5.歪曲

…歪んでいる者は、間違いや過ちに気付くことはない…

★☆★☆★



紫苑は、絶望のあまり、長時間は立つことが叶わない梁を静かに抱きかかえると、過去の自分の居場所へと、ゆっくりと歩み始めた。


…それに逆らうこともなく、憔悴しきった表情で…

兄である紫苑に抱かれたまま、ひどく虚ろな瞳で、漠然と前方を見ている梁。

その頬には今だ、幾筋もの涙の跡が、乾くこともなく、くっきりと残されていた。


もはや口をきく気力すらもないのか、梁はあれほど拒み続けていた紫苑の腕に大人しく抱かれ、支えられている。

そして時折、びくりと身を震わせると、縋るように…まるで親に頼りきった子どものように、強く紫苑にしがみつき、怯える。


既に自我を省みることもない状況に陥っている梁は、何故かその一連の動作を、一定の間隔をあけながらも、ひたすらに繰り返していた。


…そしてその事実が、紫苑自身に、確実なまでの稔への優位を知らしめていた。

紫苑にしてみれば、例え恐怖で縛ることになろうとも、梁だけは手元に置いておきたかったのだ。



…幼い頃は母を乞うていた。

幼いが故に。ただ、無垢に…



だが、今は違う。

母親に拘りがない訳ではない…そして父親にも。


“だが、今は違う”。

その二人より手に入れたい者が、他にいる。



血を分けた実の弟──氷藤梁牙が。

求めるのは弟だけ。

他の誰も要らない。

他の誰も、弟の代わりになど、なりはしない。



そう…彼だけが、自分が求めてやまぬ者。



不意に紫苑は、小動物さながらに、今だ震えを見せる梁を上向かせた。

虚ろな梁の双眸が、紫苑を捉える。


その瞳はいつしか、切なげに細められた。

途方もない絶望と、悲しみと…

それを上回る苦しみと共に。


「!…」


梁の視線をまともに受けた紫苑の表情が、ほんのわずかばかり強張った。



紫苑は、その瞳が齎す意味を知っていた。

弟の心情さえも。

その気持ちさえも…!


しかし、それでも駄目なのだ。

自分が弟を手放したくないから。


そう──何を犠牲にしようとも。

どれだけ人を殺めようとも。

…例え…実の父を殺し、母を犠牲にしようとも…!



紫苑の美しい瞳が、狂気のそれに染まる。

手段を選ばず、必要以外の者は全て排除する…

そんな排他的な殺気と共に。


…だがそれもすぐに鳴りを潜め、紫苑は梁に目を落としたまま、昔の自分が待つ、例の館へと確実に歩を進めて行った。





★☆★☆★


「…その様子だと、梁牙は堕ちたみたいだね」


今だ眠り続ける母に、幼いながらにも優しく膝を貸しながら、小さな紫苑が微笑む。


対して、今やひとつの組織の長にあたり、その組織の完全な後継と目される人物…

成長した紫苑が、満足げに…しかしそれでいて、軽く頷いた。


「ああ。聞き分けのないのは相変わらずで、かなり手こずらされたがな」

「それでも梁牙を気に入っているんだろ?

その辺りの気持ちはよく分からないけどね、今の僕には」


どこか呆れたような過去の自分の物言いに、紫苑の表情は僅かながら、柔らかいものへと変化する。


「いずれ分かるようになる」

「全く…自分とは思えない、その拘りようには感心するよ…」


そう呟きながら、幼い紫苑は彩花へと目を落とす。

すると、それを合図にするかのように、彩花の閉じられた瞳が僅かに動いた。


「…目覚めるか…」


紫苑は梁を下ろしながら、無機質な双眸を母親へと向ける。

それを待ちかねたように、彩花の目が、うっすらと開かれた。


幼い紫苑はそれに気付くと、感情が示すままに、そっと彩花の顔を覗き込み、優しく呼びかける。


「…ママ…」

「…ん… 紫…苑?」


彩花はぼんやりと幼い紫苑を見つめ、そのまま紫苑に支えられるままに、ゆっくりと体を起こした。


…その瞳が、未来の世界から訪れた息子たち…

成長した紫苑と、梁を捉える。


「!…え…、あ、貴方たち…は…」

「…!」


瞬間、これ以上に深く傷つくはずもない梁の胸は、付けられた傷を更に裂かれるかの如く痛んだ。

ずきりとした、一瞬の痛みを叫んだ重い傷が、後遺症のように感情にまで響き…影響を与える。



分かっている…何が原因でこうなったのかは。


とうに理解しているはずなのに。

根底からは、受け入れられない。


…それがあまりにも歪み過ぎて。



「…俺は…」


梁はそれだけを呟くと、辛そうに唇を噛んで目を伏せた。


「…?」


梁の顔に残る、流した涙の跡を見て、彩花は怪訝そうに首を傾げる。

…以前の母親なら、間違いなく慌てて理由を尋ねて来るはずなのに。

それが無い。


そしてその、投げかけるような、訴え、問いかけるような…

何も知らない汚れのない視線が、とても残酷に思えて…何よりも痛い。



「…俺の、名は…」


 

それを口にすることには抵抗がある。

それはそうだ。自分はきちんと納得した訳ではない──


だが、それ自体が真実であり、事実。

それに沿ったレールは、兄である紫苑にも既に敷かれている。



「俺の名は… “氷藤梁牙”」



“嫌だ”。

“違う”。

“そんな名前じゃない”。



口にした途端に、脳内で、数々の否定の言葉が巡る。


違う…自分は氷藤なんて姓ではないし、名前も梁牙ではない…!


例え…真実、煌牙の血を引いていようとも。



「どうしたの、梁牙くん…

涙の跡があるけど…泣いたの?」


自分と、その父親・稔に関する記憶を消された彩花が、労るように自分を気にかける。

その心は、何も知らないが故に純粋で、無垢なままで。


梁は再び涙腺が緩みそうになるのを、ようやく堪えた。


「…俺のことは…梁牙でいいよ、母さん」


その言葉自体が不本意であっても。

少しでもその意にそぐわぬ真似をしたら、二人の紫苑がどう出るか分からない。


全ては両親を守るため。


例え、それによって自分の感情が軋み、歪み、悲鳴をあげたとしても──

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