第5話 咄家・痾揶尸亭死難

 長い廊下を更に奥に進むと、他の襖とは趣の違う大きな戸が現れた。

 その前で参太と五浦が足を止める。


「ここまでが私たちの生活の場所、皆が隠れ家と呼んでいる場所です。で、この戸の向こうからは、私たちの商いの場所です」

「商いの、場所?」


 参太がこくりと頷いて、大きな戸を開いた。


「あやし亭へようこそ、睦樹君」


 目の前に広がった光景は、大きな飯屋。沢山の卓と椅子が並ぶ店内と奥には厨房があり、一見しては普通の飯屋なのだが、その一角に見慣れないものがある。


「ちょっと変わった作りでしょう? あれは高座です」

「高座?」


 不思議そうに首を傾げる睦樹を、参太が案内する。


「そう、高座。落語をするための舞台です。ここは食事をしながら噺を楽しめる寄席付の飯屋です」


 落語、というものは何となく知っていた。森に棲んでいたときも時々、人里を見回ることもあった。しかし人の生活や文化について、睦樹はあまり詳しくない。


「今は開店前なのでお客さんはいませんが、店を開けるといつも満員御礼。うちは結構人気の店なんですよ」


 参太の言うことは何となく理解できるが、ぼんやりと腑に落ちない点も多々ある。


「ここは、どこなんだ?」


 零が連れてきた隠れ家の場所を睦樹はまだ知らない。しかし、あの入り口は人気のない山奥のようで、とても人が来るような場所には思えなかった。


「ああ、成程。そこからですね」


 睦樹の短い問いかけで、参太は大凡のことを理解したらしい。


「一先ず、このあやし亭は江戸の、どこにでもあります」

「どこにでも?」

「そう、ど真ん中だったり端っこだったり……。場所で言うと、日本橋の裏通りや本所深川、時には上野や浅草の方なんかに出すこともありますね」


 頭の中に江戸の地理がぐるぐる回る。


「そんなに沢山、店の数があるのか?」


 渋い顔になってしまった睦樹に、参太は優しく首を振る。


「店は一つしかありませんが、どこにでも出せる、ということです」


 もっと難しい顔になってしまった睦樹を見兼ねて、五浦が口を挟んだ。


「睦樹が零と最初にここに来た時入った小屋、あれが入り口。その中は亜空間で広い。部屋も増やせる。その部屋は出口として、どこの場所にも繋げることができる」

「どこにでも?! それは幻術か何かか?」


 驚く睦樹に、参太が頷いた。


「睦樹君はもう、あやし亭の面々に何人か会っているでしょう? ここに集う妖鬼たちはそれぞれに妖術を使います。睦樹君が鳥天狗として妖術を使うように、ね。これは、そのうちの一人の力です。おそらくまだ、会っていないと思いますが」

「そんな力があるんだな……」


 一族の中でしか生活したことのない睦樹は、他の妖の力をあまり見たことがない。多少聞いたことくらいはあるが、こんなことができる力があることに驚いていた。


「これはとても特殊な能力ですし、紫苑は我々妖鬼とは、少し違う存在ですけどね」

「紫苑?」

「ええ、普段留守にしていることが多いのですが」


 参太が言いかけた時、からんころんと下駄の音がして一人の男が近づいてきた。


「おぉ、その可愛らしいのが、新入りさんかぇ?」


 寝間着を緩く纏って頭をぼりぼり掻き毟りながら欠伸を噛み殺す男を見て、睦樹が問う。


「あの人?」

「いいえ、違います」


 参太の間髪入れないきっぱりとした否定に少し驚く。


「そんなこと言ったら、紫苑が怒る」


 睦樹を見下ろして首を横に振る五浦を見上げて、言ってはいけないことを言ったらしいと悟った。


「志念さん、今起きたんですか? もう昼過ぎですよ。良い大人が、しだらない」


 参太が困った顔で苦言を呈すると、志念しねんと呼ばれた男は大きな欠伸をしながら、へへっと笑った。


「もぅちょい前に起きたけど、さっきぃ顔洗ってきたぁ。開店はどうせ黄昏だろぉ。まぁだたっぷり間があるじゃぁねぇか。それに妖にゃぁ昼も夜も変わりゃしねぇよぉ」


 妙に間延びした話し方をする男だと思いながら見詰めていると、参太が驚くようなことを言った。


「妖って。志念さん妖鬼じゃないでしょ、人でしょ」


 当然のように流れた言葉に思わず参太を振り返る。


「ここには、人もいるのか?!」


 睦樹のあまりの驚きように、志念は屈んで目線を合わせた。


「おぅよ、わっちは人。お前さん、人と暮らすんは初めてかぇ?」


 面白尽で間近に迫る志念に後退りながら、睦樹は小さく頷いた。


「村人が里の隣に住んでいたけど、あんまり話したこととかは……」


 言いかけて、急に視界が歪んだ。


(あ、れ……?)


 森と村は境界を作り鳥天狗と人は共存しながら住み分けをしていた。一族の里でしか生きたことのない睦樹は、人とまともに接触したことがない。接触は、無かったはずだ。

 睦樹の脳裏に、数名の人間の顔が浮かぶ。同時に自分と何かを話しているような光景が見えた。何かとても嫌な感覚が流れ込んでくる。


(あれは……人? 僕は人と……話を……?)


 ぐらりと傾いた体を、五浦がぐっと支えた。


「睦樹? 大丈夫か?」


 ひんやりとした手が頬に触れて、視界が鮮明に戻った。

 はっと我に返った瞬間、目の前に志念の細い狐目が見えて、びくりと肩を震わせる。


「そないに人が嫌いかぁ、坊。怯えんでも、わっちは何もせんよぉ」


 ぽんぽんと肩を叩いて、志念は立ち上がる。


「しかしまぁ、驚かせて悪かったなぁ」


 志念の申し訳なさそうな表情を見て、失礼なことをしてしまった気持ちになった。


「いや、別に、怯えたんじゃなくて……。その、ごめん」


 一瞬浮かんだ光景は何だったのか。わからないのに、嫌な感覚は拭えない。


「……」


 睦樹の姿を眺めていた志念だったが、ぱっと表情を変えて明るい声音になった。


「坊は、良い子やな」


 そういえばさっきから坊、坊、と呼ばれていることに気がついて、きっと目を上げる。


「僕は、坊じゃない」


 上がった顔を見て、志念は狐目を更に細めた。


「ふぅん、良い目をするねぇ。睦樹、言うたか。よろしゅう」


 すっと手を差し出され、睦樹は戸惑いながらもその手を握る。

 志念は良し良しとばかりにニンマリしながら握った手をぶんぶんと振った。


「知っていたのなら、初めから名を呼んであげてくださいよ。志念さんは意地悪ですね」


 参太にそう言われて、志念は物知り顔で顎を上げた。


「せやかて睦樹は、その名が気に入らんのじゃろ?呼ばれたくないかな~と、思ってな」


 ちらりと目だけを流されて、睦樹はぐっと拳を握った。


「ここに住んでいるうちは、睦樹で生きる。僕は、これから本当の名を取り戻すから」

「そぅか、そぅか」


 軽く流された気がして、むっと顔を顰める。


「大事なうちは早く探しなよぉ。わっちみたいに、どうでもよくなっちまったら、もう思い出せんからねぇ」

「え……? 志念……さんも、無くしたのか? 人でも、そういうことが、あるのか?」


 志念は困ったように笑う。


「わっちは人だけど、ちぃっと長生きしすぎでねぇ。普通の人とは違うんよ」

「それって、どういう……」


 ふわぁ、と一際大きく欠伸をして、志念は目を擦った。


「長く話しすぎたなぁ。眠くなってしもたから、昼寝でもしよかな」


 背を向け、ひらひらと手を振って行ってしまった。


「志念さーん、寄席までには起きてくださいね~」


 答えるように手をぶんぶん振ると、志念は店を出ていく。

 呆気にとられてその背中を見送る睦樹に、五浦が声を掛けた。


「志念も、悪い奴じゃないから、大丈夫」

「彼は人ですが、ちょっと特殊でして。もう千年くらい生きているんですよ」


 続いた参太の言葉に、ぎょっと目を丸くした。


「千年⁉」


 人の寿命は愚か、妖ですらそこまで長く生きるものは稀である。


「それ、本当に人なのか?」


 懐疑的な目を向けると、参太はこくりと頷いた。


「間違いなく人です。時々ね、居るんですよ、死ねない人というのが。死ねないだけで特別な力はない。他は人と変わらないんです」


 只々驚くばかりで、睦樹は言葉を失くしてしまった。


「本人も、長く生き過ぎて昔のことは忘れてしまっているみたいでしてね。生まれがどこかとか親兄弟のこととか、もう思い出せないらしいです。だから私たちとは、ちょっと意味合いが違うんです」


 参太の言う『意味合いが違う』とはつまり、志念は自分のように零から名前をもらった者ではない、ということだろう。

 だから、気が付いた。

 ここに来た時、零は「お前みたいな輩が何人かいる」と言っていた。参太や五浦、一葉や双実は、自分と同じように零から名をもらった妖だ。

 つまり今も、大事な何かを探しているのだ。


(皆も僕と、同じなんだ)


 そんなことを考えている睦樹に気付くことなく、参太は志念の話を続ける。


「普段は江戸っ子口調を意識しているみたいですが、話していると段々上方訛りが混じるから、きっと西方の生まれなのでしょうね。本人はその辺り、どうでもいいみたいですが。色々混ざってもう志念訛りって感じになっていますしね」

「あ! だから名前が、しねん?」


 突然閃いてぱっと目を上げると、参太が「正解」と笑った。


「死ねないから死ねん、で、志念。彼はあやし亭の咄家・痾揶尸亭死難あやしていしねんです。彼の噺を目当てに来るお客さんも、多いんですよ」


 参太の話を感心して聞きながら、睦樹は志念の纏う風変わりな雰囲気の残り香を感じていた。

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