第3話 メーカーズマーク片手にMaiden Voyage

「あら、今日はバイト休みでしょ? ずいぶん早いのね」


 顔を洗い終わった尊に、母親が目を丸くした。早いと言っても、時計の針は午前十時を過ぎたところだった。


「うん、ちょっとね」


 湿ったタオルを洗濯かごに放り込み、念入りに髪を整える。


「もしかして、デート?」


 露骨にわくわくしている母親を無視し、尊はそそくさと自分の部屋に戻った。


「デートより緊張するよ」


 独り言を漏らしながら、クローゼットから取り出したのは、賢太郎の会社に行ったときと卒業式で着ただけの、あのリクルートスーツだった。


「久々の出番だぞ」


 何故かスーツに話しかけながら、カバーを取り去った。

 着慣れないワイシャツは襟元が窮屈で、ネクタイの結ぶのも一苦労だった。

 鏡の前に立ち、彼は自分の姿に顔をしかめた。賢太郎のようにスーツを着こなせず、どこか不格好に見えた。


「でも、これがはじめの一歩なんだ。踏み出さなきゃならないんだ」


 そう鏡の中の自分を励ますように、まるで呪文のように唱えた。

 玄関で革靴を出すと、普段から手入れもろくにしていないせいか、少し埃っぽかった。慌ててリビングからティッシュを取ってきて拭く。


「あらまぁ、今日は面接なの?」


 母親が背後で興味津々の声を上げている。


「それとも、まさか彼女のご両親にご挨拶とかじゃないでしょうね?」


「まさに、まさかだ」


 げんなりして埃まみれの丸めたティッシュを母親に渡した。


「今日、昼メシはいらないよ」


「あら、そう。いってらっしゃい」


 玄関を出ると、扉の向こうで「尊、頑張れ!」という母親のエールが響いていた。

 思わず苦笑するが、すぐに唇を引き締めた。

 アスファルトを鳴らす靴音が鼓笛隊の太鼓のように快く、まるで『たまには、覚悟を見せるときがあってもいいんじゃないかな』と背中を押しているように聞こえた。


 尊が向かった先は飲み屋街だった。明るい日差しに晒された通りは、夜の賑やかさからは想像もできないほど、まったく違う顔をしていた。

 閑散として車も通らない道をカラスが飛び跳ね、靴音がやたら大きく響くのが寒々しい。誰もいない路地は薄暗く、下ろされたシャッターがどことなく切ない気持ちにさせた。

 そして、琥珀亭の階段前にもシャッターが下りて、中の様子がまったく見えなかった。

 尊はシャッターの前で、小さな建物を見上げた。築何十年かわからないが、古い造りの壁に、灯りの消えた琥珀亭の看板が突き出ている。

 ここが、俺の居場所になってくれたらいいのに。

 そう願ったとき、辺りに轟音が響き渡った。耳に手を当てても騒々しいと感じるほどのけたたましさは、自衛隊の戦闘機が飛ぶ音だった。

 普段なら苦い顔をするのだが、この日は別だった。

 飛行機みたいにどこかに飛んでいきたいと願っていただけの自分が、その足で飛行機に乗らせて欲しいと頭を下げに来ている。そんな状況にいた尊には騒音ともいえる戦闘機の音も、『戦闘機にだって乗れるかもしれないよ』という声援に聞こえたのだった。

 尊が午前中から店の前で真輝を待ち伏せしようと考えたのは、彼女が何時に店に顔を出すのかわからなかったからだった。そもそも、開店時間すら知らなかった。営業時間に行くのが迷惑になるのか、はたまた開店前に行く方が迷惑なのかも判断できない。

 少なくとも、客のいる時間帯ではないほうがいいと思い立ち、彼はこうしてスーツ姿で店の前に来たのだった。もし開店前で都合が悪ければ出直せばいいし、何度でも足を運ぶつもりだった。

 尊はシャッターを背に待ち続けた。

 昼が過ぎ、腹が鳴り、三時を過ぎる頃にはしゃがみたくなった。けれど、彼はずっと立ち尽くした。あの彼女の姿を今か今かと待ちわびながら。

 昨日の寝不足もたたっている尊をそうまでさせたのは、何もしないうちにこの仕事と真輝との縁が切れるのは嫌だという、焦りにも似た強い想いからだった。

 だが、腕時計の針が午後四時を過ぎた頃、とうとう『これは出直したほうがいいのかな』という考えがよぎった。

 そもそも定休日も知らないことに気づいたのだ。今日が休みだったら、とんだ間抜けだと項垂れる。

 そのときだった。通りの向こうから一台の車が近づいてくる。

 尊の胸が一気に高鳴った。フロントガラスの向こうに、真輝の顔を見つけたからだ。

 真輝は尊に気づいて、目を丸くした。少し荒く車を停めると、慌てて駆け寄ってきた。


「どうしたんですか? あの、ここで何を?」


「すみません。あの、どうしてもお目に掛かりたくて。でも、いつ来たらいいのかわからなかったものですから。今、よろしいですか?」


「え? えぇ」


 きょとんとしている真輝に、彼は内ポケットから白い封筒を取り出した。


「先日は突然すみませんでした。でも、あれは酔っぱらいの勢いじゃなくて、本気なんです。募集もかかってないのに失礼かとは思ったんですけど」


 そう言って、白い封筒を真輝に差し出す。


「これ、俺の履歴書です。今日はあらためてお願いに参りました。俺、ここで働きたいんです。面接だけでもお願いします!」


 真輝は黙って履歴書を受け取った。その顔は戸惑ってはいるものの、何を考えているのか読めなかった。

 彼女がなんと言うか怖くなり、尊は一気にしどろもどろになって、こう付け加えた。


「あの、お手すきでしたら、あの、ご一考ください。忙しい時間に押し掛けちゃってすみません。あの、俺、出直してきます! あの、失礼しました!」


 履歴書を受け取ってもらった途端に気が抜けた尊は、『あの』を連発しながら、脇の下を冷たい汗が伝うのを感じていた。

 勢いよくお辞儀をし、駅のほうへ歩き出す。


「あの!」


 恐る恐る振り返る。今の『あの』は尊の声ではなく、真輝が履歴書を胸に抱くように持ち、呼び止めたのだった。

 そして、こう言った。


「今日、七時くらいにお店に来ていただけますか?」


 夜になると、飲み屋街はすっかりいつもの顔を取り戻していた。

 連れだって歩く自衛隊らしき男たち、これから出勤という出で立ちの女性、そして配達に走り回る酒屋の車が行き交う。

 尊は琥珀亭へ続く階段の下で、何度も深呼吸をした。

 スーツではなく私服でいいという真輝の言葉に従い、彼はラフな格好をしている。靴もいつものスニーカーだった。

 これから面接なのかと思うと、階段に足をかけることすら躊躇われた。だが、賽は投げられたのだ。そう自分に言い聞かせ、階段の手すりを掴み、一歩一歩ゆっくりと足を進めた。


 細い廊下から目に飛び込むのは、真鍮の看板と木製の扉だ。重厚で歴史を感じる扉は、まるで異世界への入り口に見えた。

 心臓の鳴る音が口から飛び出そうだと生唾を飲み込み、尊は静かに扉を押し開けた。


「いらっしゃいませ」


 尊を見た真輝は、カウンターの中からいつもの笑顔を向けた。前と同じ席にお凜さんもいる。

 てっきり営業前に二人きりで面接だと思っていただけに、拍子抜けした。面接なんて誰にも見られたくないのに、お凜さんがいると心強いような複雑な気持ちでカウンターに歩み寄る。


「どうぞ、こちらへ」


 真輝が示すのは、尊が以前座った席……つまり、お凜さんの二つ隣の席だった。


「失礼します」


 そう消え入りそうな声で腰を下ろすと、お凜さんが大口を開けて笑う。


「なにもそんなに怯えなくていいよ。ここの面接はそりゃあ気楽だからね」


 彼女が笑い飛ばしたことで、少しだけ尊の緊張がほぐれた。あぁ、やっぱりお凜さんが居てくれてよかったかもしれないと思った瞬間、彼女が皺の寄った口をつり上げて、こう言った。


「さぁ、始めようか」


「えっ? お凜さんが面接するんですか?」


 思わずそう口走り、真輝を見る。彼女はアーモンド型の大きな目を細め、無言で頷いていた。


「やっぱり、お凜さんはただのバイオリン教師じゃなくて、ここのオーナーか店長なんじゃないですか?」


 さっきお凜さんの笑い声で得た少しの安堵が、まるで竜巻に巻き込まれた藁のように消し飛んだ。

 お凜さんは飄々とした顔でハイライトの箱を手で転がしている。


「ただのバイオリン教師だが、ただの客じゃないのさ」


 意味がわからない。だが、少なくとも面接はしてくれるらしい。

 彼はガチガチに肩を緊張させてお凜さんに向き直った。


「あの、面接お願いします」


「うん? あぁ、そうだね」


 ごくりと生唾を飲み込むと、お凜さんが「ふむ」と小さく頷いてからこう切り出した。


「あんたが仕事を探している理由は、もう聞いた。で、何故ここにこだわるんだ?」


 初っぱなから尊の苦手な志望動機の質問だった。


「俺は琥珀亭が好きですし、酒の知識は......」


 懸命に考えながら口を開いた尊に、彼女は「あぁ、あぁ、ストップ」とうんざりしながら、ヒラヒラと手を振った。


「私が聞きたいのは、そこらへんのマニュアルにあるような答えじゃないんだ。だが、これは私の質問の仕方がまずかったかな」


 ぶつぶつと「もっとシンプルにだ」と呟き、ぐっと強い眼差しで尊を射貫くように見つめた。


「どんな酒でも飲めるか?」


 まるでヘビに睨まれたカエルだった。気圧されそうな尊は拳を握り、強く頷いて見せた。


「はい。弱いですが」


「料理は出来るか? 得意料理は?」


「できますが、ありません」


 作れと言われれば作るが、これという物は特にない。


「猫は好きか?」


「大好きです!」


 自信を持って答えられたのは、猫の質問だけだった。

 不安に満ちた目でお凜さんを見つめていると、彼女は「ふむ」とまた唸り、今度はハイライトを一本取り出して火をつけた。

 煙草を吸う面接官なんて初めて見たと呆気にとられていると、お凜さんは紫煙を吐き出して、こう尋ねた。


「このカウンターに立って、何がしたい?」


 お凜さんの真っ直ぐな目は尊をじっと捉えている。

一瞬だけ頭が真っ白になったものの、少し間をおいてから、ゆっくり噛みしめるように言った。


「お酒のことを知りたいとか、カクテルの作り方を覚えたいというより、俺はここでいろんな人を知りたいです。ここじゃなきゃ会えないような人がどんなことを見聞きして、どんな風に感じて生きているのか知りたいんです」


 真輝を思い浮かべながら話し終えたとき、ふと目の前にいるお凜さんにも言えることだと気づいた。どんな生き様をしてくればこんな風に凛々しくなれるのか、いつか聞いてみたい。

 そして、それは家や大学では決して知ることができないものだという気がしていた。この琥珀亭だからこそ垣間見れるものがあるんじゃないかと思い、彼はこう話を続ける。


「俺には経験というものが圧倒的に足りません。それは仕事とかじゃなくて、なんていうか、人間を知るってことがまだまだなんだと思うんです」


 お凜さんがふっと目許を綻ばせた。


「あんた、音楽は好きかい?」


「えっ? はい。でも、あまり詳しくありません」


「そうかい。今度、じっくり教えてやるよ」


 彼女はそう呟き、紫煙をくゆらす。


「……うん、今夜の煙草は美味い」


 彼女がそう言うと、真輝が黙って灰皿を差し出した。

 その途端、お凜さんが右の眉を吊り上げ、晴々とした声を張り上げた。


「おめでとう。お前は今から琥珀亭の一員だ」


「へっ? あの、いいんですか?」


 呆気にとられていると、お凜さんがいたずらっ子のように笑う。


「あんた、喫茶店で三年バイトしてるって言っていただろう」


「あ、はい」


「そこのマスターと私は昔なじみでね。昨日電話で話したんだ」


「えっ?」


「尊は全てがこれからの無垢な奴だから、琥珀亭で働きたいというなら、お凜ちゃんが力になってやってくれ、だとさ」


 尊は真っ白い眉を下げて優しく笑うマスターを思い出し、胸が熱くなっていた。彼はまるで自分の孫のように、尊を世話してくれたのだ。


「まぁ、真面目だって話だったし、熱意があれば合格にしようと思ってたんだよ。私が気に入れば『煙草が美味い』という手はずだった。そして催促しなくても灰皿が出れば、真輝も気に入ったって合図だったのさ」


 真輝は穏やかな笑みを浮かべて尊を見ている。


「あなたが慌てて帰ったあとに、お凜さんとそう決めたんです」


「でも、なんでお凜さんが面接をすることに?」


「気にするなよ。単に真輝は客観的にあんたを観察したかったし、こういうことは苦手な性分なんだ。人見知りでね」


 真輝の頬が朱に染まった。


「お客様相手なら平気なんですけど、仲間となると途端に緊張しちゃって……」


 仲間という響きに、思わず笑みが浮かんだ。


「そうか、俺、琥珀亭の仲間になれたんですね」


 そう呟くと、じんわりと喜びが胸を満たしていく。思わず立ち上がり、勢いよく頭を下げた。


「松中尊です! よろしくお願いします!」


 真輝が笑い声を上げた。思わず顔を上げた尊は思わず胸を詰まらせた。目の前にある真輝の顔は、今まで見たことのない無邪気さをまとっていたのだ。客相手の顔ではない、素顔の真輝を垣間見た気がした。


「堀河真輝です。よろしくお願いします」


 ずっと知りたかったフルネームを頭の中で復唱していると、お凜さんが景気よくこう切り出した。


「じゃあ乾杯といこうか。真輝、あんたも飲もう。尊はまぁ、座って落ち着け。私と同じものでいいかい?」


「はい!」


 お凜さんが愉快そうに笑う。


「尊の船出に乾杯だ」


 真輝はアルコールではなくお茶だったが、尊とお凜さんの目の前には琥珀色に輝く酒で満たされたロックグラスが置かれた。

 お凜さんが目の前にあるボトルを片手で持ち上げ、しげしげと見る。


「尊、これは『メーカーズマーク』というバーボンだ。ボトルの注ぎ口に赤い封蝋があるだろう?」


 尊は黙ったまま頷く。

 ボトルの口は深紅の蝋で封がしてあったらしく、その蝋がだらりと垂れるままボトルネックに纏わりついている。


「これはね、一つ一つ手作業なんだ。だからただの一つも同じ封蝋はない。カクテルもレシピはあるが作る人や材料や気候で味が変わる。もちろん、人との出会いも同じ出会いは二度と来ない」


 そして、こう続けた。


「尊も世界にただ一人だ。そのあんたが、ここでしか味わえない酒で、ここでしか出会えない人に、そのときしか持てない時間を用意するのが仕事になる。面白いね」


 お凜さんはボトルをゆっくり下ろし、グラスを手にする。


「新しい仲間に乾杯」


 真輝がそっとグラスを寄せる。


「乾杯。ようこそ、琥珀亭へ」


 尊は感極まりながら、頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 グラスを近づけると、お凜さんはふっと軽くグラスを持ち上げて鳴らさずに飲んだ。


「乾杯のときは鳴らすんじゃないよ。グラスが傷つくからね」


「そうなんですか」


 驚きながらメーカーズマークを口にした。慣れないバーボンの味が鮮烈に喉を駆け抜ける。

 ふと、お凜さんが目を細めて壁のスピーカーに視線を送った。


「なんともタイムリーな曲だね。幸先いいよ」


 そのとき初めて、尊は店内にジャズが流れていることに気がついた。

 ジャズのことは何もわからない尊には気の利いたことも言えず、ただ黙り込む。

 そのとき流れていたのがハービー・ハンコックの『Maiden Voyage』つまり『処女航海』という曲だったと知るのは、ずっとあとのことだった。


 尊の航海はこのとき始まった。新しい世界に飛び出したいと飛行機に願っていた彼が、琥珀色の海に身を乗り出した瞬間だった。

 それから尊は雇用形態や給与面のことを真輝と話し合った。


「通勤は車でも大丈夫ですか? 実家は駅のそばなんで歩いても来れますけど」


「駐車場は用意してないんです。お客様にお酒をすすめられてもお茶しか飲まない主義なんですけれど、カクテルの味見はしますから、私は徒歩で来ています」


「真輝さん、家が近いんですか?」


「えぇ」


 すると、それまで黙って話を聞いていたお凜さんが口を開いた。


「そういえば尊は実家を出なきゃならないんじゃなかったっけ?」


 お凜さんには状況を話していたことを思い出し、即座に頷く。


「はい。兄貴夫婦が実家に戻るんで」


 すると、お凜さんの唇が意味ありげにつり上がり、真輝を見た。


「どうだろうね、真輝?」


「お凜さん、強引ですね」


 真輝はどこか呆れ顔で眉を下げている。

 尊がきょとんとしていると、真輝がこう説明した。


「実は、先代のオーナーが残してくれたアパートがあって、私とお凜さんはそこに住んでいるんです。ここからほど近いんですけど」


 こんなに若くして琥珀亭のオーナーだけでなくアパートの管理人でもあることに口をぽかんと開けていると、耳を疑うような言葉が耳に飛び込んできた。


「つまり、お凜さんは、尊さんがうちのアパートで一人暮らししたらどうだろうって提案しているんですよ」


 苦笑する真輝に、尊は思わず「ええ!」と叫んでしまった。

 つまり、真輝と同じ屋根の下に暮らすということで、壁一枚向こうで風呂に入ったり寝ていたりするということだと思うと、頭に血が上りそうだった。

 お凜さんが煙草片手ににこやかに笑っている。


「築年数はだいぶいってるが、悪くはないよ。家賃も安いしね。あんたの給料でもやっていけるだろうさ。琥珀荘っていってね、真輝の死んだじいさんの持ち物だったんだが、管理人は真輝が……」


「よろしくお願いします!」


 お凜さんの言葉を遮って勢いよく飛び出た返事に、二人は呆気にとられ、そして大笑いし始めた。

 こうして、尊の船出はいきなりの追い風を得ることになった。

 あれだけにっちもさっちもいかなかった状況が、一気に滑り出したことに彼自身が一番驚いていた。

 神様なんて信じる質ではないが、このときばかりは神様仏様、そして世界中の誰にでも『ありがとう』を言いたくなった。


 翌日、尊は重たいダンボールを抱えて『琥珀荘』を見上げていた。お凜さんが言うように決して新しいとは言えないアパートだが、ここが自分の住処になると思うと感慨深いものがあった。 

 琥珀荘は2LDKが二部屋、1LDKは二部屋の造りだった。1LDKは二部屋とも空室になっていて、彼は二階を選んだ。一階の2LDKにはお凜さんが住んでいて、玄関のところに『バイオリン教室アンバータイム』という看板がかけられている。二階の2LDKは管理人、つまり真輝の部屋だった。

 両親にバーテンダーになることを話したとき、母親はきちんと正社員として企業に就職して欲しかったらしく難しい顔をしていた。だが、普段は無口な父親が『若い頃は何事も経験だし、手に職をつけるのも悪くない』と、なだめてくれた。

 そして、バイト先の喫茶店のマスターは心の底から、彼の新しい道を喜んでくれた。


「尊君、君のこれからは、眩しいくらい未知数だよ。楽しみだね」


 急にバイトを辞めることになっても祝ってくれる姿に、尊は琥珀亭に勤めてからも、この喫茶店に通おうと決めた。

 尊は琥珀荘に来て、お凜さんの『猫が好きか』という質問の意図を理解した。

 琥珀荘には黒猫のスモーキーと、白猫のピーティーという二匹の先輩がいたのだ。

 どちらも真輝の愛猫で、真輝が留守のときは預かるのが琥珀荘での管理費代わりらしい。

 お凜さんは面接のときに既に自分を琥珀荘に住まわせるつもりだったんだと悟り、思わず微笑んだ。喫茶店のマスターが「家も仕事も探すってのは大変だろうから、住むところもなんとかしてやれないか」と口をきいてくれたのを知るのは、だいぶあとになってからだった。

 尊は「よいしょ」とダンボールを持ち直し、歩き出した。

 真輝は今頃、お通しの材料を買いに行っている。

 お凜さんはバイオリン教室が終わったら、いそいそといつものカウンターの端の席を占領する。バーで垣間見れるお客様たちの人生の一幕を肴にして。

 そして、尊は今夜から琥珀亭のカウンターに立つのだ。いつの日か『マスター』と呼ばれる日を思い描きながら。

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