第4話 ブッカーズ・ワルツ

 荷ほどきをしていた尊は、ぐっと背筋を伸ばした。部屋にはまだ幾つかの段ボールが積まれたままになっていて、すべて片付くにはまだまだ時間がかかりそうだった。

 腕時計に目をやると、ちょうど二時になるところだ。


「まだ時間はあるな」


 琥珀亭の開店時間は午後六時だが、準備のために四時には出勤しなければならなかった。それまでには布団と洗面道具は出しておかないと困る。

 ベッドの上に布団を調えていると、玄関のチャイムが鳴った。琥珀荘にはインターホンはないため、手を止めて玄関に向かって大声を張り上げた。


「はぁい、どちら様?」


「あの、真輝です」


 慌てて駆け寄ってドアを開ける。その向こうには髪をおろした真輝が立っていた。

 尊は口を半開きにして思わず見惚れてしまった。女は七変化の生き物だとしみじみする。

 今日の真輝は見違えるようだった。店ではまとめ髪だったせいか気づかなかったが、毛先に緩くパーマがかかっている。ふわりと肩に垂れる髪は可愛らしく、いかにもスカートが似合いそうだが、淡いクリーム色のカットソーにジーンズというラフな格好をしているところが真輝らしかった。


「真輝さん、どうしたんですか? まだ四時には早いですよ」


 驚いていると、彼女が手にしていた紙袋を差し出した。


「これ、バーテンダーのベストやサロンです。自分の服を買うまでは、これを使ってください」


 紙袋の中を覗くと、ワイシャツや蝶ネクタイまで入っている。そのどれもがクリーニングの袋に包まれたままだった。


「以前、うちで働いていた人の予備なんです。サイズは合うと思うんですよね。あ、でも靴だけは用意してくださいね。黒い革靴持ってます?」


「はい、大丈夫です」


 自分も父親のように革靴を履くのが当たり前になるのか。そう思うと、感慨深いものがある。


「私は帳簿の整理があるので、先に店に行きますね。尊さんは四時に来てください」


「はい、よろしくお願いします」


 頭を下げている間に、ドアの向こうに彼女の姿が消えた。階段を下りる足音が小さくなり、やがて外で車のエンジンをかける音がする。

 真輝の車が走り去った気配にため息が漏れて、がくんと肩が落ちた。思いがけない訪問とはいえ、たったこれだけのやりとりで肩肘を張っていては先が思いやられる。


「俺、やっていけるかな」


 そんな不安を抱きながら、紙袋の中身を広げてみた。

 ワイシャツは襟がウィングカラーになっていた。ベストとサロン、パンツは至ってシンプルな黒。そして蝶ネクタイは留め具で取り外しできるらしい。いかにもバーテンダーといった服が、尊を威圧していた。


「よし、ちょっと着てみるか」


 そう思い立ってクリーニングの袋を外そうとしたときだ。


「ん?」


 尊は違和感を覚えて、手を止めた。目についたのは、袋に入っていた伝票だった。

 しげしげとそこに印字されていた文字を見つめる。感熱紙のせいかだいぶ字が薄くなっているが、そこには確かにこう書いてあった。


「……山本……真輝様? あれ、堀河じゃないの?」


 慌てて他の伝票も見てみるが、全部『山本真輝』という名義だった。


「ということは、つまり……」


 やたら音が響く空っぽの部屋に、尊の力ない声が木霊した。


「……結婚してるのか」


 そう口にして項垂れると、ぶつぶつ独り言を漏らす。


「そうだよな、あんなに素敵な人だもんな。結婚していてもおかしくないよな。でもさ、そうしたらせっかくこうやって毎日会えるチャンスが出来たのに無駄じゃないか?」


 だが、すぐに「待てよ」と、怪訝そうな顔になる。まるで百面相だ。


「でも、結婚しているなら、旦那さんはどこにいるんだ?」


 少なくとも琥珀荘にはいない。別居でもしているんだろうか。

 そこまで考え、尊は大きく頭を振った。


「やめよう。こんなこと」


 自分に言い聞かせるように呟くと、彼は大きなため息をついた。

 真輝がどんな人生を歩んできたかは、彼女が話したくなったら話してくれるだろう。男物の黒いベストを見ながら、ぼんやりそんなことを考えた。


 四時に琥珀亭へ行くと、真輝はもういつものバーテンダーの服で身を包んでいた。髪もきっちりまとめられている。



「尊さん、サイズはどうでした? 身長は同じくらいだから問題ないと思うんですけれど」


 誰と同じなんですか?

 うっかり、そんな言葉が口をついて出そうになり、慌てて頷いた。


「大丈夫です。それより、あの、これなんですよね」


 苦笑する尊が目の前で広げたのはサロンだった。カフェの店員が腰の辺りで巻いているような、真っ黒で縦に長いエプロンだ。


「これ、どうすりゃいいですか?」


 真輝が笑い、サロンを受け取る。


「これはこうして……」


 真輝の手が、尊の腰に回された。

 紐を結びつける真輝の髪からいい匂いが漂って、尊の顔が思わず赤くなった。


「ほら、こうして前で結んで完成です」


「あ……ありがとうございます」


「うん、蝶ネクタイも似合ってますよ」


 お世辞かな、と苦笑する。ここに来る前に鏡を見てきたが、まるでお仕着せで我ながらおかしかったのだ。


「今度、バーテンダーの服を買いに行きましょうね。ワイシャツはできればこういう形の襟が両ネクタイ向けなので。ベストもいろいろあって、私のやつは襟つきなんです。選べますから、尊さんに似合うものを探しに行きましょう」


 真輝の言葉を聞きながら、尊の頭に浮かんでいるのは別のことだった。

 この男物を着ていた人は誰だろう。そして、今はどこで何をしているのか。そんな疑問がよぎる。頭から切り離そうと思っているのに、そう努めれば努めるほど、心にしこりを残していくようだった。

 だが、そこに踏み込む資格がないことは重々承知だった。手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに、真輝の横顔がやたら遠く見えた。


 開店までの二時間は地味な作業ばかりだった。

 カウンターや椅子、床はもちろん、グラスやボトルも磨き、夜のライトの下ではわからないような汚れを掃除していく。トイレは特に念入りに磨き、水回りにサービスで置いておくあぶらとり紙や綿棒も忘れずに補充しなければならない。

 お通しを作り、板氷をアイスピックで割ってストックし、丸氷も幾つか用意するのだった。また、酒や氷、食材を仕入れ、伝票整理や階段の掃除もしなければならなかった。

 毎日ではないが、一輪挿しに花をいけることも大事な仕事だった。琥珀荘の庭で摘んでくるときもあれば、近所の花屋で仕入れることもあるらしい。


「真輝さん、よく一人でやってましたね」


 真輝と手分けして仕事をこなしながら、尊が思わず漏らす。真輝はただ微笑むだけだったが、毎日のこととなると思った以上に仕事量は多い。

 だが、こういうことの積み重ねが、ここで居心地のいい時間を過ごせる秘訣の一つなのだと、尊は感じた。

 真輝は手を休めることなく、作業内容を教え続けている。


「お通しは目で見て楽しい色彩で、食べやすく、原価は安く。しばらくは私が作りますから、盛りつけのコツは少しずつ覚えてくださいね。そのうち、板氷を割ってもらいます。普段使う大きさのものと、丸氷と両方用意するんです」


「あの、丸氷ってどうやって作るんですか?」


「アイスピックで削るんですよ」


「え? あの板氷を? ボールみたいに丸くできるんですか?」


「はい」


「まるで彫刻じゃないですか。俺、美術の成績、最悪ですよ? 俺、役に立てるんですかね?」


「誰もがみんな、一から始めるんですから、ゆっくりでいいですよ。私は尊さんがいてくれるだけで随分助かります」


 自信なさげに肩を落としていた尊だったが、真輝の言葉だけで思わず口元が緩んだ。真輝の手の上で転がされるような気がしないでもないが、それも悪くない。


 午後六時になると、彼女は外灯をつけ、本日のおすすめが書かれた立て看板を手にした。


「さて、では始めましょうか」


 立て看板には以前はマンハッタンだったが、今夜はモヒートに変わっている。だが、あの力強い筆跡は同じだった。


「真輝さんって達筆ですね」


 感心したように言うと、彼女は顔を真っ赤にして俯く。


「いえ、実はこれ、お凜さんに書いて貰うんです」


「あ、そうなんですか。いやぁ、道理でなんだか力強い字だと」


「私、すごく癖字なんですよ。ちょっと気にしてて」


 恥ずかしそうに笑うと、「じゃ、出してきます」と足早に扉の向こうに消える。尊にはなんだかそれが可愛くて、思わず笑ってしまった。

 店に戻ると、真輝が口を尖らせる。


「もう、いつまでにやにやしてるんですか。さぁ、カウンターにいきますよ」


「はい!」


 一気に緊張が尊の背筋を強ばらせた。恐る恐るカウンターの中に立つと、深いため息が漏れ出る。

 そこから見る光景は、まるで違う店の中だった。カウンターの外から見るのと、中から見るのとは大違いで、とうとう、琥珀亭の中に入り込んだということが、今更ながら実感できた。


「俺、すんごく緊張して手が汗ばんでるんですけど」


 ふっと隣を見ると、真輝が尊を見上げて微笑んだ。


「大丈夫。習うより慣れろです」


「……真輝さん、目が笑ってませんよ」


 尊は一抹の不安を感じながらも、真輝とこうして距離が縮まったことに喜びを隠せず笑ってしまった。自分の二の腕くらいの高さにある彼女の顔と気配に胸が高鳴る。

 女性に免疫がないわけではないのに、彼女の隣にいることが、新鮮でとても誇らしかった。ただ、同じカウンターに立っているという、たったそれだけのことなのに、何故こうも自分の心を浮つかせるのか不思議だった。

 真輝は仕事に関しては職人のようだった。手取り足取り教えてもらうのを期待していなかった訳ではないが、実際は『目で見て耳で聞いて盗め』という教え方だ。


「あれ? 新しい子入ったんだね」


 サラリーマンらしき客に「よろしくお願いします」と頭を下げる。だが、彼は「ふぅん」とさして興味もないようだった。

 この客は真輝が目当てか、酒が飲めればいいというタイプかもしれないとは思ったものの、肩すかしをくらった気がした。


「それじゃ、おすすめのモヒートをお願いしようかな」


「かしこまりました」


 何をしたらいいのか戸惑っていると、真輝が「これで氷を砕いてくれます?」と、まるで家庭用のかき氷機を四角くしたようなものを差し出した。


「これはアイスクラッシャーっていって、氷を入れてハンドルを混ぜると細かく砕かれて下の受け皿に溜まるんです」


「はい、わかりました」


 尊は慣れない手つきで氷を入れ、ハンドルを回そうとしたが、力をこめないと引っかかってしまう。思ったよりも重労働だ。

 その間に真輝はライムをカットしている。


「真輝さん、これくらいですか?」


 たまった細かい氷を見せると、「もう少し」と笑う。緊張と力仕事でうっすら汗ばむ尊は「まだですか」と苦笑した。


「おう、こういう力仕事だと男の人がいると助かるな」


 サラリーマンが笑い飛ばしてくれたことで、絶望的な気持ちからほんの少し救われる。何故なら、尊に出来る事は氷を砕くことだけだったのだ。

 真輝さんタンブラーにカットしたライムを絞って、皮ごと落とした。そこに砂糖とミントを入れ、擂り粉木みたいな棒で潰し始める。

 そして、砕いた氷をタンブラーの半分ほど詰め、ホワイトラムとソーダを注ぐ。バー・スプーンで軽く混ぜたあと、また砕いた氷をタンブラーの縁まで足してミントを飾った。これが文豪ヘミングウェイも愛したラム・ベースのカクテル『モヒート』だ。

 だが、尊にはそのレシピも蘊蓄も頭にない。客はグラスを傾け「うん、やっぱ夏はこれだな」と、満足そうにしていた。

 客は飲みながら真輝と楽しげに花火大会の話を始めた。だが、尊はその会話に入ることすらできず、ただただ立ち尽くして愛想笑いしかできなかった。

 この居たたまれなさをなんと言えばいいのか。尊は営業スマイルを必死に保ちながら、肩身の狭い思いで立ち尽くした。何かしなくてはと焦るたびに、自分が何もできないことをまざまざと思い知らされる。せめてトークだけはと思っても、何を話していいのか頭が真っ白になる。

 「いらっしゃいませ」のあとにおしぼりを差し出す。水のことは『チェイサー』と呼ぶ。それくらいのことなら、バーテンダーでなくても少しはバーに慣れた人なら知っているのだろう。だが、尊にとっては、この日初めて知った知識だった。

 焦りと無力感に支配された尊に出来たことといえば、掃除、洗い物、モヒートの氷を砕く、そして挨拶と愛想笑いだった。

 情けなさに打ちひしがれ、閉店時間までの七時間があっという間なような、長いような、奇妙な感覚だった。


 腕時計の針が深夜十二時半を回る頃、店はちょうど最後の客が帰ったところだった。


「いつもより早いですけど、今日はもう閉めましょうか。尊さん、疲れたでしょ?」


 真輝がグラスを流しに運びながら言うのを聞いたとき、長いため息と共に肩の力が抜けた。


「すみません。俺、役立たずで」


「あら、上出来ですよ」


 彼女の慰めも心に響かない。それくらい、尊は滅入ってしまっていた。

 外灯を消し、洗い物と掃除を終えて店のシャッターを下ろしたときには、もう飲み屋街も人通りがまばらになっていた。

 尊は真輝と連れだって琥珀荘のほうへ歩いて行く。本当なら二人での帰路は嬉しいはずなのに、これで給料をもらっていいのかという申し訳なさで一杯になっていた。


「そういえば、今日はお凜さん、来ませんでしたね」


 暗い道に靴音を響かせながら、ふと口を開いた。真輝さんが隣で「あぁ、そうですね」と頷く。


「もう少しでバイオリン教室の発表会があるみたいで忙しいらしいですよ」


「俺、あの人は一年中、来てるんだと思ってました」


 真輝が大きな口を開けて笑う。カウンターでは落ち着いた雰囲気だが、こうしてバーを離れると気さくに見えた。


「お凜さんは先代からの常連客ですからね」


「先代って、真輝さんのおじいさんですか?」


「えぇ。仲がよかったですよ。それで、私のことも孫のように可愛がってくれるんです」


「へぇ」


「お凜さんがいてくれたら心強かったんだけどなぁ」


「あの人は面倒見がいいというか、姉御肌なんですよね」


 歩きながら、夜空を見上げる。満天の星空とは言えなかったが、雲の隙間から綺麗な星が見えた。

 仕事はひどかったが、こうして一緒に帰ることの喜びがじわじわと滲み出し、次第にアパートに着いてしまうのがもったいない気がしてきた。

 時間を惜しむ尊をよそに、真輝は琥珀荘の前でにこやかに言った。


「それじゃ、おやすみなさい」


「おやすみなさい。また明日」


 真輝が微笑み、扉の鍵を開けて中に入っていく。

 『また明日』というなんてことのない言葉だが、初めてなんていい響きなんだろうとしみじみする。

 その余韻を噛みしめながら、彼は自分の部屋に続く階段を昇った。

 さっきよりは幾分か軽い足取りに気づき、我ながら単純だと眉を下げて笑った。


 それから三日後の昼下がり、尊はかつてバイトしていた喫茶店のカウンターにいた。


「尊君、ほら、一杯サービスするから元気出して」


 そう言ってコーヒーを差し出してくれたのは、髪も髭も眉も白い年配の男性だった。


「マスタ−、ありがとうございます」



 情けない顔をしている尊に、彼が皺だらけの顔にもっと皺を浮かべて笑う。


「琥珀亭は大変そうだね」


「俺、自分の出来なさ加減に呆れてますよ」


 あれから日が経つごとに、無力さだけが募っている。


「氷はうまく割れない。メジャー・カップを持つ手が震えて、酒をグラスに入れようとしてもこぼれちまう。あの長いバー・スプーンも使えない。でも、俺が一番辛いのは、真輝さんが俺を叱らないことなんですよ」


「ほう」


「こう、菩薩みたいな穏やかな顔で何度も『もう一度』って言うんです。出来るまで延々と。優しい響きだけど、有無を言わさない感じで、それがまた余計申し訳なくて」


「なるほど、それは叱られたほうが気が楽そうだ」


「でしょう?」と、尊は苦笑して真輝の真似をし出した。


「肩の力を抜いてください。バー・スプーンは回そうと思わず、スプーンの背でグラスを撫でるイメージで」


 そして、がっくりと肩を落とす。


「でもさ、マスター。回そうと思わなかったら、どうやって回るんだろう?」


 マスターが愉快そうに笑っている。


「なんだか、真輝さんは先代そっくりになってきたね」


「マスター、真輝さんのおじいさん知ってるんですか?」


 目を丸くすると、彼はふくよかな腹の上で腕組みをして頷いた。


「あぁ、実は私はね、先代が琥珀亭をやっていた頃の常連だったんだよ」


「へぇ。それでお凜さんを知っていたんですね」


「まぁね。今は身体を壊して酒をやめてしまったけれどね。あの頃は楽しかったなぁ」


 尊は彼の細められた目を見つめた。いつもは穏やかなマスターの瞳が、ちらりと少年のような輝きを宿したからだ。


「先代はね、そりゃあ男前だったよ。粋な人でねぇ。お凜ちゃんは彼の奥さんと親友だったんだ」


 あのお凜さんを『お凜ちゃん』と呼ぶことに微笑みながら、尊は黙って耳を傾けていた。


「そういえば、さっき電話があってね。尊君を探していたみたいだよ。ここにいるって言っておいたから、そろそろ来るんじゃないかな?」


「へ? 俺を? なんだろう?」


「さぁね。お凜ちゃんは昔から何を考えているのかわからないよ、私には」


「お凜さん、昔からあんな風なんですか」


「あぁ。自由気ままで活発でね。真輝さんのおばあさんはおしとやかな人だったから、あの二人が親友というのも意外な気がしたけれどね。きっと、逆だったからよかったのかもね」


「もう亡くなったんですよね、先代って」


「あぁ、あれは悲しかったね。ひどい事故だったんだよ」


「事故?」


「うん。ニュースにもなったんだけどね。真輝さんの……あぁ、いらっしゃい、お凜ちゃん」


 マスターの言葉は途中で遮られた。店中に乾いた呼び鈴の音が響かせて、お凜さんが入ってきたからだった。


「久しぶりだねぇ。何がきっかけでまた顔を合わせるかわからんもんだ」


 彼女はバイオリンケースを手にマスターへ挨拶すると、尊に顔を向けた。


「尊、元気かい。どうだ、仕事は?」


「落ち込んでますよ」


 苦笑すると、彼女は大きな口を開けて笑い飛ばす。ケースを床に置き、尊の隣に腰を下ろした。


「マスター、マンダリンを」


「はいよ」


 マスターが厨房に消えていくのを見送ると、お凜さんはショルダーバッグから何枚かのCDを取り出した。


「ほれ」


「なんです?」


「ジャズだよ。お客さんとの会話の種になるかもしれないからね。いろんな音楽を知っておくといい」


「あ、ありがとうございます」


 尊は藁にもすがる想いでそれを受け取った。


「本当、出来ることなら何でもしますよ。何を話していいか、わからなくって困ります」


 お凜さんはハイライトを取り出しながらにっと笑う。


「話すのはお客さんであって、あくまで主役は客さ。あんたは話を引き出して、膨らませて楽しませればいい」


「それが難しいんですよね」


「まぁ、いろんな話題にある程度ついていけるようにしとけばいいんじゃないか? ただ、詳しすぎてもいけないし、知らなければ教えてもらえばいいんだし。考えすぎだよ」


 マスターがマンダリンの入ったカップを差し出しながら笑う。


「お凜ちゃん、相変わらず世話焼きだね」


「懲りない性分でね」


 マスターとお凜さんは笑みを交わす。旧知の二人だからできるやりとりに見えて、尊はうらやましかった。いつか、自分も友人とあんな風に笑いあえるだろうか。

 ふと、マスターの言葉を思い出し、美味そうにマンダリンを飲んでいるお凜さんに声をかけた。


「お凜さん、真輝さんのおばあさんと親友だったんですってね」


「あぁ。マスターに聞いたのかい?」


「はい」


 彼女は一瞬だけ困ったような顔をしたが、すぐに小さな声で呟くように言った。


「まぁ、そうだね。親友でライバルだったね」


「ライバル?」


 問い返してみたものの、お凜さんはそれきり何も言わなかった。

 そこから長い沈黙があった。尊は踏み入れてはいけないところに足を突っ込んだのかもしれないと気まずくなり、そそくさとサービスしてもらったコーヒーを飲み干し、席を立つ。


「マスター、ありがとうございました。ご馳走様です」


 会計を済ませていると、お凜さんが席に座ったままやっと口を開いた。


「もう行くのかい」


「アパートに戻って、カクテルの勉強です。酒も覚えないとね」


「いい心がけだ」


 そう笑うお凜さんの顔つきがいつもの調子に戻っていることに少しほっとしながら、訊いてみた。


「発表会が終わるまでは店に来ないんですか?」


「いや、だいぶ落ち着いてきたからね、顔を出すよ。あぁ、でも明後日は用事があるから行かないね」


「わかりました。お待ちしてます」


 午後の日差しが溢れる外へ出ると、真夏の重い空気がまとわりついてくる。CDを持つ手まで汗ばんでいる気さえした。

 ふと、お凜さんの一瞬だけ見せた困った顔を思い出す。そして、マスターが言っていた『ひどい事故』という言葉が脳裏をよぎった。

 人には、触れられたくない傷があるんだな。なんとなく、尊はそう感じていた。


「今日もお凜さん来ませんでしたね。顔を出すって言ってたんですけど」


 喫茶店で会った翌日、尊は店を閉めながら真輝に声をかけた。だが、真輝は肩をすくめるだけだ。


「毎年、発表会の時期はこうなんですよ。元々、来るときには来る。来ないときには来ない。保障がないのが水商売ですから」


 そうだとしても、尊には寂しく思えた。たった数回しかここで会っていないのに、あのカウンターの端に彼女の姿がないと妙にしっくりこない。

 お凜さんは不思議な人だった。そこにいるだけで周りの人々をほっとさせてしまう。彼女の器の大きさがそうさせるのかもしれないと、尊は人知れず微笑んだ。


「あぁ、尊さん」


 その夜の帰り道、真輝がこう切り出した。


「明日なんですけど、実は用事があって店に出れないと思うんです」


「えっ? じゃあ、店はどうするんですか?」


「一人でお願いできます?」


「えぇ! 俺、まだ満足に氷もうまく割れませんよ? カクテルもジントニックくらいしか作れませんよ。それに酒の値段も覚えてないし……」


 大慌ての尊に、真輝が吹き出した。


「大丈夫ですよ。助っ人が来ますから」


「助っ人?」


「えぇ。とっても腕のいいバーテンダーです」


「あ、よかった」


 心底ほっとすると、何気なくこう訊いた。


「でも、真輝さんどこに行くんですか?」


 すると、彼女は「すみません」と呟く。


「毎年、この時期と秋にはそこに行かなきゃならなくて」


 その横顔を見たとき、何故か尊は胸を詰まらせた。

 彼女の伏し目に帯びた影は寂しそうでもあり、切なそうでもあり、その表情に尊まで呼吸が苦しくなるようだった。


「あの、大丈夫ですよ」


 思わず、励ますように力強く言う。


「心配しないでください。俺、全力で留守を守ってみせますから」


 口から出任せもいいところだが、彼女のそんな顔を見たくなかった。顔を上げた真輝が、ふっと目を細める。


「ありがとうございます」


 それは、噛みしめるような言葉だった。

 真輝は部屋に入る前に、こう言った。


「明日、開店時間に上杉という者が行きますので。うちの店のことはよく知っているので、心配いりませんから。申し訳ないんですが、よろしくお願いします」


 開店時間に来るということは、お通しは尊が用意しなくてはならないということだ。

 尊は「わかりました」と頷き、上杉という人物への期待と不安を胸に部屋に入っていったのだった。


 翌日の昼下がり、尊はお通しの材料を買うために部屋を出た。階段を降り、真輝の部屋の窓を見上げると、もう出かけたあとらしく、青いカーテンがきっちり閉められていた。

 一体、どこに行ったんだろう。そう首を傾げながら歩き出したとき、お凜さんの部屋の窓に人影が映った。


「うわぁ」


 思わず感嘆の声を漏らす。窓辺でお凜さんがバイオリンを弾いていたのだ。かすかに漏れる音はどこか切ないメロディを紡いでいる。


 思わず歩み寄ると、ふとお凜さんと目があった。

 邪魔だっただろうかと戸惑う尊に、お凜さんが手招きする。おずおずと歩み寄った彼に、お凜さんは玄関から顔を出して話しかけた。


「尊、これから開店準備かい?」


「あ、はい」


「真輝は?」


「もう出たんじゃないですか?」


「店はどうするって?」


「上杉って人がヘルプで来るみたいです」


 そんなやりとりをすると、彼女が「ふむ」と唸って、俺をじっと見た。


「どこに行くか言っていたかい?」


「いいえ」


 すると、お凜さんが意を決したようにこう言った。


「入りな」


 彼女は何故か少し機嫌を悪くしたようだった。

 尊は首を傾げながらも、言われるままにお凜さんの部屋に入っていった。

 お凜さんの部屋は2LDKだったが、彼が通されたのはバイオリン教室として使っている一室だった。アップライトピアノと譜面台が二つ、小さなソファとテーブル、そして楽譜がびっしり詰まった本棚がある。そしてテーブルの上には先ほどまで彼女が弾いていたバイオリンが置いてあった。

 深い色をしたバイオリンは素人の尊が見ても古そうだった。飴のように艶を帯び、なめらかな曲線が美しい。


「フェアじゃないね」


 お凜さんが出し抜けに言うので、尊は呆気にとられてバイオリンから彼女に視線を移した。


「あんたに店番を頼んでおきながら理由も言わないなんて、ずるいじゃないか」


「でも、言いたくないなら俺は構いません」


「まぁ、そこが尊のいいところなんだろうけど、真輝は甘えてるよ。一緒に店をやる以上はいずれ耳に入ることなんだから」


 お凜さんはピアノの椅子に腰を下ろす。


「まだ感傷的なのかね」


「どういう意味ですか?」


 きょとんとしていると、彼女がこう続ける。


「お盆ともなると思い出すんだろうかって意味だよ」


 尊はその言葉で、今がお盆だと思い出す。


「もしかして……」


「そう、今日は先代の墓参りに行っているはずだよ」


 お凜さんが口元に寂しげな影を浮かべている。


「お凜さんも今日用事があるって言ってましたけど、もしかしてこれから墓参りですか?」


 彼女は「ちょっと待ってな」と笑うと、部屋から出て行く。しばらくすると、手に一本のボトルを持って戻ってきた。テーブルに静かに置かれたボトルには筆記体の文字がある。


「ブッカーズというバーボンだ。真輝のじいさんが好きだった酒だよ」


 そして、彼女はまたピアノの椅子にゆっくり腰を下ろした。


「あたしはお盆と命日には、いつもこの酒を飲むんだ。彼の好きだった飲み方で、彼の好きだった曲をこうして弾きながら」


「それがさっきの曲ですか?」


「あぁ。チャイコフスキーの『感傷的なワルツ』だ」


「聴かせてもらえますか」


「これで飯を食ってるあたしに、ただで弾けというのかい? 真輝に内緒で一杯くれるっていうなら、聴かせてもいいがね」


 その言いぐさに思わず笑ってしまうと、お凜さんまで笑みを漏らした。


「まぁ、いいさ。なんだか尊なら構わない気がする」


 彼女はバイオリンと弓を手に取った。バイオリンを構えたお凜さんは和音を鳴らして調弦すると、すっと一呼吸いれる。そして辺りにメロディが流れ始めた。

 その音色を聴くうちに、自然と口が開いて、見惚れてしまう。バイオリンを演奏するところを間近で見るのは初めてだし、なによりビブラートが生み出す叙情的な響きが胸を狭くした。

 尊にとってワルツとは明るいイメージだった。それなのに、この曲はどこまでもセンチメンタルだった。まるで夕暮れにふと心許なさを感じるような、そんな気持ちになる。メロディが美しすぎるせいだろうか。それとも、お凜さんが曲にこめた想いがそうさせるのだろうか。

 演奏を終えたとき、尊は惜しみない拍手を送った。感動のあまり言葉が出ない。拍手でしか感動を伝えられないのは情けない気がしたが、本当に何を言っていいのかわからなかったのだ。

 お凜さんはちょっと照れた様子で、バイオリンを置く。


「ワルツっていうとね、三拍子でズンチャッチャと明るいイメージがあるが、こういうのもあるんだよ」


「本当ですね。切ない曲ですね」


「蓮太郎さんが大好きだったんだ」


「レンタロウ?」


「真輝の死んだじいさん。琥珀亭の先代だ」


 その名を口にしたお凜さんの目に懐かしいものを見るような光が帯び、その口元に寂しげな影を落としていた。


「私はね、もともとは真輝の死んだばあさんの親友だった。音楽学校で一緒だったんだ。彼女はチェロを弾いていたよ。大人しくて優しい人でね、真輝にそっくりだ」


 ぽつりぽつりと、皺の目立つ口から言葉がこぼれる。尊は相槌も打たず、黙ってそれを聞いていた。

 お凜さんは、さっきの曲を弾いて感傷的になっているような気がした。曲に乗せるだけでは追いつかない胸の内を吐き出したいような顔をしていたのだ。


「私は札幌のオーケストラに所属していたが、生まれたこの街を出なかった。ここには琥珀亭があったし、蓮太郎さんが好きだったんだよ」


 ちょっと驚いて彼女を見ると、ふっと眉尻を下げていた。まるで女学生みたいに照れた顔だった。


「遙というのが、死んだ真輝のばあさんの名前だが、私が彼女を琥珀亭に連れて行ったのがきっかけで、蓮太郎さんと遙は結婚し、あたしは別の男と結婚した」


「それじゃ、お凜さんは親友に惚れた男をとられたってことですか」


 思わず呟いてから慌てたが、彼女は豪快に笑い飛ばす。


「まぁ、それでよかったんだよ。おかげであたしはずっと二人と親友でいられたんだ。でも、遙は随分前に病気で先立ってね。四年前の事故で蓮太郎さんも逝ってしまった」


「喫茶店のマスターからそれだけ聞いてます。ひどい事故だったって話ですけど」


「あぁ。信号待ちをしていたところにトラックが車線を越えて突っ込んできてね」


 お凜さんが長いため息をつく。


「あの頃の真輝はひどかった。しばらくはご飯も喉を通らず、店も閉めていた時期もあったよ。でも、きっとまだ立ち直ってはいないんだ」


「そりゃ、突然だったでしょうからね」


 同情をこめて頷くと、お凜さんが首を横に振る。


「真輝はね、色んな人を突然失っている。かけがえのない人ばかりをね。傷は深いんだ」


 そして、お凜さんは尊をじっと見つめた。


「あたしはね、期待しているんだよ。あんたがいてくれることで、真輝がいい方に変わってくれることをね」


「俺が?」


 尊が思わず目を丸くすると、お凜さんはそっと頷く。


「尊という新しい風が吹くことで、琥珀亭の空気も変わればと思っているんだ」


「俺、何をすればいいんでしょう?」


「何も。思うまま、そこにいてやってくれ。本当に変わるなら、自然に変わるだろうから」


 そして、彼女は目を細める。


「暁はあんたを見てどう思うのかねぇ」


 聞き慣れない名にきょとんとしていると、お凜さんが唇を吊り上げた。


「今日、助っ人に来る男だよ。上杉暁。琥珀亭の先代の一番弟子だ」


「一番弟子? お弟子さんがいたんですか」


 お凜さんが腕組みをして口を尖らせた。


「あいつくらいだよ、あたしを『おババ様』なんて呼べるのは。だが、気のいい奴だし、腕は確かだ。真輝では気がつかないところも教えてもらえるだろうから、楽しみにしているといいよ」


 お凜さんに見送られ、尊は部屋を出た。

 玄関の扉を閉める間際、彼女がこう言った。


「尊、頼んだよ」


 それは今夜の留守番のことなのか、それとも別の意味がこめられているのかわからなかったが、「はい」と素直に頷いた。

 真輝と仕事を始めてたった数日だが、尊は何度か彼女の横顔に影を見いだしていた。どこか遠くを見るような、ふっとどこかに消えてしまいそうな顔をするのだ。

 そんな顔をさせる何かを彼女は背負っている。それが、お凜さんのおかげで少し分かった気がした。

 だが、尊は黙って傍にいようと決めた。言いたくなったらいくらでも聞く。言いたくなければ、ただ隣でたたずんで『一人じゃないですよ』と、温もりで伝えたい。むしろ、自分にできることはそれくらいしか浮かばなかった。

 お通しの材料を買うために車を走らせる最中、彼は流れていたラジオを消した。脳裏に浮かぶのは『感傷的なワルツ』の切ないメロディだ。

 きっと、お凜さんはブッカーズを飲みながら、あのどこか寂しいワルツを再び奏でているのだろう。

 お凜さんは話しきれないほどの想いを、まだ心の底に沈めている気がした。あのワルツに乗せて吐き出すしか術がないというのが、切ない。

 みんな、何かを抱えながら生きている。尊はしみじみと、そう思った。

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