振り切れない嫉妬

「梁…牙? “母さん”?」


彩花はますます首を傾げる。

梁は、自分がこの世界にやって来て、過去の彩花と初めて話した時の経緯を思い出し、今はただその懐かしさに、目を少し潤ませながらも答えた。


「そう。あなたは俺の…母親なんだ…!」

「──上出来だ、梁牙」


わずかに和んだ空気を、以前のものに引き戻すかの如く、梁の背後から、美しくもよく響く、紫苑の声が落とされる。

それに梁はびくりと身を震わせ、これ以上ない程に青白く顔色を変えた。


「梁牙…?」


そのあまりの豹変に、彩花が眉を顰め、不安げに梁へと話しかける。

すると、成長した紫苑がそれを難なく遮った。


「どうやら梁牙は気分が優れないようだ。少し此処で休ませようと思うが…構わないか?」

「えっ? …う、うん…」


勿論、と彩花は答えかけて、何か気になることが心中に湧いたらしく、次にはあからさまに興味を示した瞳で、じーっと梁と紫苑を眺めた。

さすがにその視線に気付かないはずもない紫苑が、その瞳を母親へと向ける。


「…何だ?」

「貴方は…確かホテルで会った…」

「ああ」


紫苑は至極あっさりと肯定する。


「お前と…この世界で会うのは二度目だな」

「…、貴方、紫苑だって…本当?」

「ああ」


紫苑はまたも躊躇いもなく、静かに頷く。

すると彩花は、唐突ながら満面の笑みを見せ、幼い紫苑の手から離れた。


…幼子の手をすり抜け、成長した我が子の元へ歩を進め、見上げる。

稔によく似た美しい対の瞳が、柔らかく彩花を見つめていた。



「紫苑…あたしよりも大きくなった紫苑に会えるなんて…

何だか夢みたいだけど、凄く嬉しい…!」



彩花は、梁に関する記憶を失う前であれば到底考えられない程、無防備に紫苑に抱きついた。

そんな彩花を、紫苑は目を閉じつつ、抱え込むように優しく抱きしめる。


彩花のその様子は本当に無垢で、幸せに溢れていて…

梁はそんな彩花の姿を見て、再び胸を痛めながらも、その表情にはせめてもの虚勢として、精一杯の仮初めの明るさを浮かべていた。


「…良かったな…母さん…」


…その明るさは徐々に寂しいものへと変わる。



そう、これはつかの間の、偽りの幸せ。



こんな茶番が今後も続く。

自分だけ、氷藤梁牙という別人になって。



螺旋にも近い仮初めは、以降も続いていく…!


そう梁が臍を噛んでいると、彩花はそんな梁の様子がおかしいことに気付いたらしく、目を開いた紫苑から離れて梁の側へと寄った。

覗き込むように、その身長差からも、下から気遣うように話しかける。


「…あ、ごめんね梁牙。見た感じ、何だか本当に顔色が悪いみたいだから、紫苑もこう言ってるんだし… ここで少し横になっていたら?」


事情を忘れている彩花は無情にも問いかける。


「……」


対して、梁は無言のままに俯く。



長い睫が伏せられる。

その心中は葛藤だらけだ。


だが、どんな答えを導き出そうと、稔を盾に取り、彩花の現状がこうである今、こちらの言動は否が応にも制限される。

自分は成長した紫苑に、母親は幼い紫苑と煌牙に囚われる。



…だが、それでは父親は?

“稔は一体、どうなるのだろう”…



梁が迷いを巡らせていると、その様子を傍観していた幼い紫苑が、幼子特有の屈託ない笑みを浮かべた。


「梁牙。誰のことを考えているのかは、あえて問うまでもない。

お前の顔にありありと表れているよ」

「…!」


梁がぎくりと体を強張らせると、成長した紫苑は剣呑に目を細めた。


その目に宿るのは、強さが根底にある、静かな怒り。

憤怒であればあからさまなだけに、見た目で分かる。


…だが、梁は知っていた。



紫苑は怒りが深ければ深い程、声を失う。

視線が、これ以上なく鋭くなる。

まるでそれのみで射殺せるかのように。



「…ふん。例え理性が折れようと、本能は折れぬという訳か…

どうやらその甘さを先に精算する必要がありそうだな」

「紫苑… 俺に何をさせるつもりだ!」


梁は紫苑の目論見を意識して反発する。

だが次に紫苑の口から発せられた言葉は、梁の予想を遥かに越えるものだった。



「お前が真に氷藤に名を連ねると言うのならば、緋藤とは完全に決別しろ。

例えお前が切るつもりでも、向こうはそうは考えてはいまい…

梁牙、我が父を本当に助けたいというのであれば、お前の方から奴を突き放せ。

分かっているだろうが…それが出来なければ、俺が奴を殺めるだけだ」



「ふざけるな!」


梁は怒声も露わに吐き捨てた。

稔に関する記憶を失っている彩花の手前、言い回しは曖昧ではあるが、紫苑の真意ははっきりと分かる。


紫苑は己が父を…こんなにも無慈悲に、そして剰りにも簡単に…葬り去ろうとしているのだ。



「紫苑、俺がどんなにお前を羨ましいと思っているか…

お前があの人の息子であることが、俺にとってどれだけ羨望の…そして嫉妬の対象になっているかなんて、お前には分からないだろう!?

なのに、あの人の実の息子であるはずのお前が、どうしてそうも軽く、あの人を殺すだなんて口に出来る…!

俺は、お前があの人の息子だというだけで…

それだけで本当に羨ましくて、妬ましくて仕方がないのに!」



「…梁牙…!?」


感情が高ぶり、赤裸々に心中を吐露する梁に、彩花は愕然と息を詰める。


幼い紫苑は、そんな梁の言い分を聞いて、短く息をついた。

だが、その相手は成長した自分に任せるつもりでいるのか、幼い紫苑はそれ以上の関心は示さず、母である彩花の身柄を、そっと自分の方へと戻した。


…成長した紫苑はただ、弟へと鋭い瞳を落とす。


何かを測るように、示すように魅せられたその双眸は、まるで時がそのまま止まってしまうかのように、ゆっくりと閉じられる。

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