第15話 あやし亭、始動
黒光りする鼻先が、焼けて煤けた半纏の匂いを注意深く嗅いでいる。
まるで銀糸を纏ったように美しく揺れる艶やかな毛並は、開いた障子戸から入り込む陽に照らされて光の雫を零しているようにすら見えた。
呆けた顔で妖狐姿の一葉を眺めている睦樹に、双実が耳打ちする。
「綺麗でしょ」
睦樹は一葉から目を逸らさぬまま、こくりと頷いた。
「とぼけた奴だけど、あれで結構な力を持った妖狐なのよ、あの子」
「玉藻前の血族って、本当なのか?」
ここに来たばかりの頃、確かそのようなことを聞いた。双実はあっさりと頷いた。
「伯母さんなんだって。九尾の狐は妖狐の中でも飛び抜けて艶美だからね。母親も凄く綺麗だったみたいよ」
「だった?」
と言って、睦樹ははっと口を噤んだ。
一葉がここに居るといことは、その先のことは大凡想像が付く。
「一葉の母親は随分前に死んでるわ。人に、殺されたんだって」
「え? じゃあ、どうして……」
言いかけた睦樹の言葉を、双実がきっと強い目で制した。
ぐっと言葉を飲み込む。
「別に、無理して仕事しているわけじゃないのよ。一葉はちょっと厄介な子だけど、そのうちに、あんたにも色々わかるんじゃない」
双実は何でもないことのようにするりと視線を一葉に向ける。睦樹はそれ以上、何も言えなくなった。
「……私もあれくらい綺麗で強かったら、良かったのにな」
黙って一葉を眺めていた双実が瞳の色を落として小さく零した言葉に、睦樹は尚更言葉が出なかった。
二人の目の前で、一葉は半纏から鼻を離すと、ぽん、といつもの人の姿に戻った。
「この半纏の匂い、覚えたよ。伊作って人、探せると思う」
「そうか。んじゃ、よろしく頼むな」
零が頭を撫でてやると、一葉が無垢な笑顔を見せる。
「双実も念のため、匂い覚えとけ」
ずいと差し出されたぼろぼろの布を見て、双実はあからさまに嫌な顔をした。
零が手にしている半纏は伊作のものだ。
火に追われた村人が必死に持ち出した日用品の中でも、まともに形が残っているものを甚八が持ってきてくれたのだ。
「伊作の匂いが付いていそうな何かを貸してくれ」と言われた甚八は、不思議そうにしながらも言われた通りにそれを持ってきた。
焦げて袖が焼け落ちた半纏は、もはやその役割を果たせるような代物でもない。
この半纏が、まだまともだというのだから村の火事も相当に酷かったことが窺える。
しかし、双実が嫌な顔をしたのは、そういう理由ではなく。
「何か臭そう。嗅ぎたくない」
ぷいっと顔を背ける双実に、零は何かを思い出したように首を傾げた。
「……あぁ、……そういえば、伊作が無事に見つかったら、参太が秘蔵の何とかって菓子を、振舞いたいとか何とか、言っていた気がするなぁ……そういえば……」
ぴくっと反応した双実の瞳がきらりと輝く。
「それって、プディング? プディングのこと⁉」
「そうだったような気がしなくもないような、気がするなぁ……」
とぼけた顔で天井を仰ぎ見ながら顎を擦る零を前に、双実が肩を震わせる。
「そ、そこまで言うなら、やってやらないことも、ないわよ」
じりじりと半纏に近づく双実の頭にぴょこりと猫の耳が飛びだし、鼻のあたりにまずるが浮かぶ。
嫌そうな顔をしながらも鼻を近付けてクンクンと臭いを嗅ぐと、すっと素早く離れた。
「そんなに臭くないわね。変わった匂いだから、これならすぐに見つかりそう」
「杉みたいな匂いがするね。線香かな?」
二人の会話を聞きながら、睦樹が半纏に鼻を近付ける。
「うーん」
半纏からは焼け焦げた臭い以外、特に何も臭わない。眉間に皺を寄せる睦樹の頭を零がぐりっと掴んで上向かせた。
「お前ぇにゃわからねぇよ。それより睦樹、二人と一緒に伊作探しに行ってこい」
「行っていいのか!」
零に頭を掴まれたまま顔を明るくする睦樹に零が頷く。
「ずっと隠れ家に居ても詰まらねぇだろ。そろそろ外の空気、吸ってきな」
「うん!」
子供らしく嬉しそうに目を輝かせる姿を見下ろす零の視線に気が付いて、睦樹は表情を隠した。
「べ、別に、久しぶりに外に出られるのが嬉しいとかじゃなくて、里の仲間のこととか調べられるかもしれないから」
「へいへい、良かったな」
睦樹の言い訳を鼻で笑いながらぽんぽんと小さな頭を叩く。
そんな零の手を掴んで怒る睦樹を、一葉と双実は笑いながら眺めていた。
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