第2話 赤い月とマンハッタン

 近寄れば近寄るほど、美人バーテンダーはあの日と変わっていないことがわかった。強いて言えば、あの頃も痩せていたが、更にほっそりしたように思えた。

 相変わらず綺麗な横顔がぼんやりと空を見上げていたが、何かを思い出したのか、突然我にかえったようだ。彼女は手にしていた立て看板をバーへと続く階段の入り口に置き、足早に建物に消えていった。

 尊はまるで尾行する刑事のようにそっと近寄ると、その立て看板を凝視した。そこには力強い達筆で、『琥珀亭の今夜のおすすめ』という見出しがある。


「マンハッタン?」


 見出しの下にある文字を、思わず口に出して読んだ。なんの酒なのか、彼にはさっぱり見当もつかない。バーだけにやはりカクテルなのかもしれないと、彼は階段を見上げる。狭くて急な階段は二階に続いていた。

 尊は、思い切って階段に足をかけた。一歩一歩と上がるたび、何故か胸が高鳴った。緊張するような、それでいてわくわくするような感覚に、さっきまでのむしゃくしゃした気分が嘘のように消し飛んでいる。

 普段なら、物怖じして行き慣れた居酒屋へ向かっただろう。だが、このとき彼を動かしたのは好奇心だった。その興味がマンハッタンか、それとも女性バーテンダーに向けたものなのかは、彼自身わからなかったが。


 階段を上がると、細い廊下に突き当たった。その一番奥に橙色のライトで照らされた真鍮の看板があり、『Bar琥珀亭』の文字が刻まれていた。賢太郎とここに来てから四年はたっているが、何も変わらない。

 重厚なドアの取っ手に手をかけたものの、躊躇してしまった。

 ここに来て何を飲めばいいのだろう。賢太郎と違い、ウイスキーもカクテルもわからないのに。そもそも、どうしてここに入ろうとしてるのかもわからないのに。

 そう考えたが、何故か看板を見るだけであんなに荒んでいた気持ちが凪いでいたことに気づき、ぐっとドアノブを下げた。

 あの女性バーテンダーと話したら、もっと落ち着けるような気がする。そんな期待を胸に、彼は扉を押した。


「いらっしゃいませ」


 真っ先に見えたのはずらりと酒が並ぶカウンターにたたずむバーテンダーだ。

 記憶にある通り、彼女はやはり綺麗だった。白い肌に、すっとした鼻と大きな目が印象的で、賢太郎と来たあの日と同じく、長い髪を結い上げていた。ほっそりした首をしていて、バーテンダーの服がよく似合っている。


「どうぞ、こちらへ」


 それを聞いて、『そうだ、彼女はこんな声をしていた』などと懐かしくさえ思う。小さく頭を下げ、手で示されたカウンターの席に歩み寄った。

 カウンターには一人の先客がいた。

 一番端の席に、一輪挿しの薔薇を見つめながら、ゆっくりとグラスを傾ける女性が座っていた。初老といってもいい年齢だが、パーマをかけた髪と風合いのいいジーンズが彼女を若々しく見せていた。手元には煙草と灰皿があり、紫煙が弧を描いて昇っていく。

 カウンターはL字型になっていて、尊が座った席からは先客の顔が斜めからよく見えた。意思の強そうな目と眉をしている。恐らく、若い頃は相当な美人だったと思われるが、その顔には皺がいくらか見えるようだ。

 尊の視線に気付いたのか、彼女は目を向けたが、すぐに何食わぬ顔でまた右手のウイスキーを口に運ぶ。

 女性バーテンダーがにこやかに尊に話しかけた。


「お久しぶりですね」


「えっ、覚えてるんですか?」


 四年も前の、しかもたった一度きりの客を覚えていることに驚くと、彼女はおしぼりを差し出しながら微笑んでいた。


「えぇ。小森様といらっしゃいましたよね」


 『小森』というのは、賢太郎の苗字だった。

 おしぼりを受け取りながら、尊の胸が高鳴った。もしかしたら彼女は先輩に気があるのか、それとも自分に好意を持っていたのだろうか……などとどぎまぎする。

 だが、女性バーテンダーは物静かに微笑んだ。


「一度お会いした方の顔は忘れないんです。職業病ですね」


 思わず『なんだ』と呟きそうになって、慌てて口元を引きしめる。

 つい、がっかりして丸まった背中に、女性バーテンダーが目を細めた。

 もしかして、顔に出たかもしれないと思うと恥ずかしいやら、その笑顔に照れるやらで顔が赤くなるのが自分でもわかった。


「何になさいますか?」


「えっと、あの……」


 おどおどと視線を泳がせていると、咄嗟に立て看板を思い出した。


「あの、マ......マンハッタンを」


「かしこまりました」


 自分がバーでカクテルを注文していることに驚きながら、店内をそわそわと見回す。

 琥珀亭は何も変わっていなかった。壁も床もカウンターも椅子も全部木目だ。太い梁が向きだしになっていて、吹き抜けの天井近くでシーリングファンファンが回っている。壁一面にパブミラーがかけられ、棚にはミニボトルが置かれていた。

 バーテンダーはカクテルグラスを置き、幾つかのボトルを取り出した。氷をガラスの容器に素早く入れる。その手つきは素早いけれど綺麗だった。そこに今度は酒を入れて、バー・スプーンで器用に混ぜている。

 尊はうっすら口を開けたまま、それをただただ見ていた。

 彼は素人だが、女性バーテンダーの手つきに迷いがなく、プロ意識の高い仕事をしていることは、なんとなく察していた。彼女の愛らしい目は今、真剣な光をまとい、いかに本気で仕事に向き合っているか語っていた。だがその口元には静かな笑みが浮かび、余裕すら感じるのだ。

 かっこいい。尊は素直にそう感じた。それが彼にとって、生まれて初めて誰かに心を奪われた瞬間だった。彼女は美人で、それでいて凛々しかった。


「お待たせいたしました」


 やがてコースターの上に出されたのは、夕焼けのような橙色を帯びた赤いカクテルだった。ピンにささった真っ赤なチェリーが沈められ、まるでそれが夕陽に見える。


「綺麗だなぁ」


 思わずぽろりと漏れた賛辞に、彼女は嬉しそうに言った。


「マンハッタンはカクテルの女王ですから」


 『あなたのほうが綺麗です』とも思ったが、ぐっと口に出すのを堪えた。おそらく、彼女は自分を褒められるより、カクテルを褒められたほうが嬉しいのだろう。そう思えるほど、彼女のバーテンダー姿は誇りに満ちていた。

 こぼれないようにそっとグラスを持ち、恐る恐る一口含む。


「うわぁ」


 思わず『きつい』と言いそうになって、口をつぐんだ。アルコール度数がどれくらいあるのか想像もつかないが、強烈だった。だが、不思議なことに美味いのだ。


「あの、すごく美味しいです、本当に」


 しどろもどろで言うと、彼女は笑って、すぐに水を出してくれた。


「もしかして、酒に弱いのまで覚えてました?」


 その上、アルコールの強さに驚いたことが顔に出たのだろうと、思わず苦笑する。


「えぇ。お仕事が決まったことも。もう慣れましたか?」


 すっと笑顔が消えて、身体の芯を冷えたものが走った。尊の表情が一変したことにバーテンダーは戸惑ったのか、目を丸くした。


「どうしたんですか?」


「実は、あの仕事の話、なくなっちゃって」


 惨めさに、自分の手元から視線を上げることが出来なかった。こんな自分を彼女はどんな目で見ているんだろう。そう思うと、怖かった。

 だが、彼にかけられたのは、「まぁ、そうだったんですか」という短い返事だけだった。

 尊はゆっくり顔を上げる。彼女は聞き流すのでもなく、淡々と話を受け止めた様子で、何度も頷いていた。

 それを見た途端、ふっとどこかが楽になった。

 この話をすると、大抵の友人や知人がまるで自分のことのように、やきもきしたり、落胆する。もちろん、心配してくれるのはありがたいことだった。だが、彼らは必ずといっていいほど、自分たちの価値観を物差しにして、哀れみの目を向けてくる。あの『可哀相に。これからどうするの。実家暮らしのバイト生活だなんて、甲斐性なしになっちゃうよ』と言葉なしに語る目は、彼を一層惨めにさせる。

 だが。このバーテンダーはただただ、話をすとんと受け止めてくれただけだった。その言葉には哀れみが一切ない。そのことが、驚くほど尊の胸につかえていたものを落としてくれたように感じた。まるで、水を取り替えてもらった金魚が酸欠から解放されたような生き返った心地だ。

 今まで、周囲の反応が嫌で俯くばかりだったが、この人の前では、ありのままでいいんだと咄嗟に感じて安堵していた。

 それきり黙りこくってしまった尊が水と交互にマンハッタンを口にしていると、彼女はすぐにお通しを出してくれた。


「はい、どうぞ」


 白いシンプルなプレートにカナッペや生ハム、そして十字に綺麗な切れ目を入れられた葡萄が並べられている。葡萄をそのまま出すだけではないことに感心しながら、尊は手を伸ばした。確かに切れ目が入っているほうが皮がするりと剥けやすい。

 彼女は向こう側の先客となにやら言葉を交わしてから、尊の傍に寄ってきた。

 何か話さなきゃ。そう焦ったせいか、尊の声がうわずる。


「あの、マンハッタンって綺麗なカクテルなんですね。俺、今日、初めて飲みました」


 彼女は静かに相槌を打った。


「お気に召していただけて嬉しいです」


 そして、ふと、こんな言葉を続ける。


「今夜のお月様、見ました?」


「え? あぁ……」


 『あの気持ち悪い色の……』と、言おうとした彼より先に、彼女はこう言った。


「綺麗な色でしたね。まるでこのマンハッタンのチェリーみたいだなって思って、今夜のおすすめはこのカクテルにしたんです」


 無邪気に頬を緩めながら微笑む彼女を、尊は間抜け面でぽかんと口を開けて見つめた。

 面白いものだと、彼は思わず頬を緩めた。

 自分が『気持ち悪い』と思った月を、彼女はあのとき『綺麗だ』と思って見上げていたとは。

 同じ物を見ていても感じることは違う。当たり前のことかもしれないが、見方をちょっと変えれば、世界は美しくなるんだと言われたようだった。

 そして、それは『もっと肩の力を抜いていろんな角度から世界を見渡してごらん』というアドバイスに思えた。

 大学を卒業し、就職活動の末に正社員になって、結婚して、子どもを育てて……。そのレールから外れたり遅れたりすることに、危機感を持っていた自分に気づいた気がした。

 けれど、彼女を見ていると、ちょっと遅れても、誰に何を言われても、焦らなくていいんじゃないかという気持ちになれたのだった。

 彼女は意味もなくただただ「赤い月が綺麗だ」と言っただけだろう。だが、尊にはそれが違う意味を持って聞こえた。

 人と話すということが面白いと、彼は初めて思った。もし、琥珀亭にふらりと来て月の話をしなければ、この発見はなかったはずだと思うと、無性に嬉しいのだった。


 尊がマンハッタンを飲み干す頃には、相当酔いが回っていた。

 これ以上飲んだら、また前と同じことになる。そう考えた尊は、勘定を済ませると、席を立った。

 どこかに飲みに行って、『名残惜しい』と思うのは初めてだった。

 女性バーテンダーはカウンターの中から出て、店の外まで見送ってくれた。


「ありがとうございます」


 そう言って頭を下げる彼女に、尊が笑みを漏らす。


「いえ、こちらこそありがとうございます」


 なんだか、あなたのお陰で頑張れそうです。そんな思いをこめた言葉だと知らない彼女は頭を上げ、満面の笑みを見せてくれた。


「またお越しくださいね」


「えぇ、是非」


 尊はふらふらしてるのを悟られないように歩き出した。数分して振り返ると、もう彼女は店に戻っていた。

「ようし、明日も頑張るか」

 尊はぐっと拳を握りしめ、叫びたい気分をこらえながら家路についた。


 実家に着くと、服を着たままベッドになだれ込む。見慣れた天井を見つめ、酒臭い呼気を感じながらぼうっとしていた。

 いつもは飲み過ぎて吐いたり気持ち悪くなっていることが多いというのに、この日の酒は本当に気持ちよかった。ふわふわと宙を漂うような、余韻に浸れる飲み方を初めてしたと思うと、大人の階段を一歩昇ったような気さえした。

 しかし、飲み過ぎたことには変わらない。目を閉じると文字通り世界がぐらりと回る気がして、暗い部屋でじっと目を見開いていた。

 目の前に浮かぶのは、あの木の匂いがする店内と、静かに流れるジャズ。そして、彼女の静かな微笑み。

 まるで秘密基地を見つけたような気持ちになった尊は、それからしばらく眠りにつくことができなかった。


 それ以来、尊は丸くて赤いものや『マンハッタン』という言葉に敏感になってしまった。それがカクテルではなく、たとえニューヨークのマンハッタンでもだ。

 バイトの帰り、毎日のように『琥珀亭へ行ってみようか』と迷う。けれど、相変わらず何を飲めばいいか浮かばない。


 ある日、本屋に行った彼は今までまったく興味のなかった実用書コーナーをうろついていた。吸い寄せられるように手に取ったのは、カクテルの本だった。カクテルの名前、レシピ、アルコール度数やその酒にまつわるエピソードなどが載っているもので、厚かった。

 目次を見て、ぱらぱらとページをめくると、自然とマンハッタンを探していた。あの赤いチェリーがもう懐かしい。

 なにより、また彼女に会いたかった。尊は惚れっぽい質ではなかったが、単に彼女と他愛もない会話をしてみたかった。自分が感じたことを、彼女はどう感じるんだろうかと、興味がわいたのだ。

 しかし、同時に怖くもあった。

 あのとき、彼女は『今は何のお仕事を?』ときかなかった。そこまでたいして興味もないのか、これ以上触れてはいけない話題だと察したかはわからない。

 だが、もし次に会ってその質問をされたとき、胸を張って「この仕事で頑張ってます!」と言いたかったのだ。それが男の見栄だとしても。

 尊はマンハッタンの写真をしげしげと見つめたあと、更にページをめくる。色とりどりのカクテルの写真が並んでいるが、どんな味がするのか想像もつかなかった。ただ、アルコール度数が高いものが多いことがわかり、腰が引けた。知ったかぶりしてカクテルの名前を口にしているだけの奴だと思われるのも嫌だった。

 尊はそっと本を閉じ、棚に戻した。結局、レジに持って行ったのは新しい履歴書と漫画だけだった。


 だが、それ以来、どうしてもあの店にまた行ってみたくて仕方なかった。

 相変わらず求人も少なく、面接に行っても落とされ、バイトだけの毎日が続いていたが、何故か、あの店に行ったらほんの少し、何かが変わるような気がしていた。

 あの飛行機を見たときの気分とは少し違い、願うだけではなく熱のようなものが胸の奥でくすぶるのだ。

 琥珀亭でもっといろんなことを知りたかった。いろんな話をして、自分に何かを取り込みたい。

 そんな気持ちに取り憑かれた尊が琥珀亭の扉を開けたのは、次の給料日の夜だった。財布に増えた一万円札に、勇気をもらったのだ。

 琥珀亭の扉を押すと、呼び鈴の乾いた音が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 女性バーテンダーの声はそわそわしていた尊に安堵をもたらした。目映い笑顔に視線を奪われながら、照れくさそうに呟く。


「また来ちゃいました」


 そのとき、カウンターの端に座る背中が見えた。

 この前居合わせた初老の女性客が、また飲んでいる。違うのは服装だけで、あの日とまったく同じようにウイスキーのロックを一人で楽しんでいるようだった。

 なかなか彼女と二人きりにはなれないな。

 そうがっかりしていると、バーテンダーは先客の二つ隣の席を「どうぞ」と勧めてくれた。

 前回のように、端と端ではないことに驚きつつ、言われるまま腰を下ろした。

 おしぼりを差し出した彼女はにこやかに「何になさいますか?」と問う。尊は前もって用意してあった答えをおずおずと口にした。


「竹鶴を」


 それは賢太郎が千歳に戻ると必ず飲むと言っていたウイスキーだった。賢太郎はあのあと、なんとか会社を立て直して頑張っている。

 尊は、心のどこかで彼を恨めしく思った時期もあった。だが、何も苦労せずに甘えた自分には、彼を責める資格はないと、いつも自分を戒めるのだった。

 あの空港に迎えに行ったときから、心のどこかで賢太郎に憧れていたのを彼は自覚していた。

 賢太郎は必死に働き、自分の足でしっかり歩いてる。そうなりたいと思う一方で、いつか彼以上に頼もしくなってやるという気概もあった。

 この日、尊はそんな彼にあやかりたくて、竹鶴を飲もうと決めてきたのだった。

 あの夜からやり直して、今度は自分の足で歩いて行こうという、仕切り直しでもあった。

 賢太郎にはなれないが、彼のやり方を見よう見まねでもつれながらも足を踏み出さなきゃならない。

 だが、そうわかっていても、何かに背中を押して欲しいのだ。

 そんな尊に、彼女はにこやかに問いかける。


「本日は12年と17年がございますが、どちらになさいます?」


「えっ?」


 何を言っているのかわからず、目が点になっている尊に、彼女は申し訳なさそうに言った。


「すみません、21年は昨日切らせてしまって」


 尊の頭が真っ白になる。

 ウイスキーというのは、年数で何か変わるのだろうか。やはり年数が多いほうが美味いんだろうか。その分、値段も高いのか。

 そんな疑問符がぐるぐると頭をまわったが、たいして味がわからないのだから安いので充分だと踏んで、彼は即座に「12年で」と決めた。。


「飲み方はロックで?」


「あ、えっと……」


 『ロック』とは、つまり隣の女性客が飲んでいるようなものだろうか。そうあたふたと先客を見ると、視線がかち合った。

 初老の女性は手にしていた煙草を灰皿に押しつけ、話しかけてきた。


「あんた、ウイスキーはあまり飲まないのかい?」


「え? あ、はい。今日が初めてです」


 正直に言うと、女性はいたずらっ子のように口の端をつり上げた。


「いいねぇ。若者にウイスキー好きが増えてくれたら嬉しいもんだ。ちょいと、真輝」


「はい」


 『真輝』というのが、美人バーテンダーの名前らしい。どんな漢字を書くのだろうと呑気に考えていると、先客は棚を指さした。


「17年を彼に。私からのおごりだ。本当は21年どころじゃなく、25年と言いたいところだけどね」


「えっ、それは申し訳ないです!」


 見ず知らずの人からの突然の好意に驚いていると、彼女がくくっと笑う。


「いや、あんた面白そうだからいいよ。それに、せっかくなんだから、最初に美味しいやつを飲んでおくといい」


「面白いって、俺が? そうですか?」


 きょとんとしていると、先客はバーテンダーに「飲み方はハーフロックでいいと思う。チェイサーもつけてやんな」とだけ言い、尊に向かって微笑んだ。


「あたしはウイスキー好きには優しいんだ。あんたがウイスキー好きになってくれれば、嬉しいね。いいバー仲間が増えるじゃないか」


「あ、じゃ遠慮なくいただきます。すみません」


 恐縮して頭を下げると、笑い皺を浮かべて笑われた。


「初々しいね。うちの孫みたいだよ」


 そう言いながら唇をウイスキーで湿らせる姿は、しっくり板についていてかっこよく見えた。

 真輝はロックグラスを取り出すと、氷を一つそっと入れた。家庭の冷凍庫で作る氷とは違い、女性の握り拳くらいの大きさはある。そして白い部分が一切なく、透明だった。

 次いで、メジャーカップで量った琥珀色のウイスキーが注がれ、そこに少し水を足している。

 ハーフロックとはロックに水を足す飲み方らしい。アルコールに弱い自分でも飲めそうだとほっと胸を撫で下ろしていると、コースターと共にグラスが差し出された。


「あの、いただきます」


 尊は手に取ったグラスを先客の女性に向けた。彼女は右眉を上げ、グラスを寄せる。


「いいウイスキー仲間になってくれるといいがね。あたしゃ、三木凛々子。お凛さんってみんな呼ぶよ」


「松中尊です。よろしくお願いします」


 乾杯が終わると、恐る恐る一口舐めるように飲んでみた。


「おおう」


 アルコールは強いが、それでも癖になりそうなほど美味かった。水が入っているためか口当たりは強すぎることもなく、鼻の奥に立ちこめる香りがとても気持ちよかった。


「美味いですね。一杯でノックダウンされそうだけど」


 お凜さんがにこやかな顔で尊を見ていた。


「いい酒だろ? ダウンしたらタクシーを呼んでやるから、安心しな」


「はい」


 苦笑しながらも、素直に頷く。


「ウイスキーがこんなに美味いものだなんて驚きです。俺がもっと酒が強かったら、沢山飲めたんでしょうけどね」


 情けない顔をしている尊に、お凜さんは苦笑した。


「それは関係ないさ。どんなに強くたって、ただがぶ飲みするような奴はいつまでたってもウイスキーのよさに気づきはしない。弱くたって、いい酒との付き合い方を知れば楽しめるもんだ」


 彼女はそう言って、自分のグラスに残っていたウイスキーを飲み干した。グラスを置くと、真輝が目の前にあったボトルから酒をつぎ足す。何も言わずとも注がれる酒を見つめるお凜さんの目は優しく細められていた。

 不思議な人だと、尊は酔いでぼんやりする頭で考えていた。一見すると気が強そうで怖いものの、話してみると『すがっていいよ』と言われているような包容力を感じる。


「あの、お凜さんは何をしている人なんですか? 毎日、ここで飲んでいるんですか?」


 思い切ってそう訊いてみると、お凜さんは「あぁ」と短く笑う。


「あたしはバイオリンを教えているんだ」


「バイオリンですか?」


 彼女が奏でるバッハはロックになってしまいそうだと目を丸くした。すると、それを見透かしたように、お凜さんが笑う。


「似合わないだろ?」


「え? いや、あの」


「よく言われるよ」


 なんでも顔に出る性分を恨めしく思いながら、申し訳なさに小声になる。


「でも、あの、バイオリンで食っていけるなんて凄いじゃないですか。かっこいいですね」


 何をしたらいいのかわからないなんて言っている自分とは月とすっぽんだと、彼は首をすぼめた。

 彼女は自分の夢に向かって走り続けてきた人なのだろう。グラスを手にする凛々しい横顔も、その強い眼差しも揺るぎなくて、勇ましい。

 小気味よい笑い声を上げ、彼女はウイスキーの入ったグラスをそっと両手で包むように呟いた。


「あんたの年の頃にはね、『夢や理想じゃ生活できない。世の中、天職を見つけられる奴なんてそうはいないんだから、女は黙って嫁に行って家庭を守れ』ってよく言われたよ」


 幼なじみに言われた言葉そのままで、尊の顔が驚きに染まった。

 お凜さんはふっと右の眉を下げて穏やかに言った。


「でも、あたしゃ、欲張りの負けず嫌いなんだ。夢を生活の糧にして、嫁にも行って、口うるさかった連中を黙らせてやったよ。確かに天職なんてそうそう見つからないけど、目の前にある仕事を天職にするのは気の持ちようさ。そういうマイナスなことを乗り越えるから夢は余計に輝くんだ」


「そういうものですか?」


 呆然と呟く尊に、お凜さんが笑う。


「登山家がそこに山があるから登るように、誰に何を言われても、どんなに苦しくても、結局好きだからやらずにはいられない。問題は一歩を踏み出せるか、そして続けられるかどうかだ」


 その言葉を噛みしめるほど、自分の幼稚さをまざまざと見せつけられた気がした。尊は周囲の目ばかり気にしている自分を恥ずかしく思い、うつむいた。

 お凜さんは何も言わずにそんな尊を見つめると、ウイスキーを再び飲み出した。カランと氷が崩れる音が、やけに彼の中に響いた。


「……俺、甘ったれなんですね」


 思わず呟いたのは、自分でもわかっていたけれど、認めたくない言葉だった。逃げているだけの自分を本当に認めてしまうと、なんだか全てが終わる気さえしていた。

 だが、こういう悩みは尊だけの問題でもないことは百も承知だった。不景気なご時世と言われてはいるが、世代の問題でもない。ずっと年上のお凜さんも同じことを乗り越えてきたのだから。


「俺、今度こそ山を登ってみたいです。そこに意義を見いだせる人間になりたいです」


 尊は『やり甲斐のある仕事じゃなきゃ嫌だ』と、仕事を選んでいたところがあった。

 今になって思えば、どんな仕事にもきっとやり甲斐があるんだろう。それを見つけようとするかどうか、そして飛び込んでいけるかが問題だったのかもしれない。

 何気なくお凜さんが問う。


「あんたは何の仕事をしてるんだい?」


 彼は、彼女に今までの経緯を全て話した。彼女にはなんの見栄も意地もなく、ありのままに話せたのが不思議だった。それは彼女の魅力であり、年の功でもあるのだろうが、どんなに情けない話でも静かに聞いてくれるような気がしたのだった。

 尊の話を聞き終えたお凜さんが「ふぅん」と唸った。

 そのとき、呼び鈴が鳴り、誰かが入ってきた。


「まぁ、詩織じゃない」


 真輝が嬉しそうに目を輝かせる。

 店に入ってきたのは、大人しそうな女性だった。真輝とは旧知の仲らしく、くだけた挨拶を交わしている。


「久しぶり。来ちゃった」


「一人? どうぞ、こっちへ座って」


 お凜さんはそんなやりとりを横目にハイライトに火をつけ、なにやら思案顔で紫煙をくゆらせ始めた。

 尊は真輝と女性の会話に聞き耳を立てながら、ぎこちない手つきで氷が溶けて薄くなった竹鶴をちびちび飲んだ。


「久しぶりね。同窓会以来?」


 真輝がおしぼりを出しながら言う。

 どうやら二人は同級生らしい。詩織という女性客は決して老けているわけではなかったが、真輝は若々しく見えた。

 尊は『俺より年上かな。真輝さんの苗字ってなんだろう』などとぼんやり考えながら、真輝の綺麗な横顔を見つめた。

 ふと、詩織が満面の笑みを浮かべて、カウンターに肘をついた。


「私ね、結婚するの」


「まぁ、おめでとう! 同窓会のときに話していた彼氏?」


「うん。それでね、私たちの結婚式で真輝にカクテルを作ってほしくて、お願いに来たのよ」


 真輝が満面の笑みで頷いた。


「もちろんよ。あなたのためだもの。あぁ、何を飲む?」


「そうね、おすすめで」


「かしこまりました」


 真輝が何を出すのか、興味津々で彼女の手元を見つめた。

 彼女はオレンジを取り出し、プレスで果汁を手際よく絞り出す。それから銀色に光るシェイカーとボトルがカウンターに登場した。尊はボトルに『GIN』という文字を見つけ、それが酒のジンだとわかるまで数秒かかった。

 カクテルグラスに氷を入れ、バー・スプーンでくるくると回す。と思ったら、その氷を戻し、酒とオレンジジュースをシェイカーに注ぎだした。

 不意に、お凜さんがそっと尊に囁く。


「ほら、いかにもバーテンダーって見せ場だよ」


 その声が聞こえたのか、真輝がお凜さんに向かって苦笑した。だが、すぐに顔つきが引き締まり、蓋をしたシェイカーを構えてシェイクし始めた。


「うわぁ」


 思わず感嘆の声が漏れる。目の前で八の字を描くようにシェイカーを振る姿は凛々しかった。

 シェイクが終わると、蓋を取り、グラスの中にオレンジ色の酒が注がれる。


「オレンジ・ブロッサムです」


 カクテルを見た詩織は顔を綻ばせ、歓声を上げた。真輝が彼女にこんな提案をした。


「オレンジの花言葉は『純潔』だから、結婚式の食前酒でよく飲まれるのよ。式ではこれを作ろうかと思うんだけど、どう?」


 詩織は目を細め、うっとりとグラスを見つめた。一口飲むと、その顔がますます綻びる。


「美味しいわ。うん、是非お願いする。ありがとう、真輝」


 その笑顔に、真輝は嬉しそうな顔をして応えた。


「すごいなぁ」


 思わず、尊の呟きが漏れる。

 彼は今、昂揚感というものを初めて味わっていた。シェイカーを振る姿もかっこよかったが、なによりそのグラスを差し出す仕草のほうが、尊を興奮させた。

 すっと伸びた右手が、そして彼女の静かな笑みが、驕ることもなく嫌みでもなく、誇らしげで美しかった。

 そして詩織の満面の笑みを見たとき、心から「あぁ、いいなぁ」と思えたのだ。誰かの笑顔を生む仕事は素晴らしいと思う一方で、真輝のカクテルの腕前や、咄嗟にどんな酒を選ぶか決める機知も経験が並々ならぬ努力の上にあるものだと感じて感嘆していた。

 ほんの数分の出来事だというのに、そういうものが一気に尊の中になだれ込み、憧れという形となって彼の胸を熱くさせていた。


「お凜さん」


 尊はいてもたってもいられず、ハイライトをもみ消しているお凜さんを呼んだ。


「ん?」


「あの、ここのオーナーって誰なんですか? もしかして、お凜さんですか?」


「馬鹿言うんじゃないよ。あたしはバイオリン教師だと言ったじゃないか」


 お凜さんが呆れたように笑う。


「ここのオーナーはね、そこにいる真輝だよ。あの子一人でこの店を切り盛りしているんだ」


「え?」


 思わず真輝を見ると、彼女は詩織となにやら楽しげに会話しているところだった。どう見ても二十代という若さで、しかもたった一人で店を経営しているのが、尊には驚きだった。


「昔は何人かバーテンダーがいたが、みんなそれぞれ事情があって今はいない。一人で大変だろうとは思うけど」


 そんな言葉を聞きながら、尊はある決心を胸に、カウンターの下で拳を握りしめていた。


 詩織はカクテルを一杯だけ飲み干し、会計を済ませた。


「それじゃ、またね」


「えぇ。あとで結婚式の打ち合わせをしましょう。ありがとうございました」


 扉の向こうまで詩織を見送った真輝がバーに戻ってくるのを見計らって、尊は勢いよく席から立ち上がった。


「真輝さん!」


 声が上擦っているし、お凜さんも真輝も目を丸くしている。


「どうしました?」


 尊の握りしめた拳が緊張で震えた。だが、思い切って、大声を張り上げた。


「真輝さん、俺をここにおいてください!」


「えっ?」


 真輝さんの口がぽかんと開いた。隣ではお凜さんが煙草の灰が落ちるのも気づかず、呆気にとられていた。

 『怯むなよ、俺』と、尊は自分に言い聞かせる。

 琥珀亭は今まで彼が知らなかったもので溢れていた。昂揚感も憧れも、いてもたってもいられない興奮も、そして誰かに見惚れるというのがどういうことかも、すべて真輝が教えてくれた。どうにかして、この場所に立ちたかった。


「俺、今までこんな風にこの仕事がしたいなんて思えたことないんです。俺にとっては最初で最後の出会いかもしれないんです」


 頭で考えなくても、口から勝手に言葉が滑り出る。心のまま行動する自分に自分で驚きながら、それでも想いが溢れて止まらなかった。


「真輝さんみたいに、お客さんを笑顔にできるバーテンダーになりたいんです。いえ、なってみせます」


 あんぐりと口を開けたまま、真輝は「はぁ」と呆けたような声を漏らした。

 そのときだ。


「はっはっは! 面白いことになった」


 小気味よい笑いを飛ばしたのは、お凜さんだった。彼女は目を輝かせて、火のついたハイライトをゆらゆら揺らしている。


「さて、オーナーはどうでるのかな?」


 尊とお凜さんの視線が真輝に集まった。彼女は困ったように、眉を下げている。


「あの、後日連絡する形でもいいですか?」


 彼女を困らせていると気づき、尊はいたたまれなくなってきた。


「はい、それでお願いします! あの、会計いくらでしたっけ?」


「え? あぁ、今日は千円になります」


 ますます困惑する真輝を尻目に、尊はあたふたと財布から抜き出した千円札をカウンターに置く。そして足早に、彼女の横をすり抜けるようにして扉に向かった。


「じゃ、あの、すみません、困らせて。よろしくお願いします!」


 上擦る声でそれだけ言うと、脱兎のごとく店を出た。

 そのまま家まで駆け足で帰りながら、自分で自分に驚き呆れる。募集してもいない店に雇ってくれなどと突然申し出て、あげく逃げるように出てきてしまうなんて、普段の自分では考えられなかった。


「あぁ!」


 思わず足を止め、尊は頭を抱える。自分の連絡先を教えていないことに気がついたのだ。


「はぁ……こりゃ駄目だ。俺、何してんだろう」


 絶望感にさいなまれ、背中を丸めながら家に帰ると、風呂にも入らず布団になだれ込んだ。

 だが、尊に悔いはなかった。自分の情けない事情はお凜さんから聞くだろうし、それで駄目なら観念できる気がした。

 あそこで働きたいのは、自分が変わりたいからという理由だけではなかった。彼はすっかり琥珀亭が好きになっていたのだ。

 店に入るだけでほっとできる場所なんて、彼は他に知らなかった。もし、自分がカウンターに立つことで、誰かが同じように思ってくれたなら、それはとても嬉しいことじゃないかと思えた。

 目を閉じると、シェイカーを振る真輝の凛々しい姿が浮かぶ。詩織の笑みに目を細める優しい顔も。


「俺……あの人が見ているものを見たいんだな」


 思わずそう漏らすと、彼の胸が締めつけられた。

 バーテンダーの仕事に感動したのは事実だ。だが、なにより『赤い月が綺麗だ』と評する真輝のことをもっと知りたかった。仕事のためにどんな努力をしてきたのだろう。あのバーテンダーの服を脱ぎ捨てたとき、彼女はどんな人間なんだろう。

 彼女の隣に立って、同じ場所からいろんな物を見たい。そして、彼女がどんな風に感じて動くのか、知りたい。赤い月のように、きっと自分とは違うものが見えているはずだ。

 そこまで考えると、彼は枕に顔を埋めた。


「……参ったな」


 惚れやすい性分ではなかったはずだが、いつの間にか心の中が真輝で溢れている。

 絶望的なのは、採用を拒否されたら、もう会えなくなるということだった。あれだけ無茶を言い出したのをなかったことにして店に通い続けるなんて、到底できそうにもない。会わせる顔がないんだから、失恋も確定だ。

 もっとも、採用されたところで、彼女がこんな自分を相手にするかもわからないし、フリーなのかもわからないのだ。

 そのまま一睡も出来ず、長い夜になった。

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