第8話


 古びた校舎の第三教室は、先程までの油絵の具の匂いと違って、木の香りに満ち満ちていた。


 それは胸をすくほどの清涼感で、この瞬間、僕はこの匂いが好きだと強く思った。


「わあ、いい匂いだな!こんなとこで作業してるって、最高じゃないか!」


 興奮気味に背後の曽我部を振り返ると、曽我部は珍しく照れたようで耳を真っ赤にしていた。


「へぇ、面白いな!曽我部は何作ってんの?あれがそう?」


 興奮冷めやらぬ僕は教室の真ん中へと歩みより、2メートルはあろうかという大木の傍に立つ。


 その大木は、今はまだ、所々が荒く削られただけの丸太にすぎず、これが一つの作品になるなどとは、僕にはまるで想像ができなかった。


 それでも、これから何かが産み出されようとしている過程に触れるワクワク感は、日常からは少し離れた位置にあり、それだけで僕の胸は踊った。


「何が出来るんだろう。スゴいなぁ、曽我部は。こっから何か造り出すって、何か人じゃないみたいだ。」

「なんだよそれ。…人だよ。ただの」

「いやいや、オレみたいな何もない奴とは違うよ。オレなんか取り柄も何も、なんにもないし。」

「…そんなことないよ。瀬戸内は色々持ってるよ。」


 その曽我部の声はひどく優しくて、僕はおどけて笑っていることが急に恥ずかしくなって俯いた。


「いやホント、オレは何も持ってないよ。曽我部のように物を造り出すこともできないし、竹本みたいに気配りもできない。」

「瀬戸内は知らないだけで、誰かを救っていることもあるんじゃないか?」

「そんなはず、ないよ。オレなんか。」

「あるよ。少なくとも俺は、あの空き教室で君と出会わなければ、今でも一人だったと思う。」

「そんなことないよ。」

「いや、あるさ。…俺は人との距離感がわからないから、避けられることの方が多いんだ。だから、あの空き教室で君と話をするまで、俺はこの学校で人と話すことなんてなかったんだ。」


 曽我部の声が静かに響く。その声は少し震えていた。


「最初は一人でもいいと思っていた。今までもあまり友達はいなかったし、そもそも傷つけられたり傷つけたりすることに疲れてたから。」

「………」


 僕はこのときようやく気がついた。

 僕は、曽我部から高校時代までの話を一度たりとも聞いたことがない。

 それは過去から目を背けたい曽我部が話すまいとしていたからだと僕は悟って、しかしかける言葉が見つからず、ただ黙って曽我部の言葉に耳を傾けた。


 すると曽我部は小さく息を一つ吐き、


「それでも、君と話して、君と一緒に授業を受ける毎日は、とても楽しかった。友達とはこういうものなのかと、恥ずかしい話、俺ははじめて知ったんだ。」


 絞り出すように言葉を紡いだ。


「もういいよ。曽我部。わかったよ。オレも、その、お前のことはいい友達だと思ってるし。」


 曽我部の想いの熱量に、僕は少しおののいていた。だからこそ、この話はもうやめようと思った。


 だが、


「いや、聞いてくれ。この三年間、胸に秘めておこうと思う度に弾けるように熱くて、痛くて、…もう耐えられないんだ。」

「……えっ」


 不意に曽我部は僕の腕を掴み、僕と無理矢理目を合わせた。曽我部の眼鏡の奥の細くキツい目が、僕を射ぬかんとばかりに突き刺さる。


 掴まれた腕は焼け落ちてしまいそうなほどに熱かった。


「瀬戸内、俺は今まで人に執着したことがない。だから、この感情の名前がわからない。けど、頭はずっと君のことを考えるし、目はいつも君を追う。だけど耳が、君の声をすぐに忘れてしまうんだ。だから、いつでも君を探してしまう。声が、思い出せなくて、」


 曽我部の震えが腕を通して直接伝わる。

 熱さがどんどん増していく。


 そして、


「たぶん、君が好きなんだ。すごく、すごく、」


 悲鳴のように、曽我部は僕にそう告げた。

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