琥珀の歌

深水千世

第1話 鶴は千年、俺は万年シャンメリー

「このたびは卒業おめでとう」


 スーツ姿の松中尊は壇上でスピーチする学長をぼんやり眺めていた。

 冗長な挨拶を聞き流す彼は、端正な顔立ちをしているものの、目に活力がなかった。座席にだらしなく背を預け、着慣れないスーツのせいか窮屈そうな面持ちだった。大学の卒業式というめでたい場のはずだが、彼の心中は鬱屈したものだった。


「今まで得た知識や経験を糧に、社会で羽ばたいて......」


 学長の言葉に、尊は眉をつり上げた。あいにく、今までもこれからも、自分には何もない。そんな言葉を吐きそうになり、ぐっと唇を噛む。

 北海道札幌市にある四年制大学を卒業したところで、就職先も見つからず、仕方なしに実家に戻るのだ。この式を終え、アパートに帰れば、引越しの準備が待っている。

 式が終わると、写真撮影や別れの挨拶で賑わう人混みをすり抜け、足早に地下鉄の駅に向かった。

 卒業式シーズンとはいえ、札幌市ではまだ桜が咲くのは先だ。冷たい向かい風が容赦なく尊に吹きつけ、惨めさを誘った。

 歩道脇の汚い雪がまるで自分のようだ。彼はそう思い、大きなため息を漏らしたのだった。


 可もなく不可もなく。

 尊にとって、実家のある北海道千歳市を一言で表現すると、そうなる。

 千歳市は石狩平野の南端にある街だ。『千歳』という名前は、昔、このあたりに鶴が沢山いたからだというが、今では見かけない。

 田舎というほどでもなく、都会というほどでもない。雄大な支笏湖があり、白鳥や遡上する鮭も見ることができるという自然に恵まれている一方で、新千歳空港があるため北の空の玄関口として賑わう一面もある。自衛隊の基地があり、ブルーインパルスでは大勢の見物人が集まる。札幌市へは快速電車で三十分ほどあれば行けるということもあって、尊はとりわけ不便を感じることはなかった。

 だが、彼はなんとなく千歳市が嫌いだった。何故なら彼の胸を躍らせるものが何もなかったのだ。

 とはいっても、松中尊という男はいまだかつて何かに夢中になったことがない男だった。

 彼は自分の名前を説明するとき、『尊敬の尊でタケル』だと言うようにしていたが、とんだ名前負けだといつも思うのだった。

 彼は誰にも尊敬されはせず、尊敬する相手もいない。

 成績は悪くもないが、よくもない。ずば抜けて得意なものもない。特に誇れるものもない。

 そう、彼こそ『可もなく不可もなく』という言葉が似合う男だった。尊は勝手に、生まれた街を自分自身に重ね、似ているからこそ嫌っていた。

 だが、たった一つだけ、この街に空港があることは気に入っていた。

 新千歳空港から毎日大勢の人々が降り立ち、そしてまた旅立って行く。空を見上げると、これから飛び立とうとする飛行機の白い機体が青い空に映えていることがよくあった。それをぼんやりと見送りながら、夢心地になれた。


「あぁ、俺もいつか新しい世界に旅立ちたいな」


 そんなことを考え、彼は眩しそうに空を見上げるのだ。

 しかし、自分がどこに行くのか、いや、どこへ行きたいのかもわからないまま、彼は大学を卒業してしまった。

 何もわからないのは高校生の頃から変わらない。登校しながら、何をしたくて学校に行き、何をするために大学受験するんだろうと、よく考えていた。そんな彼には、飛行機がとてつもなく遠い存在に思えた。

 結局はなんとなく四年制の大学に進学し、なんとなく卒業したというわけだ。


 実家に戻った尊はまずアルバイトを始めた。就職活動に必要な経費のためと、家にいれるお金のためだった。

 人間は生きているだけでお金がかかるものだと、彼の心はますます重くなったが、それでも何度目かの面接で飲み屋街にほど近いところにある喫茶店で雇ってもらえたときは少しだけ顔つきが明るくなった。

 喫茶店は昭和の佇まいが漂う落ち着いた店で、高齢のマスターが一人で経営していた。彼はそこで美味しいコーヒーの入れ方と軽食の作り方を学び、人柄のいいマスターとのんびり暮らし始めた。

 だが、実家では食事にありついている間、母から決まってこう言われる。


「今日もハローワーク行くんでしょ?」


「そのハの字だけで心に三トンの重しを乗せられた気分だよ、母さん」


「ふざけてないで、ちゃんと面接行きなさい。当たって砕けろよ」


 砕けたらどうすればいいんだと、尊は眉をしかめて味噌汁を飲み干す。

 週に一度はハローワークに通っていたものの、面接に行く勇気が持てずにいたのだ。どうしても『俺なんか採用されるのか』とか『俺にできるのか』という思いから尻込みしてしまうのだった。


 それから気がついたときには、三年の歳月が流れていた。実家で過ごし、優しいマスターのもとでバイトをするというぬるま湯のような暮らしは、あっという間に思えた。

 料理の腕が上がったことから調理師の資格だけは取れたが、ハローワークに通っても気分が晴れないのは相変わらずだった。


「ほら、いつまで寝てるの!」


 ある日、母親が昼まで寝ていた尊の布団をはがす。


「あぁ、もう! ガキかよ俺は!」


 できれば、可愛い彼女に優しく起こして欲しいとは思っても、卒業前に二年付き合った彼女と別れたきり、新しい出会いもない。

 その彼女は札幌の大きな会社に就職しているはずだが、音信不通だ。別れを切り出された理由は『就職もしないでフラフラしている男なんて頼りない』という至極真っ当な理由だった。

 ぼさぼさの頭をかいている尊に、母親が鋭い一瞥をくれる。


「寝ている暇があったら仕事探しておいで。せっかくのリクルートスーツだって、卒業式に着たきりじゃないの」


 クローゼットの中には、たった一着のリクルートスーツがひっそりとかけられている。

 だが、それを身につけたのは、卒業式のときだけではなかった。

 実は、一度は彼も就職が決まっていたことがあり、そのときに何度か着用したのだった。


 大学生時代、そろそろ就職活動をしようと考えていた時期だった。携帯電話が鳴り、懐かしい名前が表示された。


「尊、元気か?」


 突然の電話は三つ年上の賢太郎という先輩だった。

 彼も千歳市が出身で、大学のサークルで意気投合したのがきっかけで仲良くなった。卒業後は本州の親戚がやっている会社に勤めているはずだった。


「俺、久しぶりに実家に帰るんだよ。飲もうぜ」


「いいですね! じゃあ、千歳で飲みましょう。空港に迎えに行きますよ」


 二つ返事で飲み会が決まる。電話口の先輩は学生の頃と全然変わっていなかった。

 ところが、空港に迎えに行った尊は、到着口から出てきた賢太郎に驚きを隠せなかった。

 彼が颯爽とスーツを着こなし、大きなケースを引いて歩く姿は、すっかり学生の雰囲気を脱ぎ捨てていたのだ。

 学生の頃はどちらかというと軽薄に見える男だったが、そのときの彼は頼もしく見えた。

 社会の中で責任とプレッシャーに負けず働いている何よりの証だと感じ、尊は心底羨ましいと思った。そしてたった数年で人はこんなに変われるものかと感心さえしていた。


 賢太郎は夕食を食べた後、とあるバーに彼を案内した。ビルとも呼べないような小さな建物の二階の突き当たりにあり、ライトで照らされた真鍮の看板と木製の扉が重厚な雰囲気だった。


「いらっしゃいませ」


 呼び鈴を鳴らした二人を出迎えたのは、一人の女性バーテンダーだった。尊が思わず見惚れるほどの涼しげな美人で、黒髪を綺麗に束ね、ほっそりしていた。

 賢太郎と同じくらいの年頃に見えたが、静かな物腰のせいで彼より大人びて見える。

 先輩は彼女が目当てなのかという考えがよぎったが、詮索するのも野暮かと思い、黙ってカウンターの椅子に腰を下ろした。

 店のバックバーを見回し、尊は思わず小さくなる。この店はいわゆる『オーセンティック』なバーで、いつも安い居酒屋ばかりの彼にはまったく未知の世界だった。

 バーテンダーの背後にはボトルがぎっしり並んだ棚があり、その下では無数のグラスがライトを浴びて輝いている。カウンターも壁も床も、店中が木目で統一されていて、シーリングファンのある天井は吹き抜けになっていた。

 尊は分厚いカウンターの下で汗ばむ手を揉み合わせる。落ち着かない彼と正反対に、賢太郎は慣れた様子で「竹鶴をロックで」と、オーダーしていた。


「お前は?」


 そう言われた尊は言葉に詰まってバックバーに視線を泳がせる。二十歳になったばかりで、安い居酒屋しか行ったことなかった彼には、カクテルもスピリッツも全然わからない。

 そもそも、彼は酒にはめっぽう弱く、自分から飲みに行くタイプではなかった。調子のいいときでさえ、酎ハイ三杯でもう頭がぐらぐらする。賢太郎とここに来るまでに酎ハイ一杯で時間を繋いで来たが、すでに顔が熱かった。

 おどおどする尊に、バーテンダーがすっと助け舟を出してくれた。


「オレンジはお好きですか? 今日はとてもいいオレンジが入ったんです。それで何かお作りしましょうか」


「え? あ、はい」


「辛口と甘口はどちらがお好みです?」


「じゃあ、甘いほうで......」


 とりあえずオーダーを済ませたことに安堵した尊に、先輩が笑いを堪えている。


「そういえば、お前、初めて仲間と酒飲んだとき、べろんべろんだったんだって?」


「うわぁ、喋ったの、どいつですか? シャンパンをグラスに五杯も飲ませるからですよ」


 尊が二十歳になってすぐ、気心知れた仲間と祝杯をあげたときがあった。調子に乗ってシャンパンを空けたものの、すぐに酒が飲めない体質だということを嫌と言うほど思い知ったのだった。

 尊は膨れっ面になりながら、機敏に動くバーテンダーの手元を見つめた。

 市販品のオレンジジュースを使うのかと思っていたが、彼女は丁寧に生のオレンジをプレスして果汁をしぼっている。その手つきは慣れたもので、ほっそりした指が流れるように動く様は綺麗だった。

 美人で仕事もできる人もいるんだなと、彼は感心する。天は二物を与えずなんて、誰かの言い訳に過ぎないのかもしれない。


「どうぞ」


 差し出されたロンググラスにはオレンジ色の酒が入っていた。その下のほうに赤い液体が沈んでいて、緩やかなグラデーションを生み出していた。


「うわぁ、綺麗ですね」


 ぱっと顔を明るくさせた尊に、美人バーテンダーがにっこり微笑んだ。そして、賢太郎には琥珀色の酒が入ったロックグラスを差し出した。

 グラスが出揃ったところで、彼らは乾杯をする。

 尊が一口含んでみると、酒だと思えないくらい飲みやすくて美味かった。さっきの会話を聞いてアルコールを加減してくれたのかもしれない。そう思ってバーテンダーに視線を移すと、ちょうどつぶらな瞳が彼を捉えていた。


「あ、美味いです」


 そうお世辞抜きで言うと、彼女は笑みを漏らし「ありがとうございます」と礼を返す。

 その顔つきに、尊は思わず見惚れてしまった。先ほどまでの静かな笑みとは違い、心底嬉しそうな顔になったのだ。黙っていると美人だが、こういう笑い方をすると一気に可愛く映る。

 顔が赤くなったのを誤摩化すように、尊は慌てて賢太郎に話を振った。


「先輩のそれ、なんていう酒なんです?」


「あぁ、竹鶴っていうウイスキーだよ。千歳に来たら必ず飲むことにしてるんだ。居酒屋だったら千歳鶴にするところだけどな」


「先輩、鶴が好きなんですか?」



「鶴は千年、亀は万年っていうだろ。千歳って名前には鶴がぴったりじゃないか。縁起がいいし」


 そう言って唇をウイスキーで湿らせると、賢太郎はまじまじと尊を見つめる。


「なぁ、お前さ、勿体ないよな」


「は? 酒が弱いことですか?」


「違うよ」


 賢太郎先輩がしょうがないなと言わんばかりに眉を下げた。


「お前だよ、お前。尊って器用だし、スポンジみたいに吸収早いのに、なんでそんなに無気力なの? 好きなこととか興味あることはないの?」


「そんなの、俺が教えて欲しいですよ」


 肩をすくめる尊に、賢太郎は首を傾げた。


「お前、就職どうするの? どこか受けたい会社あるのか?」


 その言葉に、黙って首を横に振る。


「いや、それがわかんないんですよね。俺、一体何をやりたいのかわからなくって。卒業してもずっとバイト生活って訳にいかないのはわかってるんですけどね」


 ふと、尊の脳裏に付き合っていた彼女の姿がよぎった。結婚願望が強く、尊に大手の企業に就職して欲しいという態度を隠そうともしない。彼女自身も企業説明会やセミナーに通い、熱心に就職活動をすすめている。

 だが、尊はそれを見ていても、一歩踏み出す勇気が持てずにいた。結婚も、彼女としてもいいかなとぼんやり思う反面、そんなに急がなくてもいいような気もする。それでも、やはり彼女を不安にさせたくない気持ちはあった。

 すると、賢太郎が「なぁ」とグラスを置いて身を乗り出した。


「うちの会社来ないか?」


「へ?」


「本州だから親とか恋人とは離れちゃうけど、やりがいはあると思うんだ。そろそろ新入社員入れようかって話してたから、俺から推薦してみるよ。身内の会社だしな」


「うわ、本当ですか?」


 思ってもいなかった申し出に、思わず彼のテンションが跳ね上がった。


「うん。お前って伸びると思うんだよ。真面目だしな」


「よろしくお願いします!」


「おい、お前、二つ返事でいいわけ? 北海道を出るんだぞ?」


 苦笑する賢太郎に、尊は深々と頭を下げた。


「構いません! こちらからお願いします! 俺、親とか彼女を安心させてやりたいんですよ」


 何事にも熱中できない尊は『何をやらせても中途半端でやる気のない男』で通っている。だが、そんな自分がきちんと就職したら、少しはみんなに安心してもらえるじゃないかという期待で胸が膨らんだ。

 賢太郎が白い歯を見せて笑う。


「よし、じゃあ就職祝いするか! あぁ、チーフも飲んでください」


 チーフと呼ばれたバーテンダーは「ありがとうございます」とお辞儀をし、グラスを取り出した。小さな缶からウーロン茶を注ぐと、尊に差し出した。


「おめでとうございます」


「いや、まだ決まってないんですけどね」


 尊は頭をかきながら乾杯を交わす。

 美人バーテンダーの店を出るのは名残惜しかったが、賢太郎はそのあと、二軒も飲み屋をはしごした。

 賢太郎は酒豪だったが、尊は最後には千鳥足になり、路地の脇でげえげえ吐いた。

 その背中をさすっている賢太郎は、尊の十倍は飲んでいるのにしらふのような顔で笑う。


「お前には確かにシャンパンよりシャンメリーだな」


 畜生、あの初めて酒を飲んだときに居合わせた仲間の誰かが言ったんだな。そう思ったものの、それどころではなかった。吐くことも辛いが、このあとの気持ち悪さがだらだら続く時間はもっと苦しい。

 尊は賢太郎に送られ、家のリビングにあるソファに倒れ込むと、トイレと往復する夜を過ごした。


 そして、尊は本州にある賢太郎の会社にスーツで出向き、説明をあれこれ聞いた上で、内定をもらった。

 両親や恋人は本州に行くことに驚いてはいたが、彼が仕事を見つけてきたことがなによりだと喜んでくれた。

 それからしばらく、尊は就職活動をする学生を脇目に、あとは卒業を待つだけだと安心しきっていた。

 ところが、そうは人生甘くなかった。

 ある日、彼の内定は一本の電話でかき消された。


「……尊、すまない」


 携帯電話の向こうの賢太郎は、ひどく落ち込んでいた。


「実はな……社員が会社の金を持ち逃げして、新入社員を入れるどころじゃなくなったんだ」


 目の前が真っ暗になった。絶句している彼の耳には、ひたすら謝る賢太郎の声が虚しく響いていた。

 しばらくぼうっとしていたが、我にかえって、わざと明るく振る舞う。


「いや、大丈夫ですよ! 俺、きっとまた仕事見つけてみせますから。それより、先輩のほうは大丈夫ですか?」


「あぁ、すまない。当分は慌ただしいと思う。本当にすまない」


 電話を切った後、尊はその場にへたりこんでしまった。


「そりゃないよ、先輩。もう、卒業式は間近だぜ?」


 思わず独りごちると、全身から力が抜けていった。そしてしばらくは、そこから身動き一つとれずにいたのだった。

 やがて、のろのろと立ち上がった彼はコンビニに足を運んだ。棚にあるありったけの求人情報誌と賃貸情報誌、それに真新しい履歴書を手にレジへ向かう。

 レジを打つバイトの女の子が不憫そうな目で自分を見ている気がして、逃げるように店を出た足取りが鉛のように重い。


「志望動機、なんて書こう」


 コンビニからの帰り道、思わず独り言が漏れた。

 志望動機? そんなの金に決まってる。明日の飯を得るため。来月の家賃を払うため。みんな、偉そうに履歴書に色々書いてるけど、本当はそうじゃないの?

 そんな自暴自棄な声が、脳裏に木霊する。

 世の中、結局は金だ。金がなければ、何も出来ない。そう思った途端、第二の故郷と感じていた札幌が、急にそっぽを向いている気がした。住む家も定期収入も失うなんて、思ってもいなかったのだ。

 札幌の街は夜に染まり、どこかから夕餉の匂いが漂っている。犬が遠吠えし、イルミネーションで煌めく家々が続いていた。

 ご飯にありつける家がある人も、犬も、自分より優れた存在に思える。しまいには、イルミネーションに電気代を払うなら自分にくれないかななどと、馬鹿げた考えまで浮かんでくる。

 通り過ぎる人々はおろか犬ですら、妬ましく見える自分に嫌気がさした。

 鼻をすすり、自分の情けなさに背を丸める。こんな姿を恋人に見せたとき、それでも一緒にいてくれるだろうか。

 思わず立ち止まり、携帯電話をジーンズのポケットから取り出す。だが、待ち受け画面に映る恋人の笑顔があまりにも眩しく、そっとポケットに戻してしまった。


 それから彼は『惨め』という言葉の意味を痛いほど思い知ることになった。

 内定がなくなったことを両親や恋人に言い出せず、重苦しい時間だけが過ぎていった。

 寝る前の布団の中やバイトからの帰り道に、携帯電話を握りしめながら『連絡しなきゃ』と、幾度も迷った。

 しかし、そのたびに就職を喜んでくれた顔が思い出されて、彼の胸を苦しめた。恋人は遠距離恋愛になるにもかかわらず祝福してくれたし、両親にもこれからは恩返しできるかもしれないと、誇らしくさえ思っていた。

 その上、バイトも卒業と同時に辞めることになっていた。送別会の準備も着々とすすんでいるらしい。今更『やっぱりまだ働きます』とは言い出せない雰囲気になっていた。

 最悪なことに、アパートも引き払うことになっていた。大家にだけはすぐに事情を話して契約を続けられないか頼み込んでみたものの、答えは「No」だった。もう次の契約者が決まっているから、予定通り退去してもらわないと困ると言われてしまった。

 この先どうしようと考えるたび、背中に冷たいものが走る。脳裏に浮かぶのは『やばい。やばい。やばい』という言葉の羅列だけ。明日の生活も保障されない焦燥感というものを、彼は初めて知ったのだ。

 思い切って、何社か当たってみたが、すぐ採用が決まるほど甘くはなかった。

 というより、尊自身が甘過ぎたのだろう。ろくに就職活動もせずにいた彼は、なんの準備もしていたなかったのだ。一般常識やマナーもおぼつかない上に、面接で思うように話せもしないのにうまくアピールできるとは到底思えなかった。


 そして卒業が間近に迫った頃、彼はとうとう両親と恋人に打ち明けた。

 その結果は今、実家にいる事実が全てだ。呆れ果てた恋人は別れを告げ、去っていった。両親は『なんでもっと早く言わないの』だの『これからどうするの』だの喚いていたが、最後にはとりあえず実家に戻るよう言ってくれたのだった。

 挫折とはいえないかもしれない。彼は苦労して就職活動の果てに採用を勝ち取った訳ではないのだから。

 だが、『とんだ甘ちゃんだ』と思いながら、それでも惨めだったのだ。

 二十歳をこえても母親に「いつまで寝てるの」などと起こされるような朝は、なおさらそう思うのだった。


 ある日、バイトを終えた尊は、薄暗い街を歩いて帰っていた。

 そのとき、不意に携帯電話が鳴り、市内に住む兄の名前が画面に表示された。歳の離れた兄は四年前に結婚して家を出ている。地元企業に就職し、大学で知り合った妻を本州から呼び寄せた。尊とは雲泥の差だ。


「もしもし、尊か?」


「あぁ。どうしたの?」


「実はな……子どもが出来たんだ」


「本当かよ! おめでとう」


 思いがけないニュースを聞いて、久しぶりに頬が緩む。だが、次の言葉で彼の表情は固まってしまった。


「それでさ、うちの嫁さんの実家は本州だろ? 妊娠している間も一人で心細いだろうし、父さん母さんもいい歳だから、そろそろ同居しようと考えてるんだよ。お前、実家を出る予定ないの?」


 冷たいものが胸の内を走っていく。


「いや、うん、正社員の仕事がさ、なかなかなくてね」


 兄は「そうかぁ、このご時世だからな」とは言ったものの、すぐに厳しい口調になった。


「お前も逃げてばっかりいないで、きっちり仕事見つけろ。いつまでもバイトじゃ、親の介護だって出来ないぞ」


「わかってるよ」


 尊は思わず唇を噛みしめた。このままではいけないということは、誰より自分がわかっている。

 バイトは楽しいし、自由に時間も取れる。友達といつでも会え、好きなことをできる。

 だが、預金通帳の残高はいつも淋しい。結婚は出来ても養えないと、焦りもするのだ。

 数日前に振り込まれた給料が財布に入ったままになっているが、それだってすぐに消えてしまうと思うと虚しくなった。


「なるべく早く見つけるよ」


 尊は力なく言うと、携帯電話を切った。

 ふと気がつくと、彼は大きなパチンコ屋の前にさしかかっていたことに気づく。


「......運試ししてみるか」


 普段なら仲間に誘われたときしか行かないパチンコ屋に、彼は吸い寄せられたように入っていった。

 その数時間後、アニメのような音声が響き渡る。


「ボーナス確定!」


 ......ただし尊の隣のパチスロ台で、だ。

 自分の台は既に天井近い。なのに、うんともすんともいわないのだ。


「設定一か二じゃないの、これ」


 思わず漏れた独り言は、騒々しい音にかき消された。

 神様も『真面目に働け』と言っているのか、それとも単にギャンブル運がないのか。

 尊は手持ちのメダルがなくなると、足早に店を出た。入ったばかりの給料から三人の諭吉が旅立った虚しさに、彼は項垂れる。


「なにやってるんだか、俺は」


 家に戻った彼は、母親と顔を合わせないように、さっさと脱衣所へ駆け込んだ。全身にまとわりつく煙草臭さをシャワーで洗い流してから、部屋の布団に潜る。なかなか寝付けなかったのはパチンコ屋に行ったせいで止まない耳鳴りだけが原因ではなかった。

 なにもかもが、不安だった。

 彼は、明日なんて灯りを消した部屋より真っ暗だと、きつく目を閉じたのだった。


 北海道に短い夏が来た。

 本州に比べると涼しいとはわかっていても、住んでる人にしてみれば、充分暑い。だが、やはり気温が足りないのか、市街地で蝉の声を聞くことがない。煩わしい思いをしなくて済む反面、そういう意味では風情に乏しいのだ。よほど自然のあるところまで行かないと蛍もいない。

 ある夜、バイトを終えた尊に、幼なじみの男から電話がかかってきた。


「尊、今飲んでるんだけど来ない?」


「あぁ、いいよ。どうせあとは風呂入って寝るだけだしな」


 二つ返事の彼は、指定された居酒屋にそのまま向かった。

 さすがに夏場の週末は飲み屋街に人が溢れている。不況や若者の酒離れのせいで、冬場などはゴーストタウンかと思うことも多々あるのが嘘のようだった。

 暖簾をくぐると、「いらっしゃいませ」という威勢のよい声が響く。お世辞にも広いとは言えないカウンターで幼なじみが片手を挙げた。


「よう」


 彼は近所に住む中華料理人だった。小学校から高校まで尊とずっと一緒で、お互いの性格をよく知っていた。

 昔はほっそりしていたが、料理人になって十キロは太ったらしい。だが、カウンターの下に突き出た腹は、この前会ったときよりも大きくなっていた。

 尊はとりあえずビールを頼み、出されたおしぼりで手を拭く。

 こうして昔馴染みとすぐ会えるのは、地元ならではのよさだと思う。札幌にいた頃だと、なかなか声もかからないのだ。

 どうやら幼なじみは他の友達と飲むつもりだったが、直前にキャンセルされたらしい。


「そいつはなんで来なかったんだ?」


「高熱が出たっていうから仕方ないよ。でも、俺の仕事ってあんまり休みがないんだよ。ゆっくり飲めるのも久しぶりだっていうのに、このまま帰るのはつまらなくて、ついお前を呼び出したってわけ」


「料理人って大変なんだな」


「あぁ、お前はならないほうがいいぞ」


 口ではそう言いながら、彼の目は『この仕事が大好きだ』と言わんばかりににやけている。それを見た尊は、思わず「羨ましいな」と、呟いた。



「俺も、何かにそんな風に一生懸命になってみたいな」


「じゃあ、尊もうちの店で働いてみる? 人手が足りないんだよ。今なら募集してるはずだし、俺から推しておくぜ?」


「え、本当に?」


 賢太郎のときといい、自分は寝転がっても職が舞い込んで来るタイプなのかもしれないと、思わず目を輝かせた。

 だが、ふと黙ってビールを飲む。苦味が興奮しかけた気持ちを抑えてくれた。


「......いや、ごめん。俺、もう少し自分で探してみる」


 尊の口から出たのは、そんな言葉だった。


「なんで? 料理人は無理?」


「そうじゃないよ。ただ......」


 尊はおしぼりをきつく握りながら答えた。


「俺、今度は自分の力で仕事見つけようって思うんだ。あんな惨めな思いはまっぴらだし、何かあったら紹介してくれた人に悪いからさ」


「あぁ、あの件、まだ気にしてるのか」


 賢太郎との経緯を知る彼は、憐憫の表情を浮かべた。


「それに俺、自分で『この仕事がやりたい』って思えるものを探したいんだ」


「お前、のんきだなぁ。夢や理想じゃ飯は食えないぜ。世の中、天職を見つけられる奴なんてそうはいない。社会はフリーターには厳しいぞ。それに、ボーナスでももらわないと貯金なんて無理だし、結婚しても子どもだって作れないぜ」


 同い年のくせに先輩面だなと眉間にしわが寄ったが、実際に社会人としては先輩だから文句も言えない。


「あぁ、わかってるさ、そんなこと。けれど、俺は自分を変えたいんだ」


 千歳市に戻ってきて、彼は何度も飛び立つ飛行機を見かけた。

 あの飛行機みたいにどこかに行きたいと考えるだけだった自分から抜け出したい。そんな思いが、彼の中にいつしか生まれていた。

 十代の夢見る少年のまま、ちっとも成長していない。そんな自分にほとほと嫌気がさしていたのだった。


「そうか、まぁ、好きにしな」


 仕事の話はそれきりになり、彼らは一時間ほどいつものように世間話をしながら飲み交わした。

 会計を済ませると、幼なじみが居酒屋を出ながら問う。


「尊、これからどうする? 帰るのか?」


「お前は?」

 

 すると、彼が唇の端をつり上げた。


「おねえちゃんの店に行くのさ」


「お前、姉貴いたっけ?」


 すると、彼は呆れながら肩をすくめる。


「綺麗なおねえさん達が揃ってる店だよ」


「あぁ、そういう『おねえちゃん』か」


 思わず顔が赤くなる。


「尊も行く?」


「行かない。俺、そういう店って苦手」


「まぁ、こっちもそのほうがいいや。お前みたいに顔のいい男がいたら、俺はまるでひな壇の金屏風だ。引き立て役はごめんだね」


「顔がどんなによくたって、しがないバイト君なんかおねえさん達もお断りだろ」


 職があっても相手にされないだろうと、尊は唇を尖らせた。今まで誰と付き合っても、『顔はいいけど頼りなくてつまらない男』と評されて長続きしないのを、この幼なじみもよく知っているはずだった。

 思わずふくれっ面になった尊に、幼なじみが大笑いした。


「拗ねるなよ。お前ってなんでも顔に出るのは変わらないよな。でもさ、早くなんとかしねぇと彼女も出来ないぞ」


 そして、ひらひらと手を振って歩き出す。

 幼なじみは励ましのつもりだったかもしれないが、尊はその背中に優越感を見て取った。

 ささくれ立った気分のまま飲み屋街を歩き出し、足取りが怒りに早くなる。

 ちくしょう! 俺だってやってやる! 何をやっていいかはわかんないけど、とりあえず何だってやってやるさ。見てろよ。そう叫びたいのをぐっと堪えた。路地に空き缶でも転がってたなら、思いきり蹴っ飛ばしてやりたい気分だった。

 ふと空を見上げると、今夜の月が真っ赤に染まっている。

 気持ち悪い。

 心の中で舌打ちした。むしゃくしゃしてる気分が更に悪くなりそうだった。

 すぐに通りに視線を戻し、よさそうな店がないか目を走らせる。無性に、もう一杯飲んで帰りたい気分だった。とはいっても、既に酔いはまわっている。自分の限界がせいぜいあとビール一杯だというのが情けないところだ。


「あれ?」


 思わず彼の目が見開かれた。前方に見たことのある横顔を見つけたからだ。

 ライトの灯りがこぼれる階段の下に、立て看板を手にして空を見上げている女が一人。

 それは、いつか賢太郎が連れて行ってくれたバーにいた、女性バーテンダーだった。

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