第9話


「ごめん、曽我部、ごめん。…オレ、この手の話が、その、…よくわからなくて、」

 

 僕は曽我部の顔を見ないように、俯いたまま、へらへらと笑いながら答えた。


 それでも曽我部の手は僕の腕を離さない。


「俺の方こそ、ごめん。こんな話、…気持ち悪いよな。」


 この時ようやく顔をあげた僕の目は、曽我部の悲痛に歪んだ顔を見た。

 途端に僕の顔も歪む。


 「気持ち悪くなんかないよ」との言葉は、確かに喉元まで来ているのに、口に出せなかった。


 気持ち悪くはなかったが、僕は怖かったのだ。


 曽我部の情の矛先にいる僕は、そんなたいそうな人間ではない。応えきれない想いに、僕はただ怯えた。


 その僕の心の動きが、腕を通じて曽我部にも伝わったのかもしれない。


 曽我部は一瞬強く僕の腕を握った後に、そっとその手を離した。


「………」

「………」


 僕らの間に沈黙が流れる。

 廊下や外から漏れ聞こえる楽しそうな笑い声が、僕らをよけいに辛くした。


「…あのさ、」


 しばらくして、曽我部が震える声で絞り出すように言った。 


「…瀬戸内、お願いがあるんだ。」

「…うん。」

「君の時計、俺にくれないか。」


 普通に考えれば、そんな願いを口にすることは憚られる。それでも口にしなくてはならないほど曽我部が思い詰めている事実に、僕の胸は酷く傷んだ。


「うん。いいよ。」


 だから僕は、欠片ほどの戸惑う気持ちを抱くことなく、腕時計を外す。


 曽我部の、ヒリつくほどの感情を、僕は受け止めることができない。それでも、曽我部のために何かをしたいと僕は単純に思った。それが僕の腕時計を欲することなら、差し出すことは厭わなかった。


 たとえ、亡き祖母にプレゼントしてもらった腕時計だったとしても、それを曽我部が望むなら。


「はい。」


 僕はその緑色の時計を曽我部の前に差し出す。


「………」


 曽我部はそれを両手で受け取ると、愛おしそうに握り締め、


「ありがとう。」


 と消え入りそうな声で言った。


「うん。…こんなことしかできなくて、ごめん。」

「いや。十分満足だ。正直、夢のようだよ。」


 そして曽我部は屈託なく笑う。

 僕は、その顔を直視できずに俯いた。


「気持ちも伝えられたし、君の時計までもらえたんだ。…十分、報われたよ。」

「なら、代わりに、」


 途端に僕の口が、思わぬことを口走る。


「時計がないと困るから、…代わりにお前の時計をくれないか?」

「……え、」


 一瞬驚いた顔をした曽我部だったが、


「もちろん。…安物で悪いけど。」


 曽我部は腕に巻いていた茶色いベルトの時計を外すと、僕に差し出した。


 その時の曽我部の満面の笑みは、斜陽に滲んで儚くもどこか遠くに感じられて、僕は受け取る時に少しばかり躊躇した。


     ※ ※ ※


 足を引きずるように家に帰ると、午後11時を回っていた。

 

 僕は持っていた鞄をソファーに投げおき、真っ直ぐ自室に向かって引き出しを開けた。


「……あった。」


 その奥にずっとしまっていた時計を取り出す。


 茶色いベルトの古びた時計は、すでに時が止まって久しい。電池式の時計だけに、修理に出しても動かないかもしれない。


「…ああ、曽我部、ごめん、曽我部、…曽我部っ」


 その腕時計を胸に抱き、僕は何度もその名を呼ぶ。


 僕はずっと目を瞑ってきた僕の心に、今はじめて向き合った。


「…どうして、オレはどうしていつも気がつくのが遅いんだ…」


 僕は、確かに曽我部のことが、好きだったのに。

 

 男同士だからと、そんなことに拘って、僕は世界一大切だった人を失ったのだと、ようやくわかった。


 そしてようやく僕は、彼の死を、理解した。


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