、今日ね、暁さんと飲んでました」


「……暁と?」


 怪訝そうな真輝に、尊は頷いた。


「はい。真輝さん、俺、いいバーテンダーになってみせますね。琥珀亭と真輝さんの隣に相応しいバーテンダーになります」


 玄関の前で真輝に向き直り、尊は出来る限り優しく言った。


「おやすみなさい」


 だが、返事がない。彼女は何故か呆然としている。


「どうしたんですか?」


 顔をのぞき込むと、真輝は尊をただただじっと見つめていた。


「俺、何か変なこと言いました?」


「いえ、あの、違うんです。ただ、私……」


 沈黙があった。そして、ぽつんとした声が玄関フードに響く。


「誰かにおやすみを言ってほしかったんだなぁって、今、気付いて」


 彼女は泣いてはない。けれど、今にも泣き出しそうな顔で、それが尊の胸を締めつけた。

 どうしてかなんて、訊かなくてもわかる。正義が恋しくて、淋しくて、誰にも吐き出せずにいたんだろう。

 真輝はちょっと乾いた笑みを漏らした。諦めたような、力のない笑いだ。


「せっかく友達の結婚式で幸せな気分だったんですけどね。なんでかな? なんだか、寝付けなかったんです……色々、思い出しちゃって」


「それでお凜さんを呼んだんですね」


「はい。でも、尊さんのおかげでなんだか気分転換できました。ありがとう。おやすみなさい」


 彼女はそう言って、玄関の鍵を開ける。そして、その手がドアノブを掴んだとき、思わず尊は「あの」と声を上げていた。

 彼女は少しびくっとした。強がっていることに気付くと、無性にいらっとし、暁の気持ちがわかる気がした。


「今度からは俺を呼んでくださいね。今度は牛丼だけじゃなくて、いろんなもの食べに行きましょう。スープカレーもいいし、そろそろドライブすればキノコ汁とか食えますし」


 なんだかデートの誘いみたいだと思いつつ、ただ、がむしゃらに口をついて出た言葉だった。

 誰かの声が聞きたいと願ったとき、誰かにそばに居て欲しいと願うとき、それが自分であって欲しいから。そんな意味をこめて。

 真輝はちょっと驚いていたが、すぐに目を細めた。


「……ありがとう」


「食事は一人より二人の方が楽しいですよ。おやすみなさい」


「そうですね。おやすみなさい。また明日」


 微笑んだ彼女は滑り込むように玄関の向こうに消えていく。内側から鍵がかけられた音がすると、思わずため息が漏れ出た。

 自分の部屋に戻り、熱いシャワーを浴びながらまたため息を漏らす。


「ずるいや」


 正義はずるい。もうここに居ないのにあんなに彼女を独り占めしている。

暁に宣戦布告して張り合うのは勇気さえあればできるが、死んだ人間相手にどう戦っていけばいいのだろう。

 尊は自分の無力さを感じ、いくら熱い湯を浴びても体が縮んでいくような気分だった。

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